私の「十七音」人生
             山内美恵子


 二十代のはじめ、俳句の森に足を入れて半世紀余りになる。俳句に深く心を誘われたわけではなかった。ある時突然、神意のごとく私の口から十七音がこぼれ出たのだった。
 それまで私は、詩や短歌に惹かれ、定型の俳句には全く興味がなかった。そんな私に、五十年の長きにわたり、よく十七音が寄り添ってくれた、と感慨が湧く。

 昭和三十六年仕事に就いた次の年、私は虫垂炎を患った。術後の経過が悪く合併症を併発。一カ月の入院生活を余儀なくされた。
 病室の窓の外には、田植えを終えたみどりの絨毯(じゅうたん)が広がっていた。ある日、読書で疲れた目を癒していると、よこ一列にならんだ黒くうごめく人影を発見。田の草取り風景であった。長時間の四つん這いの労働は、病の身に強烈な印象を与え、私の心をゆさぶる。
 突然、私の口から十七音がこぼれ落ちた。
 その十七音を、地方新聞の俳句欄に投句した。俳句のいろはも知らない者の戯(げ)作である。選に入るなど考えられなかった。しかし、活字になっていた。よろこびよりも、狐につままれたような気持だった。
それこそが、私の十七音人生の始まりであった。
 私の前に突然、未知なる風景が広がった。あわてて歳時記を求め、俳句の勉強を始めた。当時私は、会津若松市に住み、勤務地に通っていた。会津は、伝統を重んじる封建的な地柄である。だが、文化レベルは高く、俳句や短歌を嗜む人が多い。活動も活発だった。句会や吟行等の催しに参加し修業した。
 仕事柄私は、市町村の職員や住民と接する機会が多かった。俳句に携わってきたおかげで、仕事がしやすく様々な恩恵にあずかった。よほど俳句を詠む小娘が、珍しかったのだろう。
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二枚目
 勤務地の県の役所には、毎日「福島民報」の記者が訪れた。記者は句歴も長く、小説部門で県の「文学賞」を受賞された方だった。私は大会等の自選に迷うと、記者にご指導を仰いだ。記者の実力は高かった。選択をしていただいた句は、必ず大きな賞を受賞した。
 次第に私の心に弾みがつき、修業にも一段と力が入った。日々四季の営みに目を凝らし、生きとし生けるものを愛(め)でた。
 昭和四十年以降になると、各地でカルチャー教室が開催され、女性の俳句人口が急増した。私も十七音を楽しむ心地よさを覚え、句作と仕事に充実した日々を過ごす。そんな折、既に入会していた俳句結社の大先輩から、中村草田男先生が主宰される会にも、入会するよう強く勧められた。
 当時、草田男先生は、俳句界の巨星であられた。「萬緑」という新季語を生み出され、「降る雪や明治は遠くなりにけり」は、有名な句だった。しかし、地方に住む初心者の私は、それ以外のことは何も知らなかった。入会して間もなく、私のような小娘が入る所ではなかった、と深く恥じ入り後悔した。
 偉大な先生には、やはり日本中の偉大な方々が集う、レベルの高い結社だったからだ。会員の多くは、医師、大学教授、経営者、僧侶等、知識階級のそうそうたる方々と、その奥様方であった。俳句の高さは言うまでもない。難解な句も少なくなかったが、どの作品も優れ、品格があふれていた。
 人間探求派と言われた、草田男先生の器は大きく、実に人間味あふれた温かいお方であった。偉大な先生にも拘わらず、小娘の拙く直截(せつ)的な句を、毎月温かい眼で丁寧に選句して下さった。私は、末席を汚すだけの存在にすぎなかった。だが、歴史に残る先生の下で学ぶことができたことは、貴重な人生体験であり、誇りでもあった。
 草田男先生は、ご著書『俳句と人生』の中で、「俳句は入りやすくして達しがたいという世界なのです。まずくともいいのです。(略)俳句独特の喜びは、われわれいのちある者が自分の中から出てくる自分の経験を『いのちあるもの』に変形させてゆくその瞬間の歓びなのです」と、述べられる。
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三枚目 
 私は草田男先生の教えを胸中に、句作にいそしんできた。その一方で、随筆をもしたためてきた。随筆に力を注ぐと、句作が疎かになった。両方を十全にと思うと、時間が足りない。どちらも一語一語ことばを磨き、積みあげていく作業だからである。俳句は毎月の提出を義務付けられている。
 私には俳才も文才もなかった。そんな自分の無能さを認識しつつも、俳句を断念することができなかった。一瞬の歓びを十七音に託す俳句は、ことばの力によるところが大きいからである。
 俳句の森は、ことばの森でもあった。十七音の短詩である俳句には、魂を震わせるいのちのことばが満ちみちている。かつて、十七音が私の口をついて出たのも、強い身体に恵まれず、度々病にとりつかれて生きている私に、生の支えとなるものを、神様がお与え下さったとしか言いようがない。
 病気はより深い悲しみを誘う。だが、どんな病を得ても、病気に負けることはなかった。句作は病気を忘れさせ、心を鎮めてくれた。病床ほど佳句ができたのも、神意の如きことばが、しぜんとあふれ出たからだ。それらは、病の哀しみや自信を失った心を癒し、生きる力を引き出してくれた。
 しかし、俳句が自分に向いていると思ったことは一度もない。それでも執着してきたのは、私の人生は、十七音に生きる力をもらい、生かされてきたからだった。俳句にめぐり合ったことで、新しい世界がひらけ、私の人生はむしろ深められたからである。
 それは病気の時ばかりではなかった。文章を紡いでいると、俳句に導かれている、と感じることが少なくない。俳句は写生と感動の一行詩である。「一幅の絵」のように詠むには、一語一語が生命となる。凝縮したことばの力こそが、たった十七文字とは思えない、大きな世界を生むからだ。
 長年のそんなことばとのたたかいは、私の文章表現を、大いに助けてくれた。俳句の森から、私は豊かな日本のことばを享受し、実に多くのことを教わった。特に、古典や俳句の文語表現や文法等の学びは、読書や書くことの視野をも広げてくれる。
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四枚目 
 歌人上田三四二は、短歌も俳句も日本語の底荷だと、ご著書『短歌一生』で語る。「私は、短歌、俳句の言葉は日本語の中でもとくに格調の正しい、磨かれた言葉だと思っている。正確に、真実に、核心を衝く言葉を選ぶのが短歌であり、俳句である」と。
 しかし、老境に入った私は、未知なる発見に心を躍らせた若い頃とちがって、目も心も白内障気味となる。写生の眼も感性も老い、詩眼も濁る。魂の震えるような、きっぱりした迫力のある句も、静かで品格のある、みずみずしい句も遠くなる。
 とりわけ随筆に至っては、生きてきた証を、手を抜かずにしたためておきたい、という思いから、つい言い過ぎてしまう。自ずと洗練されない駄作となり、恥じ入っている。それは表現者として、技術も人格も未熟を意味するからである。
 しかし、ゆったりとした寄り道にも効用があるように、文章といえども無駄も決して侮れない。駄作にこそ、技巧を凝らした端正な文章にはない、私らしさがあり、私の人生の本当の味わいがある、との思いを深くするからだ。俳句も随筆も、その人の人生観が感じられない作品は、物足りないからである。  
 それは、単なる私の負け惜しみにすぎない、と失笑を買うことだろう。そんな駄作を人前にさらすことは、恥の上塗りでもある。しかし、巧拙を目的にしない今、これからも私は、自在にのびやかに、生きてきた証を紡いでいこうと思っている。表現するものとしての、謙虚さを忘れることなく――。 
 江戸時代前期の儒学者、伊藤仁斎は世に処する人の道を、「譲り」という一語に縮約した。老境の近年は、仁斎のこのことばがより好きになった。道を急ぐ人には「どうぞお先に」と心を配り、仁斎の譲りの精神で、心静かにゆったりと暮らしたい。と、しみじみ思うようになる。ゆとりがないと、感受性が鈍り、創造力も生まれにくいからである。

 やがて頽齢となり、駄作すら書けなくなっても、十七音だけは私に寄り添い、心を癒してくれることだろう。せめて終焉までに、「己の心田を飾る、魂の一句を詠む」その夢だけは譲るまい。と、自分に言い聞かせている。