〈新世界より〉
         早藤貞二


 私がクラシックに興味をもったのは、兄の影響による。戦時中、海軍兵学校に入った兄は、卒業と同時に敗戦になり、家に帰ってきた。そして、京都の同志社大経済学部に編入学し、そこを卒業すると、岡山の倉敷レーヨンに入社した。ところが、間もなく病気になり、彼の地の病院に入院、一年経って家へ帰った。
 兄は病気の療養中、家にあった蓄音機で、クラシック音楽を聴いていた。例えば、ベートーヴェンの〈月光〉や、ウェーバーの〈舞踏への勧誘〉などの比較的短い曲であった。兄が音楽に親しむようになったのは、当時の倉レの社長、大原総一郎さんの影響があったのだろう。
 休職中だった兄は、病が全快すると、会社に戻った。何年か経って、石川県の工場に転勤したとき、父の勧めで隣町の女性と結婚した。そのとき、私が兄夫婦に祝いとして贈ったのが、ドヴォルザークの〈新世界より〉であった。解説は読んでいたと思うが、曲そのものは聴いていなかった。ただ、「新世界」という言葉が、新しい門出という意味で気にいっていた。京都の「十字屋」で買い求めた。
 さて、そのドヴォルザークの交響曲第九番〈新世界より〉だが、私は、小澤征爾さんの指揮、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団による〈新世界より〉のCDを幾度も聴いた。〈新世界より〉について、志鳥栄八郎さんは、こう云っておられる。

     → 二枚目へ



二枚目

「題名に“より”という言葉が付いていることが、この曲を理解するうえで、大変重要な鍵で、ドヴォルザークは、新世界アメリカそのものを対象としてこの曲を書いたのではなく、彼がアメリカから、チェコの友人たちに送る、音楽による望郷の手紙として書いたのだ、と考えてこの曲を聴くのが最も正しい聴き方だ」
 私は、昔見た映画『ビルマの竪琴』の中で、にほんの兵士たちが歌う、『埴生の宿』や『故郷の空』を思い出した。
 地図で調べると、チェコは、アメリカから随分と遠い。ドヴォルザークがアメリカに滞在したのは、二年半位だったそうだから、母国への望郷の気持ちは大きかったに違いない。
 次に私が調べたのは、チェコとはどんな国か、ということだ。県立図書館で、『図説東ヨーロッパ』を借り、チェコの項目を読んだ。ロシアを始め、大小多くの国々と境を接し、様々な困難を乗り越えて、民主国家を作り上げたチェコ。首都プラハには、立派な建築物が立ち並び、工業も発展し、芸術(文学、音楽、映画)も盛んに作られるようになった。
 文学では、力作長編『審判』を世に出したユダヤ人のカフカがいる。
 さて、ドヴォルザークが、チャイコフスキーの招きを受けてロシアを旅行し、プラハにもどった後、或る日、アメリカのジャネットサーバン女史から、ニューヨークのナショナル音楽院の作曲科の教授になってほしい、と依頼された。ドヴォルザークは、チェコの音楽をアメリカに知らせることが出来る、と考え、アメリカ行きを決意した。一八九二年のことである。

     → 三枚目へ



三枚目

 二年半の滞在中、彼がアメリカから学んだことも多くあった。特に黒人霊歌や、フォスターの〈故郷の人々〉などの民謡、インディアンたちの踊りであった。私は高校の音楽の先生がフォスターの歌、例えば〈懐かしきケンタッキーのわが家〉など教えて下さったので、私は今になっても、そのCDを聴いて楽しんでいる。黒人霊歌も、先日、十字屋でCDを買い聴いている。いずれも心に染み入る、本当に良い歌だ。
 ロシアの支配から脱し、ドイツの勢力からも自由を勝ち取った、古い祖国チェコと、英国から独立した、活気に満ちた民主国家アメリカとの出会い。そしてドヴォルザーク自身の音楽的才能によって、〈新世界より〉の曲が生まれた。
 第一楽章は、黒人霊歌を思い出させる、もの悲しい旋律で、第二楽章は、日本では〈家路〉という歌で親しまれているが、その旋律が大層美しい。第三楽章は、インディアンの踊りを取り入れた、という明るい曲。第四楽章は、力強い曲から、おだやかな曲へと流れ、最後は、それまでの曲をくり返し、全体のまとまりをつけている。
 芥川也寸志さんは、世にこれ程有名な交響曲はない。ベートーベンの運命、シューベルトの未完成、ドヴォルザークの新世界、チャイコフスキーの悲愴。これが知名度では、交響曲の東西両横綱、クラシックのベストセラーだ、とおっしゃっている。
 私もそう思う。