高妻山(たかづまやま。2352.8メートル)

  平成十六年六月二日。薄曇り

長野と新潟の県境にある高妻山は、戸隠(とがくし)富士と称される立ち姿の美しい百名山の一峰。今回はいい山に出会えたと感謝し忘れられなくなる山。

登山道は戸隠牧場から往復する道しかなく、距離が長く沢あり岩場ありで初心者には手ごわい山かもしれない。この山は広義には戸隠山の一部とされ、その場合には戸隠山を表山、高妻山とその奥の乙妻山(おとつまやま)を裏山と呼ぶ。なお下山のとき戸隠山経由で下りることも考えたが、余程の健脚者でないと無理だと分かった。

下見のとき戸隠神社にお参りした。この神社は奥社(おくしゃ)、中社(ちゅうしゃ)、宝光社(ほうこうしゃ)の三社からなり、中社と宝光社の周囲には古びた宿屋が並んでいた。戸隠山は大峰山や羽黒山などと肩を並べる修験道の行場なのである。江戸時代には御輿(みこし)をかついで、江戸まで出開帳(でがいちょう)に行っていたということで、そうしたことから沢山の参拝者があったという。

奥社があるのは戸隠山直下の山懐、そこまで二キロメートルの一直線の参道が通じている。その前半は自然林の中の道、中ほどにある門をくぐると、周囲の木々は杉の巨木に変わる。この変化は参拝者の期待感と緊張感を高めてくれる。奥社ではニリンソウが満開であった。

奥社の駐車場前に戸隠流忍法資料館と忍者屋敷があった。ここは忍者の里でもあったのである。戸隠流忍術は仁科(にしな)大助が、戸隠修験道と飯綱(いいずな)修験道に伊賀流忍術をとり入れて完成したもの、今も三十四代目の宗家(そうけ)が忍術を継承しているというから驚きである。なお飯綱修験道の山、飯綱山は戸隠山の向かいにある。

前日は奥社の駐車場で車中泊。もう誰も来ないだろうと戸隠山に向かって夕食を食べていたら、夕闇がせまる頃なぜか車が集まって来た。自警団のはっぴを着た人がいたので何かの訓練かと思ったら、消防車、救急車、パトカーまでサイレンを鳴らしてやって来た。これは山の事故に違いないと近くにいた人にきくと、遊歩道で子供が行方不明になったという。三〇台ほども車が集まってきたのを見て、遭難というのは大変なことなのだと思い知らされた。

翌朝、高妻山に登っているときヘリの音が聞こえていた。下山してから聞いた話では、雪が残る谷に入り込んでいた子供を、夜が明けてからヘリで救助したという。戸隠高原の標高は千二百メートル、そのため翌朝は車のガラスに霜が下り、車外温度は二度まで下がっていた。子供は半ズボンの服装でその寒い夜を過ごしたのであった。

     
出発

戸隠牧場の駐車場に車を置いて出発。牧場を横断し、植生の豊かな沢を登る。ナメ滝のくさり場まで大して時間はかからない。やがて谷の正面を囲むように垂直、横長の壁があらわれ、岩場の上から滝が落ちている。この岩が難所の帯岩(おびいわ)、堅い岩にしっかりと切られた足場が行場の歴史を物語る。

道は滝を遡上するように続き、そこを登りつめた主尾根の上にあるのが一不動(いちふどう)の避難小屋、この尾根を左に行くと戸隠山、右が高妻山である。ここで高妻山が姿を現すが、尾根が大きく迂回しているので近くに見えてもまだ道のりは長い。

この先は修験道の山らしく十三仏の名前で場所を表している。つまり避難小屋のあるところが一不動、中ほどにある峰が五地蔵、高妻山頂が十阿弥陀、いちばん奥の乙妻山が十三虚空蔵(こくうぞう)という具合。

尾根道には白根アオイがたくさん咲いていた。にぎやかに花を付ける株もあれば一輪だけの株もある。どちらもいいが小さい方が高山植物らしい。千島ザクラの小さな花も満開であった。

山頂に立つと、正面に白馬の大雪渓、見まわすと、黒姫山、飯綱山、苗場山、頸城(くびき)山群の山々、槍、穂高、中央アルプス、南アルプス、さらには富士山まで見えた。展望のいい山である。

百名山の著者、深田久弥氏は、「もう乙妻山まで足を伸ばす元気がなかった」と高妻山から引き返しているが、私もここから引き返した。乙妻山の先に道はなく、戻ってくるしかない。それがこの山の良さを守っていると思った。

山頂直下の急斜面に雪が着いていた。登りは問題ないが、下りは危険を感じる、という状態の雪であった。ところがわずかな距離なのでアイゼン装着は面倒、ということでどうするべきか迷った。そこで道連れになった三人で協議し、持っていないのならともかく、持っているのに横着して滑落したら恥、と装着した。前日に中社のガソリンスタンドで仕入れた、「最後の急斜面でアイゼンが要る」という情報は正確であった。

この日は男性二人と道連れになった。一人は地元の妙高村の人、もう一人は百名山踏破を目ざす七〇歳の名古屋の人。本当はあまりにいい山なので一人でゆっくり歩きたかったのだが、妙高村の人にいろいろ質問をしているうちに道連れになってしまったのであった。人にあれこれ教えるのは楽しいものなので、道連れにされたという感じがしなくもないが、地元だけにこの山の花や山菜のことにやたら詳しく、得がたい道連れであった。名古屋の人はかなり太っているのに、毎日一時間半歩いているとかで足は速かった。

これまで私は山菜には興味はなかったが、山菜に詳しい人と道連れになったことで、今回はじめて山菜摘みを経験した。まずネマガリタケを初めて採った。標高二千メートルのネマガリタケは色白でアクがまったくなく、そのまま網焼きにして食べるとおいしかった。焼く前に縦にひとすじ切れ目を入れると皮がむきやすくなる。

行者ニンニクも初めて食べた。標高二千メートルぐらいの道の横にたくさん生えていた。若葉が一枚出たばかりのときなので、そのまま食べてもアクはなく、さわやかな辛みがおいしかった。

コシアブラも教えてもらった。これはタラの芽に似た植物で、これらは両方ともウコギ科に属し、ウコギの仲間には食べられるものが多い。江戸時代屈指の名君といわれた米沢藩の上杉鷹山(ようざん)公は、生け垣にウコギを植えることを奨励したという。どうせ植えるなら食えるものを植えなさいということで、そのため今でも米沢にはウコギの生け垣が多いとか。

沢でトリアシショウマを見つけた。この名前は新芽が鳥の足に似ていることに由来し、これもアクがなくておいしかった。同じところにニリンソウも群生していた。花が咲いていたので時期おくれと思い摘まなかったが、調べてみたら花もそのまま摘めば良いとあった。なおニリンソウは猛毒を持つトリカブトに似ている。

沢の倒木に正体不明の白いキノコが生えていた。道連れの人が持ち帰って牧場の売店で見せたら、ブナシメジという食茸(しょくたけ)であった。秋のキノコだが春にも出るという。持ちかえってきくという手もあったのだ。

その売店で山菜ソバを食べていたとき、床に転がっていた泥だらけのウドと大葉ギボウシの食べ方をきくと、「こうして食べるのです」と料理したのを出してくれた。ソバもウドもギボウシもみんなおいしかった。

今回も日焼けで失敗した。薄曇りだったので日焼け止めを塗らなかったら、くちびるをしっかり焼いてしまった。雨に降られても風に吹かれても一時の辛抱だが、日焼けはひどいときは一週間も後悔させられる。

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