湯たんぽ
          羽田竹美


 東日本大震災から一年が経つ。昨年の夏には節電が叫ばれ、暑さと闘っていたが、この冬もできるなら節電をと、電気毛布の使用をやめた。
 押入れの奥に眠っていた湯たんぽをひっぱり出して、使えるかどうかお湯を入れてみた。注ぎ口のゴムはだめになっていたが、ふとんの中にそっと入れて動かさなければ何とか使えそうだ。
 電気毛布だと夜中熱くなって、「弱」にすると、明け方に気温が下がるので足が冷えてきて両足が攣(つ)ってしまう。両股関節を人工に換える手術をしているのでどうしても血流が悪くなっているのだろう。長いこと立っていても、たくさん歩いた後も、両足が痺(しび)れてくる。また、運転しているときに右足が攣ってくると、痛みを堪えての運転はかなり辛い。
 明け方に足が攣るのは、冷えるのと水分不足だといわれている。明け方の少し前に起きて温度を調節すればよいのだが、そのころは熟睡していて、足が攣って目が覚めるのだからどうしようもない。
 今年は電気毛布をやめて湯たんぽにすると、不思議なことに足が攣るのがまったくない。ベッドの壁側の足元に入れておくだけでふとんは温かくなっている。冷えているのは足だけなので夜中に熱くなって目覚めるというのもないし、明け方、
「痛たたた!」
 と、大声を出して飛び起きるのもなくなった。

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二枚目

 湯たんぽを一昔前の非文明的なものであるとばかにしていたのだが、今は毎晩湯たんぽの恩恵にあずかっている。
 少し前の新聞の投稿欄に『湯たんぽを愛と呼ぶ我が家』と題するものが載っていた。家族で小さな親切を愛と呼ぶことが流行り、今では湯たんぽを相手に気づかれないようにこっそり入れると、相手のうれしそうな感謝の声が聞かれるそうだ。湯たんぽがこの家族の「愛」の代名詞となり、「今日は帰りが遅いから愛をお願いね」と、なるのだという。なんと素敵な家族であり、ご夫婦なのだろう。私も夫が生きていたらそんな「愛のあそび」をしてみたかった。
 骨髄炎にプラスして腎臓と肝臓が悪くなった夫は、二年間入院していったん退院した。家に帰りたくてたまらなった夫にとってやはり、家は安らぎだったのだろう。「家はいいなぁ」という言葉を何度も言っていた。
 けれど、股関節の悪い私は夫の介護がかなりの苦労だった。骨髄炎を患っている大腿部が腫れてくると、熱が上がり、「寒い寒い」とさわぎだす。湯たんぽのお湯を沸かしている間が待てないのだ。湯たんぽを二つ入れ、患部をアイスノンで冷やすため、私は痛む足を無理して家中を走り回る。あのときの湯たんぽを「愛」などと言う余裕はまったくなかった。
 そのときの湯たんぽが押入れの奥から出てきたのだ。夫が亡くなったとき、悲しいものは見たくなかった。押入れの奥深くにしまいこんで、封印してしまいたかった。捨てることもできないそんな思い出の品が今もたくさん残っている。
 十八年も経った今、押入れをさぐりだしてそれらの品を取り出してみると、心が苦しみを乗り越えた充実感に満ちているので湯たんぽは懐かしい思い出となっていた。それだから、悲しいものではなく夫の温かさが伝わってくるのかもしれない。

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三枚目

 私が幼いとき、母が毎晩、祖母のふとんの中に湯たんぽを入れてあげていたから湯たんぽというものは年寄りか、病気の人のふとんに入れてあげるものだと思っていた。私の中にはこれは弱者のためのものである、と感じ取っていたようだ。
 母は私の実家に赤ちゃんのとき養女となった人なので、生みの親である祖母に育ててもらっていない。が、何故かその祖母が私の家にずっといたのである。
 母が湯たんぽをふとんにそっと入れてあげると、祖母は遠慮がちに、
「湯たんぽがあると、夜中におこよば(トイレ)に行かなくて助かるよ」
 と、感謝をこめて言っていた。
 それを聞いていた私は、母が祖母にやさしくしてあげている、とうれしかった。そのとき、私も大きくなったら母のように年寄りにやさしくしてあげよう、と思ったのだった。
 いま、私は年寄りになった。湯たんぽを入れてくれる人はいないので、自分でお湯をわかし、あったかい湯たんぽをふとんに入れる。湯たんぽを抱きながら、
「なんて幸せなんでしょう」
 と言い、寝るときに冷えた足を温かいふとんにつっこむともう一度、心と体がつぶやく。
「なんて幸せなんでしょう」