音楽の好みのとき
            高橋 勝


 演奏家でいえば、ある程度優れていると広く認められている古典的な人がいるのは確かである。ところが、たまたま何かの放送で巡り会ったある演奏家の演奏がこのうえなく素晴らしいものと感じることがある。こうした体験を他の人、例えば趣味や専門で音楽に精通している人に話したとすると、予想外の話を返されることがある。
 去る九月初旬、日曜日の深夜にBSプレミアムシアターで、ティーレマン指揮ドレスデン国立管弦楽団と、イタリアのピアニスト、マウリツィオ・ポリーニによる、ブラームスの「ピアノ協奏曲第2番」が放映されていた。自動録画しておいたものを後日時間が取れたとき再生してみると、意外にもこの地味な曲の並々ならぬ渋い美しさを認識してしまい、最後まで目が離せなかった。
 ある機会があって、これまでオーディオやレコードのことで何かとお世話になってきたその道の「マニアック」な人にこの話をすると、その曲だったら、戦時中、フルトヴェングラーとやったエドウィン・フィッシャーの超名演があるよ、と即座に言われてしまった。ところが話はそれだけで、私の指摘したポリーニの演奏についてはさもつまらなかったのか一言のコメントさえしてもらえず、結局無視された格好になった。もちろん彼にしてみれば、善意のつもりで言ってくれたのだとは思うけれど……。
 しかし、世間的にはたとえいくら凡庸な演奏家の演奏だと見なされていたとしても、私にしてみれば、たまたまこの演奏を録音しておいたので出会う機会を持っただけである。それはそうだとても、いざ観てみると言葉に尽くせないくらい輝きのある演奏だと感じられたのであるから、それはそれで評価してもらいところである。それを彼の言うとおり、その歴史的名盤を新たに買って聴いたところで、たしかにそれはそれで良いのかもしれないけれど、あのとき鑑賞した時間というものは一回限りのものであり、いくら切望したとしても二度と再現できないものである。
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二枚目
 それゆえ、それ以上の感動が後にふたたび自分のものにできるとは到底思えない。また、あえてそこまでして費やすエネルギー量は、自分が否定されてしまった思いも相まって、ひどく嫌悪感を覚え、いつまで経っても音楽鑑賞に自立できなくさせられている自分は、「ファウスト」のメフィストフェレスの手に、今でも全てをゆだねているようにさえ思えてくる。
 知人が良いと思っているから、あるいは多くの人たちが認めているから素晴らしいに違いないと思い込んでCDやレコードを次から次へと蒐集したとしても、その演奏が本当に自分にとっての好みの演奏なのかと言えば、必ずしもそうであるとは限らない。そのことが、音楽を長く聴き続けてくると分かる瞬間というものがあることに、今回気づけたように思う。
 それまでレコードの知識もなかったころからただ推されるままに、先に記した二人の演奏家の他にも、指揮者では他にクレンペラーやクナッパーツブッシュがいるし、ピアニストではコルトーやソロモンといった、クラシック黄金時代に活躍した演奏家の名盤LPを貪るように蒐集しては繰り返し聴いていた。確かにいずれも名声に違わない心躍らせるものばかりだったけれど、今はそうしたLP盤はなぜかレコード棚に収まっているだけで、ふたたび聴く機会はほとんどなくなっている。その一方で、最近はこれまでに聴いたことが無いような演奏家のCDを聴くことが多い。
 例えば、指揮者で言えば、ウィーン・フィルを最後に指揮したときのブルーノ・ワルターのライブ盤が思い浮かぶ。このデスクには、シューベルトの「未完成」や、マーラーの「交響曲第4番」が含まれている。ワルターは、戦時中、ユダヤ人であったため祖国ドイツからアメリカに移住し、ニューヨーク・フィルやメトロポリタン歌劇場などで演奏活動を精力的に展開していた。しかし、彼にとっての良い演奏はやはりウィーン・フィルとの組み合わせであったようだ。一九六〇年のこの最後のコンサートには、長いアメリカの生活から故郷に戻ったワルターの複雑な思いが、ゆったり目の演奏テンポの中にほの暗い音調として、その背後に切々と表現されているように感じる。
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三枚目
 ピアニストの方では、今も現役で活躍している杉谷昭子さんのことがまずあげられる。先日、「楽興の時」や「トロイメライ」などの収められた名曲小品集『カタリ・カタリ』というCDを中古で見つけ、安く手に入れることができた。疲れ気味の時、ボリュームをできるだけ絞って何気なく耳を傾けていると、いつの間にか聴き入ってしまった。演奏の特徴としては、もとの楽曲を楽譜通りできるだけ忠実に再現したり、力まかせのタッチを折り込んで弾いたりするというよりも、音符と音符の合間に隠された美的真実をその関係性においてしっかり掴みだし、いかにも日本女性特有の細やかな感性を磨きあげ、なおも細部の音まで気を抜かずに、まるで書道の草書や仮名書きみたいに音の繋がりをつぎつぎに紡ぎ出してくれるものであると言えよう。そういった意味からも、彼女は、今日、日本的叙情を表現できる数少ない日本人演奏家ではないかと思う。
 あるいは、四〇年代末頃から録音の残っているロシアのピアニスト、ウラジーミル・ソフロニツキーの弾いた「ショパン没後一〇〇年記念リサイタル」のライブ盤、あるいは七〇年代のイタリアのディノ・チアーニの演奏する、同じショパンの「ノクターン全曲録音」盤などは、いずれもやや暗めでゆったりした演奏であるけれど、聴きはじめてからしばらくは小波のような深い安らぎを与えていき、やがて演奏者の内に秘めた情念が聴く者に感応し、その刹那に魂を震撼させずにはおかないほどの録音である。それはまさに、音楽を聴いているのが自分なのか、音楽が自分を聴いているのか分からなくさせてしまうといった表現がぴったりするものだ。つまり、楽譜に作曲された魂にピアニストがピアノ演奏を介して一体化しているのであり、そのピアニストに鑑賞者が録音の再生を介して乗り移り、ついには時代に生きた作曲家の精神に、現代に生きる鑑賞者の精神が時空を超えたオリジナルに近い形で相通じ合える現象と言えよう。
 このような聴き方は以前にはなかったもので、このころになってやっと自分なりの音楽を楽しめるようになったせいだと気づいている。と同時に、音楽演奏の好みは、はじめから他人に言われて固定しているような絶対的普遍性を持つものではなく、あくまで聴く人の置かれた場の空間や聴く時間や時期によって、それぞれ柔軟に感じ取れるものであり、その意味での相対性だけがあり得るのである。