平家岳(へいけだけ。1441.5メートル)

     平成十六年六月三〇日(水)曇一時雨

平家岳は、福井の山の中でもとりわけ山奥にある山。そのため北陸道の福井から登山口まで二時間ほどもかかるが、岐阜県側の東海北陸道の白鳥(しろとり)からだと三〇分ぐらいである。この山があるのは越前と美濃を分ける越美(えつみ)山地の中、この山地は日本海側と太平洋側との分水嶺になっている。

福井市から国道一五八で岐阜県境の油坂(あぶらざか)峠へ向かっていくと、九頭竜湖(くずりゅうこ)に架かる箱ヶ瀬橋(はこがせばし)が見えてくる。この橋は本四架橋のために試作された「夢の架け橋」と呼ばれる橋、よく目に付く形をしているので見落とすことはない。この橋を渡って右折、面谷(おもだに)橋を渡って左折、そして面谷川ぞいに走っていくと、周囲の景観がすごみを帯びてきて、これはとんでもない所に来てしまったと感じる所に着く。そこが登山口の面谷鉱山跡。

     
面谷鉱山

面谷鉱山はおもに銅を産出した鉱山。開鉱はずいぶん昔のこととされ、康平年間(十一世紀。平安時代)、あるいは康永年間(十六世紀。南北朝時代)に猟師の清兵衛によって発見されたという伝説があるが、実際に採掘が始まったのは江戸時代のことで、福井の大火のあと盛んに木を切り出しているとき銅の鉱脈が発見されてからという。

この鉱山の全盛期は明治、大正時代。その頃ここは穴馬(あなま)銀座と呼ばれるほどに賑わい、戸数は六百、住民は三千人に達し、学校や郵便局や商店街、さらには劇場、料亭、遊女屋まであり、電灯はもちろん電話や電信も設置され、福井県下でいちばん文明開化の進んだ所といわれた。なお穴馬というのはこの辺りの古い地名であり、上穴馬村と下穴馬村が合併してできたのが和泉(いずみ)村である。

ところが大正十一年に閉山したとたん穴馬銀座は廃墟になった。耕地がなく、しかも土地が鉱毒で汚染されていたからである。現在残っているのはボタ山と石垣の跡ぐらい、そのボタ山には今も草一本はえていない。石積みの堰堤も川の中に残っていて、コンクリートの砂防ダムを見飽きた目には新鮮に見えるが、中央部分は流失していて、上流すぐの所にコンクリートの砂防ダムを作っていた。山奥の小さな谷が意外な過去を秘めていることに驚くとともに、世の無常を目の当たりにすることにもなった。

なお箱ヶ瀬橋を渡って左へ行ったところには、平家の落人伝説をもつ荷暮(にぐれ)という集落があった。平家岳の名はこの落人伝説に由来し、荷暮にも銅山があって昭和期まで採掘がおこなわれ、昭和三〇年には戸数三九、人口二二六人とあるが、昭和四三年に完成した九頭竜ダムのために荷暮川下流域が水没することになったことにより、昭和三九年に全員が集落を離れた。ただし今でも夏だけ耕作にくる人があるという。

和泉村には他にも中竜(なかだつ)鉱山があって、そこでは昭和六二年まで銀、鉛、亜鉛を採掘し、現在そこは坑道を利用した観光施設になっている。和泉村は鉱山で栄えた村だったのである。

     
出発

砂防ダム下の河原に車を置いて出発。汚染されている可能性があるから、鉱山のあたりでは水を飲まない方がいいと案内書にあったが、川には澄んだ水が音をたてて流れていた。

工事中の砂防ダムを越えて、ホタルブクロが咲く荒れた林道を進む。この林道ぞいに古い墓や、面谷の歴史を書いた石碑などがあるはずだが、生い茂る夏草で見つからなかった。二〇分ほど歩いた林道終点で川をわたる。ここが最後の水場、川をわたると雰囲気のいいやせ尾根の急登となる。

この日は六月としては格別に暑く、下界では三〇度を超えていた。しかも天気が不安定で、三回にわか雨に降られ、雨具を着けては汗をかき、雨がやむと日焼け止めを塗る、ということを繰り返した。同行の一人は傘をさして歩いていたが、傘かポンチョが正解であった。あまりの暑さに水をがぶ飲みして水を切らし、下山したときに飲んだ面谷川の冷たい水がおいしかった。

送電用の鉄塔をいくつか過ぎて主尾根に出ると、谷の向こうに平家岳と井岸山(いぎしやま?)が姿を現す。平らな山頂のどっしりとした山が平家岳、その横に落ち武者の家来のように控えているのが井岸山。尾根の上部から荷暮に向かう道が分岐しているが、整備されていない道のように見えた。井岸山に登る途中から美濃平家岳への道も分かれている。ネマガリタケの群生地があったが生え方はまばら、ノギランや大葉ギボウシが咲き始めていた。

山頂では満開の笹ユリと、カッコウとウグイスの声が迎えてくれた。細長い山頂の奥に二等三角点がある。全方向とも見晴らしはよく、雲のために遠目はきかないが見える限りは山ばかり、山また山の山奥というのが平家岳の魅力である。何といっても余計なものがないのがいい。道標は必要最小限、山火事注意の見苦しい横断幕も、何月何日に登りましたという札もなく、携帯電話も圏外。

これで鉄塔が無ければ言うことなしであるが、この鉄塔のおかげで簡単に登れるようになったのだから文句は言えない。鉄塔は九頭竜ダム発電所の電気を送るためのもの、登ってきた道は鉄塔保守の巡回路、つまり電力会社が登山道の整備をしてくれているのである。

この日、会ったのは六〇代ぐらいの夫婦のみ、なんと抜かれてしまった。下山後、和泉村の温泉で入浴してソバを食べ、あとはひたすら車を走らせて帰った。

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