霧ヶ峰(1925.0m)と美ヶ原(2034.1m)

霧ヶ峰(きりがみね)と美ヶ原(うつくしがはら)は、ともに長野県中部の中信(ちゅうしん)高原にある溶岩台地。霧ヶ峰は中信高原の南端、美ヶ原は北端に位置し、百名山に入っているこの二つの高原は、最近、無料開放されたビーナスラインで結ばれている。

     
霧ヶ峰

  平成十六年五月十八日(火)。曇

久しぶりの遠出に心が高揚し、住みなれた町の景色もちがって見えた。まず北陸道に入り、それから名神、中央道と快適に車を走らせて、と言いたいところであるが、名神は集中工事で大渋滞をおこしていた。あまりのひどさに一宮で名神を下り、小牧東から中央道に乗ったが、上が混むときは下も混む。無駄な抵抗であった。

諏訪で中央道を出て白樺湖へ向かう。三〇年前に泊まったことのある白樺湖ユースホステルはまだ健在であった。湖を一周してから車山(くるまやま)高原スキー場へ。リフトが稼働していて車山は歩かずに登れる。そのリフト乗り場の奥に登山口があった。

霧ヶ峰はどこに登れば踏破したことになるのか、はっきりしない百名山の一つ。その原因は、霧ヶ峰という峰が存在しないこと、霧ヶ峰と呼ばれる高原の範囲が曖昧なこと、そしてどこに登れば霧ヶ峰踏破となるのかを深田久弥氏が書き残さなかったこと、などである。霧ヶ峰を「日本百名山」の中で紹介したとき、深田氏は百名山巡りをする人間がどっさり現れるとは考えもしなかったはずなので、何をもって霧ヶ峰登頂とするかなどどこにも書き残さなかったのであるが、この高原の最高点は車山にあるから車山登頂でもって霧ヶ峰踏破とするのが自然である。

駐車場から眺めると、車山山頂はすぐ目の前に見えているが、登山道は勘違いしたような方向に伸びていた。スキー場のゲレンデを避けて大回りしているのである。毎年下刈りをしているらしく斜面に木はほとんど生えていないが、カラ松の小さな林がいくつか残されていて、そこからカッコウの声が聞こえてきた。咲いているのはキジムシロぐらい、芽吹いたばかりのカラ松の新緑が目にしみた。

山頂までは一時間ほどの距離、わずかに雪の残る山頂には、百名山にふさわしからぬ気象観測用レーダーが立っていた。雨が続くなかでの晴れ間ねらいで天気はあまり良くないが、雲の多いわりに遠目がきき、ひときわ白くかがやく山に双眼鏡を向けたら、槍、穂高、常念、が目に飛びこんできた。

周囲を見渡すと、北アルプス、中央アルプス、南アルプス、乗鞍、御岳、富士山、八ヶ岳、蓼科山(たてしなやま)などが確認できた。この展望の良さがこの山の魅力。

五時半ごろ下山したが、五月のことでまだ充分に明るい。そこでビーナスラインを先に進みかけたが、この先にコンビニはないと予感して引き返し、この予感は当たっていた。白樺湖で食料を買いこみ、ビーナスラインの小さな駐車場を一夜の宿にした。正面に蓼科山、眼下に白樺湖、右に八ヶ岳という宿。暮れていく山々を見ながら夕食をとっていたら、手が届きそうな近くの藪でカッコウが鳴き出した。

     
美ヶ原

 五月十九日(水)。曇

朝五時に出発。早朝の新鮮な景色を楽しみながらビーナスラインを走り、八島(やしま)湿原に立ち寄る。ここも楽しい想い出のある懐かしい場所、懐かしいという感情はまったく奇妙なものだなどと思いながら美ヶ原へと向かい、山本小屋の駐車場に車を止めて山頂を目ざす。とはいっても道はホテルの送迎バスが往復する平坦な砂利道、とても登山とはいえない。なおこの道は一般の車は利用できない。

夏の美ヶ原は放牧場として利用されているので、道の両側に柵が続き、その向こうで牛が草を食べていた。草原の中心に立つ「美しの塔」に、「美が原」と題した尾崎喜八氏の言葉が刻まれていた。

「登りついて不意に開けた眼前の風景にしばらくは世界の天井が抜けたかと思う。やがて一歩を踏みこんで岩に跨(またが)りながら、此の高さにおける此の廣がりの把握に尚もくるしむ。(中略)秋が雲の砲煙をどんどん上げて、空は青と白との目も覚めるだんだら。物見石の準平原から和田峠のほうへ、一羽の鷲が流れ矢のように落ちて行った」

美ヶ原は雲上の広大な草原台地。この草原が下界にあればただの牧草地にすぎないが、標高二千メートルの山上に大草原があるのは日本では平凡なことではない。しかも台地の周囲は切れ落ちていて、その急斜面には木々が覆いかぶさるように茂っている。だからその斜面を登りつめて台地の上に出ると、不意に視野が開け世界の天井が抜けたように感じる。ところが歩いて登ってこその美ヶ原、車で登ったのでは何の感激もない。だからビーナスラインができたとき、美ヶ原も霧ヶ峰もその魅力の多くを失ったのである。

山頂のある王ヶ頭(おうがとう)は台地の隅にある小さな盛り上がり、この丘はすぐに見えてくるが、道が大きく迂回しているため一時間ほどかかった。王ヶ頭の上はホテルに占領され、その周囲に十数基の大きなアンテナと、「電波銀座を拓く」という誇らしげな石碑が立っていた。

ところが山頂が見当たらず、山頂を探してホテルのゴミ焼却炉の前を通り、ビール瓶が積まれた通用口を横目で見ながら進むと、ゴミの散らかる裏庭に三角点があった。百名山中、最悪の山、という言葉が浮かんできた。

上越の山も視界に入る美ヶ原は、霧ヶ峰よりもたくさん山が見える。これだけ山の見える場所は他にはないかもしれない、などと思いながらも、強風で寒かったのと、あまりの景観のひどさに早々に下山した。

美ヶ原から見える山々の写真を山本小屋で売っていた。山名も書きこんであるので、帰ってからの楽しみができたと買いこんだ。山頂のホテルは冬も営業しているというから、「こちらも負けずにやれば」と言ったら、「こちらは誰も来ない。するだけ無駄」と素っ気ない返事であった。

     
ざざ虫と蜂の子

信州の珍味「ざざ虫」と「蜂の子」をみやげに買って帰った。ざざ虫はつくだ煮、蜂の子は煎った蜂の子の缶詰、山里ではタンパク質が不足しがちなので、こうしたものも食べるようになったのだろう。

「ざざ虫」を事典で調べると、「流水に住んでいるカワゲラ、カゲロウの幼虫。長野県伊那地方ではこれを佃煮にして賞味する」とあるから、ざざ虫というのは渓流釣りのときにエサにする、水中の石をひっくり返すと石の裏に張りついている平たい虫のことであるが、この虫は腹部がサソリに似ていて、それを見ただけでも食べる気がしなくなるのに、濃い味付けがしてあってもごまかせない嫌な後味も残るのだから、とても賞味するようなものではなかった。私が住む地方には「見苦しい」という意味の「ざざがしい」という言葉があるが、「ざざ虫」は「ざざがしい虫」のことかと思った。

「蜂の子」は地蜂(じばち)という蜜蜂に似た蜂の幼虫。味もにおいも悪くなく、栄養価も高そうである。缶のおもてに「賜天皇ご愛用の栄」「地蜂の幼虫の甘露煮」とあり、谷川俊太郎氏の「はちのこさかなに、ちょいといっぱい。のはらにあそぶ、こらのこえ」という詩も書いてある。なお親も一緒に入っていて、親子ともに食べられるのだから、「蜂の親子」とするべきだと思った。

火打山の登山口の小屋で山菜ソバを食べていたとき、窓からスズメ蜂が飛び込んできた。それを見たおかみさんが、「スズメ蜂が地蜂の巣を荒らして困るんです。蜂の子をとって食べているのに」と言うので、「だったらスズメ蜂を食べればいい。スズメ蜂の方が大きくておいしそうだ」と言うと、「スズメ蜂は大きすぎて煎ってもプチプチしてこないので食べにくい。やはり地蜂の方がおいしい」と言っていた。

スズメ蜂が本堂の軒下に巣を作ったことが何回かあり、一度は墓地の参道の真上だったので巣を落として処分したが、そのとき蜂の子のズッシリとした重さに驚き、これは栄養満点の食材になると思ったのを覚えている。

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