次の楽しみ
                 黒瀬長生

 マイカー通勤中のラジオから、女性のアナウンサーが、子どもたちに夏休みをどのように過ごしていますか、と話しかけている声が聞こえた。
 子どもは、「セミを捕った」「田舎に行った」「海で泳いだ」「魚釣りをした」「遊園地で遊んだ」「飛行機に乗った」と、それぞれ異口同音に、夏休みを満喫している状況を楽しげに話していた。
 そのうちに、一人の子どもが、
「楽しい夏休みが、残り少なくなった……」
 と、寂しそうに言った。
 しばらく間を置いて、他の子どもが言った。
「次は運動会があるじゃん」
 その子どもたちのやり取りを聞いていたアナウンサーは、「次の楽しみですね……」と、言葉を継いだ。
 私は、この『次の楽しみ』という言葉に、異常に心を動かされた。ことに今日は、お盆の連休明けの出勤なので、なおさら納得させられたのである。
 お盆や正月、お祭りや夏休みなどが終わると、誰もがなんともいえぬ寂しさと虚脱感に陥ってしまうが、私もそんな気持ちでハンドルを握っていたからである。
 当然、来年のお盆の連休は、遥か先のことである。呑気に歳月が過ぎるのを待っていたのでは気が遠くなってしまう。その間に、いずれかの楽しみを見いだす努力をしなければならないのである。
 それには、まさに『次の楽しみ』を見つけることである。それも、私たちはついつい大きな楽しみばかりに執着しがちであるが、小さな楽しみで充分である。
 日頃の生活の中で小さな楽しみを思い描いてみると、夫婦で食事に行く、映画を見る、旅行に行く、ドライブをする、温泉につかる、読書や趣味に没頭する、神社仏閣に参る、友人と酒を飲む……など考え方しだいでいくらでもある。
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二枚目
 しかし、私たちは、これらの小さな楽しみや喜びを、普段は見落としがちである。時には、その楽しみや喜びを実現するために、いろいろ思いを巡らして計画を立てるだけでも楽しいことであるのに……。
 『次の楽しみ』が終われば、また『次の楽しみ』を見つける。その連続で一年間ぐらいはすぐ経ってしまうであろう。
 日常の些細な出来事を楽しみとして受け止められるかどうかは、まさに感受性の問題で、心の居場所を安定させていればいくらでも見いだすことができそうである。
 ことに、毎日を平々凡々と惰性で送っているときこそ、なおさら楽しみを見いだす努力が求められているのかもしれない。 
 誰しも、日々嫌なことに遭遇して思い悩むことがある。しかし、生涯忘れることはないだろうと思い悩んだような心底嫌なことでも、時間が経過すれば、脳裏の記憶からすべてが消えてしまうのだから、本当にありがたいことである。
 人生、悩んだり苦しんだりの繰り返しであるが、そのなかに小さな楽しみを織り込めば、生活に少しは潤いが出てくることは確かである。『次の楽しみ』は、その気になれば私たちの目の前にいくらでも転がっているはずである。その小さな楽しみの積み重ねこそが、結果的に大きな楽しみとなるのである。
 まず、小さな楽しみを見つけることから始めよう。じっと待っていたのでは楽しみを手にすることはできない。とにかく行動することである。
 そのため、私は次の休日に囲碁敵(がたき)と対局する、と決めた。早速彼に電話をしよう。その対局で勝てば、楽しみが倍加することは間違いないであろう。
 囲碁の対局が終われば、また新たな『次の楽しみ』を見つけよう。
『次の楽しみ』探しに専念しながら、少しは充実した日々を送るのも満更ではないかも……。