小説『舟を編む』
          山内美恵子


 長い年月、「辞書」と「歳時記」ほど、私の人生と歩みを共にした本はない。特に、国語の辞書なしでは、夜も日も明けない生活を送っている。一日どの位のことばを引くのか、数えたことはないが、愛用の辞書はぼろぼろで、見るかげもない。
 新しい辞書を買うつもりでいたら、電子辞書が出初めた。逡巡しながら買ったものの、過度の使用からか、開閉のスイッチが壊れる。現在使用しているのは二台目である。
 電子辞書も年々進化し、今日では全ての辞書が網羅され、開閉も自動的で簡便この上もない。しかし、紙の辞書も手離せない。ぼろぼろの辞書ほど愛着を感じるからだ。

 四月中旬、夕刊を開くと、下段の紙面一杯に、「大ヒット中」の文字が躍っていた。昨年、「本屋大賞」第一位に輝いた、三浦しおんさんの小説『舟を編む』が、ベストセラーとなり、映画化された宣伝だった。
 「本屋大賞」受賞時、国語辞書の編集部を舞台にした小説と知り、私の心が動いた。しかし、買ってまで読みたいとは思わなかった。それが映画化されたと知り、またも私の心はゆれた。
 映画を観る前に、詳しい内容を確かめるべく、本屋に走った。本は平積みされていた。ざっと目を通す。新入り編集者の、辞書作りにかける情熱と、それを見守る人たちの人間模様が、生き生きと描写されていて、なかなかの佳品だった。つい買ってしまった。
 辞書の編集は、長い歳月を要する、労苦の多い地味な作業に他ならない。そんな部署に、ことばへの強い執着をもつ馬締(まじめ)光也なる若者が配属される。やがて、若者は持ち前の根気強さを生かして、編集者として才能を発揮していく。その姿が、微に入り細にわたり活写されていた。
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二枚目
 物語を展開させる、登場人物もまた多彩でユニークだ。定年間近のベテラン編集者荒木、日本語研究に人生を捧げる、老学者松本先生、辞書作りに愛情を持ち始めるチャラい男西岡、運命の女性料理人香具矢、どの人物も個性的で、読者を飽きさせない。
 読んですぐ、ベテラン編集者荒木が、新人馬締に告げることばが私の目を止める。著者の計算された、雄渾な筆致が実に心憎い。

「なぜ、新しい辞書の名を『大渡海』にしようとしているか、わかるか、「辞書は、言葉の海を渡る舟だ」ひとは辞書という舟に乗り、暗い海面に浮かび上がる小さな光を集める。もっとふさわしい言葉で、正確に、思いを誰かに届けるために。もし辞書がなかったら、俺たちは茫漠とした大海原を前にたたずむほかはないだろう」

 荒木のこのことばに、辞書作りの心意気が感じられた。海を渡るにふさわしい舟を、どのように編んでいくのか、高揚感を湧かせ、著者の筆力に私は心を躍らせる。
 読みながら、『大言海』の完成に生涯を費やした、国語学者大槻文彦が脳裡をよぎる。十七年の歳月をかけ、独力で国語辞書を生み出すという、偉業をなしとげた人である。
 近年、若い人たちの芥川賞や直木賞等の作品を、買ってまで読もうとは思わなくなった。話しことばそのままの文章や、仲間うちの造語等があり、読む気が失せる。
 ベストセラーにも興味が湧かなくなった。ベストセラーを常に輩出している、出版社の社長が著した、『ベストセラーは作られる』を読み、宣伝費いかんにかかっていることを、知ったからである。

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三枚目
 しかし、この小説は若い著者だったが、読むに値する佳品であった。豊かな表現力と、視点の高さに感心した。つい若い著者のことが気になり、思わず後ろの略歴を見る。七年前、二十九歳で直木賞を受賞していた。筆が立つところをみると、豊かな才能の持ち主に違いない。どこを読んでも、苦心のあとをみじんも感じさせない。文章は一日にして成るものではなく、研鑽(さん)を積んできたのであろう。新鮮な感動を受けた。辞書に着眼したところをみると、著者も辞書を愛してやまない、若い女性であることは確かだ。描写が実に繊細である。その筆力に学ぶことが多かった。
 いつも定型の俳句や、紙面の限られた文章を書いていると、のびのびと筆を運べる才能が、とてもまぶしく感じられた。三百ページにも及ぶ豊かな紙面を、自在に紡ぐことが可能だからである。
 私も若いころ、小説や児童文学に挑戦した時期があった。今日のようにワードもなく、何百枚も書き直すのは至難のわざだった。その上、才能も時間もなく、きっぱりとあきらめる。しかし、この小説を読み、大きな刺激を受けた。小説とはいえ、作品は作者を語るからだ。実に頼もしい有能な女性である。今後も目が離せそうもない。

 私が国語辞書に心を寄せ始めたのは、小学二年生だった。面白い本があるものだ、と子ども心に感心したのを、覚えている。本に飽きると、何とはなしに辞書を眺めて遊んだ。その辞書には、行書の漢字が記されていた。自分の名前を覚え、大人になったような心持だった。懐かしさが湧きあがった。
 長ずるに及んで、一つのことばを調べるのに、一冊の辞書では物足りず、何冊かの辞書を調べる。あれこれ見比べていると、辞書の特色が一目瞭然であった。どの辞書も難解な漢字や意味を、懇切丁寧にくだいて教えてくれる。ユニークな辞書ほど興味深い。
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四枚目
 ことばで毎日悪戦苦闘している私は、ぼろぼろの辞書から、どれほどことばや漢字を教わり、助けられてきたことか。辞書は、私の人生の窓をも大きく開けてくれた。辞書や漢字がなかったら、正しい日本語は遠く及ばず、文章の奥行も浅いものになったにちがいない。私にとって辞書ほど尊いものはない。
 漢字学研究の第一人者、白川静氏は「日本語は非常に素朴な表現が多い言語です。その日本語は漢字と出会って初めてさまざまな考えを概念化することができるようになったのです」と、ある著書で述べていた。
 やはり漢字は、日本語の奥行を深くした。氏は、漢字が持つ体系的なつながりを、明らかにし一時、漢字ブームを巻き起こす。漢字は全て相互に関連性を持ち、一貫した体系で構成されているという。その成り立ち知ると、難しい漢字も自然に覚えられるようだ。
 辞書や歳時記を見ていると、古代人はいかに、素晴らしい日本語を使用していたかがよくわかる。俳句をはじめた若いころ、「千五百」や「千五百秋」を何て読むのか、首を傾げた。千五百は「ちいほ」と読み、数限りないという意味であった。千五百秋が「ちいほあき」と読み、限りない年月であることを知った。既に『神代紀』や『古事記』にも用いられていて、驚嘆したのを覚えている。
 インターネットが普及し、日本語も縦書きから横書きになりつつある。横書きの日本語は、目を疲れさせる。やがて、辞書までも横書きになるのだろうか。という思いが頭をかすめ、暗たんたる思いでいたら、既に横書きの国語辞書も、小説もあることを知る。
 その「横書きが、日本人を壊している」と述べるのは、書家の石川九揚氏である。「日本の根本原理を蔑(ないがし)ろにした時、この国は崩れる」と、著書『縦に書け!』で警告。氏は「日本」とはつまるところ「日本語」であると述べる。気鋭の書家らしいことばが並び、何度読んでも深い感銘を覚える。評論家で英文学者の外山滋比古氏も「日本語は、もともと立っていなければならない言語である」と、ある著者の中で述べる。
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五枚目
 小説を読み終えたら、映画を観る気がしなくなった。既に私の頭の中で、映像が広がり、映画を観ている気分だったからである。
 本を読み感動したからといって、映画も同じであるとは限らない。心をこめて読んだ本ほど、胸深く刻み込まれたことばが映画にはなく、失望したことがあった。
 先月新聞で、「日活100年」を読んだ。「伊豆の踊子」を演じた、吉永小百合さんが、原作者の川端康成氏を訪ねた折、脚本との違和感を訴えたという。原作で一番好きだった「ほんとうにいい人ね。いい人はいいね」のセリフが脚本にはなかったからである。
「『先生、私の大好きなセリフがないのです』って。先生は驚いたように私の顔を見直し、『そうですね』と小さくつぶやいたきり、そのことについては何もお話しになりませんでした。今から思えば、『小説と映画はしょせん別物ですよ』とおっしゃりたかったのだと思います」と、お話されていた。
 私もやはり、映画は観ないことにした。
 しかし、若者たちには、本を読むのが面倒なら、せめて映画だけでも観てほしい。大勢の人たちが長い歳月、魂を注ぎ編んだ辞書である。望むらくは、すぐれた日本のことばと、辞書の素晴らしさを見直してほしい。そして、美しい日本語を守ってほしい、と祈る思いである。
 それは、私の欲というものかもしれない。だが、辞書や本は、心の奥行を広げてくれ、人生に厚みを加えてくれるからである。
 いのちが尽きる日まで、私は辞書を枕頭の書とし、野の花のごとくひっそりと、人生を閉じたいと願っている。