鼓の瀧
            早藤貞二


 室町時代を代表する庭園はといえば、天龍寺や金閣、銀閣の名が思い浮かぶが、滋賀県にもいい庭があるはずだと思い、近江の文化財地図を広げてみた。「旧秀隣寺庭園」というのが目に入った。それは比良山の裏側で安曇川を遡った山の谷間にあり、国指定の名勝にもなっている。私はすぐにでもこの庭を訪ねてみたい衝動にかられた。
 梅雨の晴れ間の、ある日曜日の朝、私は妻を誘って高島へ出かけた。国鉄湖西線の安曇川駅で降り、バスに乗り換えた。幾つかの集落を過ぎると、しだいに両側から山が迫ってきて、安曇川の白い流れが姿を現す。近江耶馬渓の名がある美しい渓谷を真下に眺めながら、バスは三十分ほどで市場という所に着いた。
 若狭街道に沿って、岩瀬まで歩く。昔、朽木陣屋があったという高台には、中学校の白い建物が聳(そび)えている。さざ波を立てて大きく蛇行する安曇川に、鮎釣りの人影が点々と続く眺望を楽しみながら、岩瀬の集落に入る。ひなびた家や店が立ち並んで、ふと自分たちが江戸時代の旅人になったような気分になる。四つ辻に大きな地蔵さんが立っていて、山手の坂道を五十メートルぐらい上りつめた所が興聖寺(秀隣寺のあとに移建された禅寺で、朽木氏の菩提寺)であった。苔むした石垣と、林立する杉の巨木が、この寺の歴史を物語っているように思えた。広い寺域に、古びたお堂と鐘楼、庫裏が散らばっている。お堂の本尊は平安時代の釈迦如来(重文)で、穏やかなお顔のいい仏さまであった。閑散とした境内の砂地を斜めに横切って行った所に、目ざす「旧秀隣寺庭園」(「足利庭園」とも呼ばれている)があった。
 大小の苔むした岩石が無数に切り立っている間を、きれいな山水が巡っている。樹木の切れ間からは、比良山系の一つ、蛇谷が峰の秀麗な姿が浮かび上がって見えた。
 東の方は小高い築山になっていて、天に向かってそそり立つ一本の杉の木の前に、大椿の木が何本か植えられ、深い緑の蔭を作っている。白い花が咲き残り、地面にもたくさんの花びらが散らばっていた。
     → 二枚目へ



二枚目
 谷から引かれた清冽な水が、木々の太い根を洗いながら、瀧となって池に落ちている。その水音があたりの静寂にこだまして、極めてリズミカルな音色をかなでている。古来、「鼓の瀧」と呼ばれてきたゆえんである。瀧の石組も豪放で、水しぶきを浴びながら、力強くいきづいている。 
 水は木々の緑や白い雲を映しながら、護岩石の間をゆっくり流れていく。曲水の宴が催された所らしく、亀島、鶴島に沿って、細長い流れになっている。
 亀島の、頭をもたげた亀の豪勢な石組はどうだろう。両側に踏ん張った足の強さ、尻尾を表した石の、大きくて鋭利な形象。この庭の作者の、非凡な才能を感じないわけにはいかない。
 平らな自然石が、七、三に折られて、岸辺から出島の方に架けられている。「楠の化石の石橋」と言い伝えられている物である。
 豪快さでは、鶴島も決して亀島にひけをとるものではない。巨石が巧みに組み合わされ、椿と楓の木が形よい枝葉を大きく広げている。楓の緑が日の光を受けて、燃えているように美しい。適度に風化した岩肌の色も見飽きない。
 水は鶴島のまわりを滑るように流れて、下の草むらへ勢いよく落ちていく。何という快い響きであろう。
 池の対岸はなだらかな築山で、芝草の間に幾つかの岩石が屹(きつ)立している。椿の木の根本には、三尊石をあらわした見事な石も見える。
 この庭は室町末期、下剋(こく)上の世相の中を生き抜いた一人の武将、細川高国の作と伝えられている。享禄元年(一五二八)八月、弱冠十八歳の足利十二代将軍義晴を奉じた高国は、三好長基との争いを避けて、近江源氏の一族、朽木稙綱(たねつな)に助けをを求めた。稙綱はこの地に居館を築き、丁重に将軍を迎えたのである。浅井亮政や朝倉孝景らも馳せ参じ、流浪の若き将軍を慰めるために、この庭園を贈ったと伝えられている。
「ここから眺めるのがいちばんいいわ」
     → 三枚目へ



三枚目 
 山手の一段高くなった所に、簡素なあずまやが建っていて、そこから妻が言った。あずまやに入ってみると、なるほど、庭園全体が安曇川や比良山の雄大な眺めを背景にして、きれいに納められる。稙綱が義晴のために建てた館も、おそらくこのあずまやの位置であったろうと思われる。私は近江武士出身の画家海北友松の障壁画を思い出した。戦国武士の一瞬の生を賭けた、真剣さと、力強さと、均衡のきびしさとが、高国の庭にも、友松の画にも漲っているように思えた。
 天龍寺や金閣、銀閣の美しい庭園を、祖先の庭として親しんできた義晴の心には、庭園に対する限りないあこがれが宿っていたことだろう。「近江国興地志略」には、「仮山は即義晴自ら築かれし云」と、書かれている。義晴は三年間この地に留まっていたそうであるが、「鼓の瀧」の水音が、どれほど彼のわびしい心に触れあい、励ましを与えたかは、私にもよくわかるような気がする。
 庭を作った高国は、四年後に戦に敗れて自刃している。義晴も再度の近江流浪中、坂本で病死した。浅井、朝倉もほどなく滅亡して果てた。苔むした数々の庭石を見つめ、「鼓の瀧」の響に耳を傾けていると、京都に近い、中世近江の大きな歴史のうねりと、人間の運命のはかなさを考えさせられる。
 居館はその後、稙綱から四代あとになる宣綱の夫人(京極高次や太閤の側室松の丸の妹にあたる)の住まいになっていたが、夫人の死後、その贈り名「周林院」にちなんで「秀隣寺」と改められた。その秀隣寺も、江戸の中ごろ、安曇川の向こう岸へ移されたということである。
 囲いも、館も、方丈も無くなって、庭だけがひとつ、美しい大自然の中に取り残されている姿が、よけいに人の心を引きつけるのであろうか。
 秋の月の出ている夜か、冬の雪に覆われている夕暮れにでも訪れることが出来たら、もっとこの庭の壮絶な美しさが味わえるのではないか? こんなことを思い、石庭に名残を惜しみながら、私たちはお寺の門へ向かった。
 日ははや山の端にかかり、河面からは涼しい夕風が立ちはじめていた。