ショートストーリィ
             羽田竹美


 私がずっと若かったころ、そう、四十歳ぐらいであったかもしれない。
 夕方、バス停で帰りのバスを待っていた。街路樹のニセアカシアが黄葉し、風が吹くとはらはらと散っていた。
 私の前に一人の背の高い男性が立っていた。黒いカバンを持ったサラリーマン風の若い人だった。はじめは後ろを向いていたので気がつかなかったが、バスの来る方に顔を向けた横顔を見て、あっと思った。どこかで見たような顔であった。すらりとした身体をチャコールグレーの背広に包んでいる。眉毛の濃い切れ長の目、形のよい高い鼻、映画のスクリーンに出てくるような顔であった。しかし、俳優ではない。
 思い出すのに時間はかからなかった。大学時代に憧れていたサークルの先輩であった。かっこいい人だなぁ、と遠くからボーッとして見ていただけで話をしたことはなかった。だけど、あの時こうしてバス停で同じバスを待つ機会があったら、何かが起こる絶好のチャンスだったのではなかったか……。
 秋の気まぐれな風がニセアカシアの葉を舞い上げた。歩道にも落ち葉がころがっていく。              
          
「あれっ、新入生部員だよね」
 憧れの先輩が言った。
「は、はい」
「何学部?」
「教育です」
「ちょっと、お茶飲んでいかない?」
「えっ? あっ、はい」
 
     → 二枚目へ       



二枚目
 私は心臓が飛び出しそうに早打ちし、耳まで赤くなりながら彼の後について行った。
 喫茶店の一番奥がちょうど二人分空いていた。彼はベルトでしばった六法全書とノートを無造作にテーブルの上に置くと席に座った。
「あの、司法試験受けるんですか?」
「うん、今三年だけど、あれはかなり手強いからね」
「たいへんですねぇ」
「絶対合格してやろうと思っている。検事になりたいんだ」
 彼の目がきらりと光った。
「はぁー」
 私は目を丸くする。
 早稲田という大学に入ったが、なんだかみんなマージャンだのボーリングだのと遊んでいる学生ばかりで、少しがっかりしていたのだ。こんなに勉強している人がいるのかと、ますます憧れが強くなり、尊敬の眼差しで彼の顔を眺めていた。
 今まで流れていたベートーベンの『田園』が終わり、モーツアルトの『ジュピター』に変わった。
「君、アモーレ会?」
「はい、外国文学です」
 サークルは山と文学の好きな人の集まりであった。私は外国文学を読むアモーレ会に属していた。
「今、何読んでるの?」
「イプセンの『人形の家』です」
「ふーん、まあ、あれもいいけど。今度ロシア文学の会においでよ。ドストエフスキーの『罪と罰』を読むといいよ」
 彼は『罪と罰』を熱く語りだす。ロシア文学の会は男性ばかりだという。そんなところには到底入っていけない。
     → 三枚目へ



三枚目
 彼の声が『ジュピター』の曲に乗って心地よく胸の中をくすぐっていく。夢見心地で彼の顔を見ていた。
 なんて素敵な顔なんだろう。整った鼻、うすい唇から魅力的な言葉が次々とつづられていく。見つめられると体中電気にかかったようなかなしばりにあう。
 突然、彼は文学の話から音楽に話題を変える。
「君、音楽は好き?」
「はい」
「うちなんかみんな、クラシックが好きでね。おばあちゃんなんか新しいレコードを買ってくると、みんなを集めて聴かせるんだよ」
「へぇーそうなんですか。いいですねぇ」
「僕が勉強していようがおかまいなしなんで、ちょっと迷惑なんだけどね」
 彼はにやっと笑う。
 私は居間にみんなが集まってレコードを聴いている彼の家族を想像していいなぁ、とうっとりする。
 彼の笑顔もなかなかチャーミングだ。もしかしたら、今度コンサートに誘ってくれるかもしれない。
 と、そこまできたとき、大きなトラックが地響きをあげて通っていった。
「あのー」
 バス停で私の前にいたチャコールグレーの背広を着た男性が話しかけてきたではないか。
(えっ、だめですよ。私、人妻です。お茶に誘われてもおことわりします)
 私はドギマギして身構えた。
 男性は自分の腕時計をたたきながら、
「電池切れだ。今何時ですか?」

 木枯らし一号がコートの裾を乱して、吹きぬけていった。