列車の中で
          石川のり子


 駅の東側からホームに上がると、ちょうど上野行きの列車が滑り込んできた。いつも利用するホーム中央の乗車口ではなかったが、開いたドアから乗った。
 十時過ぎの車内はドア付近に乗客が二、三人立っていた。狭苦しく感じたのは、四人が向かい合って座るボックスシートのせいだった。私がよく利用する常磐線の快速列車は、時間帯にもよるのだろうが、通勤・通学向きのロングシートの車両と、このローカル色豊かなボックスシートの車両と、いつも空席のあるグリーン車の三種類が連結されていた。
 今まで車両を選んで乗っていたわけではないのだが、ボックスシートの車両は久しぶりだった。娘や孫といっしょのときならば、向かい合って寛いで話ができる良さがあるが、見知らぬ人と向かい合うのは気づまりである。しかしこの日は、寝不足のせいで、終点の上野駅までの小一時間ほどを、できたら座りたいと思った。座席に目をやると、窓側に空席がある。
 私には通路側の乗客に声をかけて動いてもらう勇気がない。座席の背につかまって立っていると、私の気配を感じたのか、通路側の中年男性が窓側に移動してくださった。
「ありがとうございます」と会釈して、腰を下ろした。向かい席の若い男性は黒のダウンジャケットに顔を埋めるようにして眠っていた。熟睡しているのか多少のざわめきではびくともしない。その隣の女性も、長い髪で顔を隠して眠っているようだ。無遠慮に観察しては失礼なので、私も目を閉じた。
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二枚目
 進行方向を向いて座っているせいか、ロングシートより体が安定して、固い座席でも背中に感じる車両のかすかな振動が心地よい。学生時代にふるさと新潟に帰省していたころを思い出した。まだ上野駅から上越線で八時間ほどもかかる長旅で、席の確保にずいぶん神経を使った。混雑しているときなどは立ち席になることもあって、座れるだけでも有り難かった。
 高校時代は列車通学だった。二両のディゼルカーで、もちろんボックスシート、二駅ということもあって座らずに友人とおしゃべりしていた。座ることが格好悪いと感じる年齢ということもあって、座席の背にもたれて青春小説の文庫本を読んだりもした。現在も年に一度旅行している七人の仲間のうち四人は、この越後線の通学仲間である。当時どんな会話をしたかはっきり覚えていないが、娯楽が少なかったので、素敵な男の子の噂話とか読んでいた本の感想とか、たわい無い話で笑い合っていた。多感な少女時代を共に過ごした友人は、離れていてもどこかで繋がっていた。
 右隣のかすかな物音で目を開けると、男性が立ち上がっていた。慌てて膝を通路側に斜めに動かした。「どうも」と低い声で言って、男性は通路に出た。
 私は窓際に移動した。先刻私が立っていた位置で本を開いている白髪の女性と目が合った。どうぞと目くばせすると、会釈をしながら歩み寄って座った。女性の広げている本を覗くと、数独だった。九等分してある正方形に、1から9までの数字を重ならないように入れるのである。記入されている数字の数によって難易度に差があった。私もいっとき夢中になり、初歩の本を買って、次から次へと設問が終わるまで際限なく解いていた。家事が疎かになるので、現在は新聞の土曜版に載る数独を楽しみにしている。私は婦人に急に親しみを覚えて、
「解いていると時間が経ちますから、電車に乗っているときなど、退屈しませんね」
 と、声をかけた。
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三枚目
「病院の待ち時間にも最適です。頭も使いますからボケ防止です」
 私は頷いて、お元気そうに見えるけれど東京の病院に通っておられるのかと、彼女の鼻筋の通った青白い横顔から目をそらした。
 正面の若い女性は目覚めていた。膝に載せたバッグをまさぐって、化粧ポーチを取り出した。黒い輪ゴムで肩までの髪を無造作に一つに結わえた。そして驚いたことに、四角の鏡も取り出して、入念にクリームを塗り始めたのだ。「すぐ目の前で他人の私が見ていますよ」と口に出したかったが、完全に存在を無視された。私も凝視するのをあきらめて、窓外に視線を転じた。
 いつも乗る通勤車両のロングシートでは、吊り革があって真ん中が立ち席になっているから、化粧をしている若い女性をある程度の距離をもって眺めていた。あまりにも堂々と変身しているので、一人芝居を見ているような錯覚さえした。どうして家で化粧してこないのかしら、同姓として恥ずかしいわなどと、隣席で囁いているのが聞こえてくることもあり、顰蹙(ひんしゅく)を買っているのは確かだった。しかし、慣れとは恐ろしいもので、最近は目にしてもさほど驚かなくなった。 
 二か月くらい前のことだったろうか。NHKのEテレで『電車で化粧はやめなはれ』の歌を耳にした。私は思わす、「我が意を得たり」と拍手喝采した。お笑いの二人の男性が中年のおばさんに変装して、振りつけまでして大阪弁で歌っていたのである。
 歌詞は大部分の乗客の気持ちを代弁していた。「やめなはれ、やめなはれ、電車で化粧はやめなはれ」「素敵なお方が見てまっせ」「あと十分早起きして化粧は家で」さもなければ「化粧室で」と教えてくれている。大阪弁でやんわりと忠告されたら、素直に聞き入れてくれそうである。
 うろ覚えのメロディが頭の中をまわっていたが、いつしか快い眠りに誘われた。