私と車
        石川 のり子

 
 六月十六日は、父の祥月命日である。
 もう四十年もの歳月が経ったが、梅雨の季節になると父が偲ばれる。
 六十七歳の父の命を奪ったのは、免許を取ったばかりの十八歳の青年だった。場所は、柏崎・刈羽原子力発電所に通じる真っ直ぐな新しい道路で、周囲には田植えの済んだばかりの水田が広がっていた。
 まだ元気だった父が交通事故に遭うなんて信じられなかったが、友人と海に遊びに行く青年は、よほど浮かれていたのか、前方不注意とスピードの出しすぎで、ブレーキさえ踏んでいなかった。
 私の結婚した翌年のことで、父に花嫁姿を見せられたのが、せめてもの親孝行になった。
 新潟市内に住んでいる兄は、たまたま実家近くに戻っていたので、救急車で運ばれた父の遺体に、医師として立ち合った。事故の怖さを目の当たりにしたせいか、アメリカの大学で研修していたときは車を運転していたようだったが、日本では運転をしなくなった。姉たちも乗せてもらうだけである。

 私は、必要にせまられて三十数年間、ほぼ毎日のように車を運転している。父の死は忘れていないし、六月には父を偲び、好きだった紫陽花の花を生けている。安全運転を心がけ、初詣には交通安全の祈願をしている。
 わが家が交通の便の良い所なら、車は必要なかったのだが、駅まではちょうど一キロ離れていて、小児科も幼稚園も小学校も駅の反対側の一キロほど先にあった。わが家の裏側には丹沢山系が連なっているため懐が狭く、バスも通っていなかった。
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二枚目
 私は自転車を買って愛用していたので、さほど不便を感じなかったが、幼い娘たちのことは心配だった。ことに気管支の弱かった次女が高熱でぐったりしているときなどは、小児科に連れて行く車が必要だった。引っ越す前に住んでいた世田谷の夫の実家が駅まで二、三分と便利だったので、ことさら感じたのかもしれない。
 迷った末、専業主婦だった私が、車を運転することにした。母には、次女を幼稚園に送り届けて、二駅離れた自動車学校に行っていると、手紙で知らせた。母は、くれぐれも気をつけて頑張りなさいと、私の立場を理解してくれた。

 初めてのマイカーは、夫のお気に入りの三菱自動車のミラージュだった。グリーンに黒のラインが入っていて、どこに駐車していても目立つ車だった。家族でのドライブの写真がずいぶんアルバムに貼ってある。
 その後購入したのが、同じミラージュの紺だった。私が近くの大学に勤務を始めたので、通勤の足になった。夫はむろんのこと、娘も中学生と高校生になり、送迎で大活躍した。
 伯母との忘れられない思い出があるのが、次に購入した白い車だった。同居していた伯母の生家(静岡県焼津市)に二、三度行った。この伯母が骨折したときは、夜だったので帰宅の都合を考えて、救急車には同乗せず、夢中で後を追った。三週間の病院通いと、危篤の知らせで大学生の次女と病院に向かったのも、この車だった。
 自宅での葬儀は初めてのことで戸惑うことが多かった。一人で車を運転しているときなど、伯母と暮らした二十四年間を思い浮かべ、教わることばかりだったことを感謝した。母とも義母とも異なる親しみを感じていた。
 この車は十年ほど乗って愛着があったが、シルバーホワイトのトヨタのヴィッツに替えた。
 
 平成十三年に購入したヴィッツは、小型で形が良く値段も手ごろなせいか、運転していると必ず何台か見かける。十一年間も乗っているのに、遠出をしないせいか、走行距離は五万キロにもなっていない。不具合もないので、まだ安心して乗ることができる。
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三枚目
 しかし、車検をひかえていることと、そろそろ湘南ナンバーから土浦ナンバーに替えて、地元にとけこみたいという思いがある。
 それに、いまだにわが家の車庫入れがスムーズにできないで、車体にスリキズをつけることがある。古希に近い年齢を考えると無理はしたくない。
 軽自動車なら車幅が二十センチほども狭いので、小回りがきく。ときどき着る和服でも運転席に自由に乗り降りができる。
 いろんな点を考慮して、販売店でエコカーの軽自動車に試乗してみた。それほど狭さを感じないし、燃費も良い。ブレーキを踏むとエンジンが切れて、アクセルを踏むとエンジンがかかるという優れものでもある。
 心が決まった。

 お別れの洗車をしていると、夫とのいろんな思い出が頭を過ぎった。助手席に座ると、交わした会話まで浮かんでくる。何より辛かったのは、大学病院で夫の検査結果を聞いた日だった。夫は、
「親父より長生きしたからね……」
 と呟いた。義父は学生運動の矢面に立たされて収拾に苦慮していたが、肺癌で六十年の生涯を閉じた。夫は常々、「親父と同じ六十まで生きられればいい」と言っていたが、学生時代からアメリカンフットボールに夢中になっていた頑丈な夫が、病に倒れるなんて私には考えられなかった。
「わたしがいい奥さんじゃなかったから、病気になったのかしら? ー心細いこと言わないで、長生きしてね」
 返事はなかったが、夫はどんな顔をしていたのだろうか。

「一寸先は闇」という耳慣れた言葉どおり、私に残された時間がどのくらいなのか予想もつかない。だが、家に閉じこもらずに前向きに生きるためにも、安全運転で新車のピクシス・エポックと長くつきあっていきたい。