〈エッセイ〉
    信ずるというまぼろし
              高橋 勝


 六月末から今日に至るまで、大津の市立中学校で起きた、いじめが原因と言われる生徒の自殺について、これでもかと連日報道がなされている。テレビや新聞や週刊誌などからつぎつぎに明るみにされる「新事実」に対し、どれが真実であり、何が隠蔽され、どこに偏向情報があるのかなどと、一般大衆は、疑心暗鬼のうちに注視し、何か動きがある都度大波に押し流されるかのように、教育委員会、学校、教師、あるいは加害者などに非難を高め、それらのあり方を厳しく問いつめている。
 こうした現象が起こるのは、事件自体の性格が、単なるいじめの範疇を超え、七〇年代初頭の連合赤軍事件並みのリンチや、その果ての殺人の域に達するほど残虐なものであり、不穏な今日的時代風潮のなかで、どこか他人事とは思えない残酷な事件だと感じさせるものがあるからだろう。
 今回の事件については、どこでも言われているように、まずはその自殺した中学生の命を無駄にしないためにも、関係者は、中途半端な対応をしてはならないのであり、全面的な解決に到るよう真摯に努めるしかない。ところが先日、現与党の幹事長が、記者会見において、自殺問題について「非常に残念なことだ」としながらも、「学校が悪い、先生が悪い、教育委員会が悪い、親が悪い、と言っている場合じゃない。みんなできちんとやっていかなければならない」と語ったという。こうした責任の所在を意図的に曖昧にしようとする事なかれ主義のまかり通っている現実の政治状況は、その一方でしっかり観ておかなくてはならないだろう。
 ところで、いじめを生む土壌にはさまざまな背景や要因が考えられる。識者がマスコミの舞台で侃々諤々(かんかんがくがく)の議論を展開しているが、そのなかから受ける視聴者のとらえ方も人によって差異があろう。私にも、そうした報道の中から気になる話があった。 
     → 二枚目へ



二枚目
 それは、あるテレビのコメンテーターが次のように話していたことだ。「学校側は地域の信頼が失われるのを恐れるあまり、いじめ≠フ実態を知っていたのにはっきり認めようとせず、何とか問題のありかを外に転嫁しようとしている」と。当該中学校を管轄する教育委員会や中学校の校長らは、世間の批判が強まってくると、隠していた事実を小出しに話したり、逃げ道をあらかじめしっかり準備したうえではじめて、指摘されたことを部分的に認めたりしている。こうした対応を見ていると、右の引用の後半部分はまさに当を得たコメントであることが分かる。しかし、ここでは、あまり注目されることのないその前半部分、つまり、学校側がそもそも抱いているという地域の学校に寄せる「信頼」について考察してみたい。なぜなら、その部分がこの問題全般の核にあたると考えるからである。
 学校とは、そもそも世間の評判や関係者の評価に立脚して存在しているのは疑いようがない。これまで積み重ねてきたさまざまな実績がモノを言うからである。またそれゆえに、外部からの評判や評価を失うことがどれほど恐ろしいものであるのか、学校側の思惑も理解できる。しかし、学校側はこうした評判や評価というものを信頼と同等視しているのではないか。
 厳密に考えれば、評価や評判は主に数字上の実績に基づくものである。それに対して、信頼とはそうした数的な実績というものを含めたうえで、さらに人間の柔軟な感性や鋭敏な理性など総合的な認識によって形づくられていく目にそれと見えないものだと考えられる。そして一旦信頼する、あるいは信じるとなったら、その人は相手側に自分を委ねることになるのであり、どうにでもしてくれと我が身を素っ裸のまま相手に差し出すことを意味するのだ。
 そのように見なすならば、本当に最初からそこに地域の信頼などあったのだろうかと疑念が浮かぶのである。あるいは、実際は無いのにあるように思い込んでいただけではないのか。もしそうであるなら、その背景として、教育行政や学校世界の世間ずれした独特な雰囲気の中で、健全なものを観る目や常識的な批判精神が欠落しているところがあったと推察できる。 
     → 三枚目へ
 



三枚目
 もし地域や保護者と学校が強い絆で結ばれていたのなら、このような大きな事件が起きても学校側に不信感を抱いたりすることなどなく、かえって我がこととしてともに問題をとらえ、考えようとする姿勢に結集し、何らかの行動に駆り立てられていくだろう。ところが報道で観る限り、当該校の保護者からはもちろんのこと、一般生徒たちからさえ学校側の隠蔽を疑っているとの声がつぎつぎにあからさまになっている。こうした現象を第三者の立場から見る限り、両者の間に信頼関係が醸成されていたと言うのには無理がある。
 あくまで今回の事件に関する当事者の対応を観て言っているのであるが、現実には信頼など存在していないのに存在していると少しも疑わず、この当然の思いに乗りかかって体制の一部からボロが綻び出るのを何よりも恐れたり、多少出たとしても必死に小手先で取り繕って苦闘したりしているのが公的存在の学校であるというなら、あまりに本末転倒と言わざるを得ない。これはまさに、学校といえどもギリシャ神話に出てくるイカロスの翼で空を飛ぶ若者の姿を想起させるものである。
 この話は、青年イカロスが、細工の名人であった父ダイダロスに蝋で接着したにわか造りの翼を作ってもらい、その翼で大空に飛び立つのであるが、父の忠告を忘れて高く飛びすぎ、そのため太陽の灼熱に熱せられて蝋を溶かしてしまい、翼ごと青海原に落下してしまうというものである。
 そう言えば、小学校や中学校の校舎壁面を注意深く眺めると、そこに大きく飛翔する火の鳥のような鳥の羽ばたく絵が描かれているのを目にすることがある。これはもちろん、社会という大空に向かって大きく飛び立てとのメッセージが込められているのだが、今回のような事件が発覚するにつれ、一瞬イカロスの翼を描いたものではないのかと不審の念がわき上がってくるのを否定できない。
 さて、これも記憶に新しい別の事件であるが、つい先頃、ネット上の結婚紹介サイトを通して知り合った男性が、多額の現金を貢いだうえ、相手の女性に練炭で殺されるという痛ましい事件が起こった。その後、一連の裁判やジャーナリストの記事などによって、男性側の真相も徐々に明るみになっている。
     →  四枚目へ



四枚目 
 そうしたものを読むと、殺された男性の方は、寂しさが紛れるなら相手の容姿はどうでもよかったと語り、一番楽しかったのは一緒にご飯を食べたことだと言う。この背景を探れば、男性が自分の息をつける居場所がこの世界にはないという、想像を絶する虚無な心理の存在を明かしてくれる。この実話とは程度の差は異なるが、本質の似通った、もっと何処にでも観られる男女の有り様を想像してみたい。
 ある男がある女と知り合いになる。女の身の上や二言三言の話しぶりから、男は、彼女こそ生涯連れ添える女性に違いない、この人とならどんな苦労だって厭わない、今度こそ行けるところまで真剣にお付き合いしたい、などと深く心の底に刻印してしまう。
 その後、何回かデートをする。男はいつものように甘い残響が身体にこだましているのが消えるのを待つまでもなく、またお逢いしたい旨のメールを繰り返し書き直した文言で恐れながら送る。だが今回は、女はなかなか返事を寄越さない。男は日ごとに苦しくなり、悩み、果ては、どうしたんだろう、忙しいのだろうか、もう嫌になったのだろうか、否、そんなことはないだろう、でも……、もしかしてその気がなくなったのだろうか、などと疑念に苛まされるようになる。
 これではいつまで経っても救われないと男は思い始め、再度思い切って連絡を入れると、今は仕事が忙しく、会える時間がとれないので一段落したらあたしのほうから連絡します、との返事を受ける。男は、言われるままにするしかない。だが、まるで牢獄に閉じこめられ、巨大な南京錠までかけられてしまったかのようにどうすることもできなくなってしまう。
 男にできることといえば、これまでに何回かデートした場面を繰り返し思い出すばかり。一緒にレストランでフランス料理の昼食を食べたり、喫茶店で話しを弾ませたり、また新緑の公園を連れだって散歩したことや、何気なくベンチに並んで座ったとき、間近に目にした襟足の白い肌に、後れ毛が微かに汗で光っていた……などと。それなのに、最後にデートしてからまだひと月余りしか経っていないのに、もう何年もの月日が過ぎ去ったように感じ、飢えた寂しさに女を想って発狂しそうになる。そう、そのときから男は完璧に女に操られる文楽人形みたいになってしまい、女の一言一句、一挙手一投足に、昼夜をおかず煩悶して、のたうち回るだけになってしまう。
     → 五枚目へ



五枚目 
 それでも男はなんとかしてこの地獄から抜け出すにはどうすればよいのかとさまざまに試みる。なるべく一人静かにしている時間をなくそうと、街なかに出て行って人々の淋しそうな顔を眺めたり、山に出かけては清水の流れや野草の花々に気を取られながら一日じゅう山道を歩いてみたり、好きな音楽や映画や演劇に没頭したり、仕事やボランティアに精を出したりする。でなければ自分の思いを変えようとして、目にはそれと見えないあの女を想って、あの人は本当に仕事が忙しくて、会うだけの僅かな時間さえ作り出すこともできないのかもしれない、手が空けば必ず会えるに違いないなどと強いて思ってみる。だが、そうした努力は、ちょうど母親にきつく叱られた幼い子どもが、立ち去っていく母親に泣きじゃくりながら追いつき、その衣類の端をきつく掴んで離さず、泣き泣きどこまでもついて行くようなものに過ぎないのだ。
 ある日ふと、男はある疑念に捕らわれる。あの女は本当に命を懸けるに足るほどの人だったのだろうか、それとも単に、俺は自分に耐えられず、恋に恋していただけだったのではないのかと。そうだとするなら、どういうことになるんだ、そう、俺は女の思う壺だったのだ。俺は一人で覚悟を決め、滑稽な姿を晒して宙を飛び回っていただけだったのではないか、それを眺めて面白がっていたのはいったい誰だったのか、との疑問がわく。そのとき男は、突如自分に乗り移っていた悪魔メフィストフェレスが自分の身体のなかで苦しみに耐えられずすっと体外に抜けていくような感覚を覚えるのだ。
 この、まぼろしに生きていた男のたとえ話が、そのまま学校の抱える問題に当てはまると言えないのは明瞭である。だが、そもそも無いところに在ると思い込むことによって、途轍もなく偏った方向に突っ走る危険性を避けるために、そこには共通するあり方が見いだせないだろうか。つまり、男にとって女の身の上や姿かっこう、あるいは言葉づかいなどと同じように、学校にとって外部の評価はあくまで評価として受け入れるとしても、そのなかに自らの身を一体と化してしまうようなところまで入り込んでしまうのは大変危険な事態を誘発するということだ。それゆえ大切なのは、むしろ逆に、まずは疑いの眼を持つところから始め、観察の眼をしっかりと向け続けること、そして孤独に耐えるだけの勇気を恐れないことである。そうすることが結局、建設的な道に繋がるのだと思う。(了)