「その日」の感動
               羽田竹美


 その日、梅雨晴れの太陽が気温を急激に上昇させ、東京は三十四度を上回っていた。夕方の五時になっても気温は一向に下がらない。
 庭の八重桜の枝にかけられた巣箱には、シジュウカラの親鳥が二羽でひっきりなしに虫をくわえてくる。雛の声が日に日に大きくなり、巣立ちも間近だろうと感じていた。
 しかし、もう何年も前に見た巣立ちは、よく晴れた日の午前中か、お昼ごろだった。巣立ち雛を日没までには外の世界に慣れさせるためなのだろう。時期も、ゴールデンウィークを少し過ぎたころであったような気がする。
 今年は随分遅い巣作りであった。もしかしたら一度失敗して二度目であったのかもしれない。
 今のこの巣箱は「日本野鳥の会」で新調したものである。その年の春、古い巣箱で子育てをしていたシジュウカラが巣立ち寸前でハクビシンに襲われてしまったのだ。 早朝であったので、私は気がつかなかったのだが、庭に無残に壊された巣箱が落ちていた。 次の朝、ハクビシンがブドウ棚をつたって歩いているのを目撃し、これの仕業ではないかと思った。あんなにひどい壊し方をするのはハクビシンしか考えられない。
 それでも巣立ち前の雛だったらしく何羽かは逃げられたらしい。一か月ほどして里帰りしたシジユウカラの親は二羽の雛鳥を連れていた。
 新しい巣箱は組み立て式なので、不器用な私にはうまく組み立てられない。友人の男性に頼んで組み立ててもらった。 彼はウィットに富んだ人で、巣箱にわたしの名前を玄人はだしで彫りつけてくれた。まるで私の表札のかかった私の家のようである。
「シジュウカラが他人の家だからって入ってくれないんじやない?」
 そんな冗談を言ったが、見事に彫られた自分の名前にくすぐったいような感触を覚えた。
 ところが、せっかく八重桜の枝に取り付けてもらった巣箱には、次の年もその次の年もシジュウカラは入ってくれなかった。
「あの名前が気に入らないのかもしれないわよ」
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二枚目
 彼に冗談で抗議したが、入って欲しいと願いながら春を待ち続けた。
 昨年の暮れ、いつも巣箱を取り付けてくれる植木屋さんに巣箱の穴を少し削って大きくしてくれるように頼んだ。あまり大きくするとスズメが入ってしまう。微妙にほんの少しだけ削ってもらった。植木屋さんが猫よけと称するものを買ってきて巣箱の周りの枝に設置してくれた。
 四年目の今年、八重桜がみごとに咲き、庭は春爛漫になったが、葉桜になるとやって来る番(つが)いはやはり現れなかった。あきらめかけてはいたが、やはり何とか子育てを見られないかとリビングの窓から毎日巣箱を眺めていた。
 五月半ば過ぎ、庭に二羽の小鳥がしきりに飛んでくる。シジュウカラの番いであった。巣箱をのぞいている。
「やったー」
 私の胸は躍りまわった。「どうぞ気に入ってくれますように」、と祈るような気持ちだった。シジュウカラは番いで子育ての場所を探すのだ。人間の若いカップルが結婚して住むマンションを見て歩くのとまったく同じである。
 雌が巣箱に出たり入ったりしている傍で、雄が、
「どうだい? よさそうじゃないか」
「そうねぇ。入り口も少し大きくなったようで入りやすいわ」
「猫よけもあるようだから安心だね」
「この巣箱しっかりしているから壊される心配ないわ。ここに決めましょう」
 なんて会話があったかわからないが、二、三日して雌がコケをくわえて巣箱に入っていく。巣作りは雌の仕事で、雄は近くで、
「ツーピー、ツーピー、ツーピー」
 と、囀って縄張り宣言をしている。
 巣が出来上がると、雛のお布団用に犬や猫の毛をくわえてくる。雌はせっせと巣作りに勤しみ、雄は近くの木や、少し離れた高い枝で盛んに囀っている。
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三枚目
 そのうち雌の姿が見えなくなった。雄も庭に来るが、すぐ飛び去ってしまう。私は心配になった。途中で投げ出してしまったのだろうか。若いカップルに時々そんなことがあると聞いていたので、ますます気をもんでしまった。
 一週間ぐらいして雌を発見した。口に虫をくわえている。どうやら雛が生まれたらしい。私は自分の孫が誕生したようにうれしくなった。
 シジュウカラの両親は夜が明けると虫を運び始め、夕方うす暗くなるまで頻繁に虫をくわえて巣箱に入っていく。雌が中に入っていて雛の世話をしていると、雄は虫をくわえたまますぐ近くの枝で待っている。やがて雌は雛の糞をくわえて出てきて飛び去っていった。
 カラスが雛の声を聞きつけて様子を見にくる。巣立ち雛をねらっているのだ。 私はカラスが来ると杖を振り上げて追いとばす。友達からカラスに襲われたらこわいからやめなさい、と言われたが、孫のような雛を守るために、私も体を張っている。
      ○
 「その日」は夏至の前日であった。夕方の五時をとうに過ぎていた。節電のためクーラーがつけられない。首にクールバンドを巻いて、暑さと戦いながら巣箱を見ていた。
「巣立ちだ!」
 小さなふわふわした羽毛の雛が巣箱から出て、八重桜の枝にとまっているのだ。二羽の親鳥が虫をくわえて雛の近くにきたり遠のいたりしている。 周りを珍しそうに見ていた雛はやがて親鳥の呼ぶ方に飛び立っていった。それから次々と出てきては飛んでいく。数えていたら五羽で終わった。みんな近くの木にいるらしくチイチイというかわいい声が聞こえていた。親鳥がくわえていた虫を巣立った雛にご褒美として与えているらしい。
 すこし経ってから、親鳥の一羽が巣箱をのぞきに来て、もう雛がいないことを確認すると、家族全員で飛び去っていった。
 その後(あと)、六月の遅い日没は、私のまだ覚めやらない感動と共に、空になった巣箱を夜の静寂(しじま)へと包み込んでいった。