別 れ
          石川のり子

 別れは、突然でした。
 昨年(平成二十一年)八月一日朝、「月刊ずいひつ」の神尾編集長が亡くなられたことを、柏木女史のお電話で知りました。
 一月末に古希のお祝いをされたときは、お元気そうでしたのに、がん細胞は容赦なく臓器を侵していたようでした。
 私は、亡くなる半年前から週に一度、協会の簡単な事務的なお仕事を手伝っていました。月刊誌の発行や単行本の出版で、猫の手も借りたいほど忙しい状態でしたので、仕事に慣れるにしたがい、週に三回ほどは出勤するようになっていました。
 今、振り返りますと、私の出勤日数に反比例するかのように編集長の出勤が少なくなっていました。
 ご自宅でお仕事をされていたようでしたが、体調がすぐれなかったのでしょう。たまに夕方出勤されて、「お世話になっています」などと、私に声をかけてくださることもありましたが、私は、編集長の体調を気遣う優しいことばを口にしませんでした。ただ事務的に校正や添削などの指示を受けると、慌ただしく帰り支度をしていました。銀座から茨城県の我が家までは一時間半ほどかかりますので、ラッシュアワーを避けたかったのです。

 編集長は我慢強い方で、愚痴などいっさい口にされませんでした。ゆっくりとお茶でも飲みながら病状を伺っていたらと、残念で仕方ありません。稀にしかお会いしませんでしたので、最後にことばを交わしたのが何日で、どんな内容だったのかもはっきり覚えていません。

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二枚目

 私が「月刊ずいひつ」を手にしたのは、三十年ほど前でした。勤務先の大学図書館で、閲覧室に雑誌を配架する際、何気なくページを開きますと、作者の身近な暮らしが読みやすい文章で書かれていました。専門書の多い雑誌の中で新鮮に感じ、毎月楽しんで読むようになっていました。
  一年ほどが経ったころ、読むだけではなく自分でも文章を書きたいと思うようになり、文芸講座に申し込みました。
  とはいっても、特別な文才があるわけではありませんから、編集長の添削指導を仰いだのです。私は四十歳になったばかりで、二人の娘、夫、同居しておりました伯母のことなど、題材は豊富にありました。常にアンテナを張り巡らせ、編集長のアドバイスを参考に原稿用紙を埋めていました。書く意欲は初心者のころがいちばんあったように思います。
  長年書き続けていますと、作品もたまり、勧められるまま三冊の本にまとめました。ひも解くと当時が鮮やかに浮かび上がってきます。また、うれしいことに「月刊ずいひつ」誌上をとおして、全国各地に仲間ができました。作品から暮らしぶりが想像できて、年に一度の授賞式にお会いするだけなのに、親しい友人のようにおしゃべりに花が咲きました。
 編集長には二十数年間も作品を見ていただいていましたから、さりげないコメントでずいぶん励まされ、生きる勇気をいただきました。
 長い間お世話になっていながら、感謝のことばを申し上げずに、永遠のお別れをしてしまったことが悔やまれます。
 ご本人の希望で、協会員に知らされず、旅立たれましたので、私のように寂しい思いを抱いておられる方は多くいらっしゃることでしょう。

 編集長が亡くなられて一年、日本随筆家協会の仲間たちが、それぞれに発表の場を求めて活動を始められたと、耳にしています。
 蒔いた種が大きく育っていくことに、編集長は満足されていることでしょう。
 私はこの「文学交流の広場」が、読者や書く場を求めている方々の憩いの場になれば、どんなに素晴らしいかと、胸を躍らせています。