深夜の電話
              羽田竹美

 昨年(平成二十二年)は、猛暑の夏であった。十六年前、夫が生死の間(はざま)を彷徨(さまよ)っていた八月と似ていた。熱中症でたくさんの人が亡くなったが、夫も残暑の厳しい九月一日に命は尽きた。
 一向に衰えない暑さの中で、夫の十七回忌は終わった。三日後の夜十一時ごろに電話のベルが鳴った。
(こんな時間に誰だろう)
 私はこわごわ受話器を取った。
 夫が若いころ、養護学校で教えていたNちゃんであった。Nちゃんといっても若い女性ではなく、もう五十代になっているだろう。受け持ちではなかったが、夫のことを慕って毎年年賀状をくれていたのだ。亡くなってからも私宛に毎年かかさず年賀状がきていた。
 そのNちゃんが突然電話をかけてくるなんてどうしたのだろう、と私は訝(いぶか)りながら対応したが、
「先生のお命日でしたよね」
 で始まる言葉はうれしかった。だがその後で、今一緒に住んでいる男性がガンで、もう長くないのだと話し出した。
 Nちゃんがどんな障害があるのかを夫から聞いていなかったし、どんな人かも全くわからない。それでも夫が○○さんではなく、Nちゃんと呼んで可愛がっていたらしいことはわかっていた。
 夫は大学を卒業すると、すぐ養護学校高等科の教師となり、重い障害のある子どもたちに国語を教えていた。その学校には寄宿舎があって地方の子どもたちが入所していた。夫は週一で当直があり、一緒にご飯を食べ、夜は子どもたちの世話をしながら過ごしていた。 
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二枚目
 私が結婚する前、会うといつも子どもたちの話をし、愛しくてたまらない様子であった。Nちゃんも寄宿舎にいたそうで、
「羽田先生はすごくやさしかった」
 と言っていた。Nちゃんは癲癇(てんかん)の障害があり、卒業後施設に入ったそうだ。発作が和らいだので施設を出て、結婚したが、うまくいかず、籍を抜いてもらったという。
 その後何年かして介護士の男性と愛し合うようになり、一緒に暮らしはじめ、障害はかなり安定していた。しかし、幸せは長く続かなかった。男性がガンに侵されて入院してしまったのだ。
 誰も相談できる人がいなくてきっと寂しかったのだろう。夫を思い出して私のところに電話してきたようだった。夫がいないのになぜ私のところにかけてきたのか、と考えたが、これは亡き夫がそうさせたとしか思えなかった。
Nちゃんはガンと闘っている男性の話をたんたんと話すのだ。それはかつて、私が夫の病院に毎日通い、一喜一憂したときと全く同じであった。十二時近くになり、
「もう遅いから寝ましょうね。明日また、病院に行かなければならないでしょ」
 と、電話を切った。
 二度目の電話も夜の十時半を回ったときであった。
「こんなに遅くかけてすみません」
 Nちゃんは恐縮しながら言う。
「いいのよ。かまわないわ。ご容態はいかが?」
 Nちゃんは安心したようにいろいろ話し出す。彼とは十数年前から一緒に住んでいるのだという。
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三枚目
 「ガンが見つかったとき入院中のベッドの中で、入籍しよう、と言ったの。それで、二人で病院を抜け出して役所に行って、入籍したんです」
 そのときにはご主人はガンであるとは知らされていなかったそうだ。それでも夫婦になったことがうれしかった、とNちゃんは声をはずませていた。 収入がないので、生活保護を受けながら入退院を繰り返していたという。
「もう治らないと言われています」
 私は夫の最後の状態と重ね合わせていた。
「出来る限りご主人の傍にいて、手を握ってあげてね。意識はないかもしれないけど、聞こえているのよ。話しかけてあげてね」
 私は夫にしたようにNちゃんにもしてあげて欲しかった。
「はい、そうしています。ときどきわかるようなので、結婚できてよかったね、と話しています」
 いがみ合っている夫婦や、同じ家の中にいても心が離れてしまっている夫婦が多い中、Nちゃん夫婦の愛の深さに私は胸を強く打たれた。癲癇障害からの副作用を抑えながら、懸命にご主人の病院に通う健気さに私の心は涙で濡れていた。
 それから一週間ほど経ってご主人は亡くなられた。
「涙が嫌いな人だったから、私は泣きませんでした」
 ご主人の亡妻の娘さんと二人だけの寂しいお別れであったという。
「施設にいたとき歌った賛美歌を歌ってあげています」
 私も知っている賛美歌だったので、電話口で一緒に歌った。
   主よみもとに近づかん
   のぼる道は十字架に
   ありともなど 悲しむべき
   主よみもとに近づかん (賛美歌320)