仲間入り               
         石川のり子


 私の散歩コースに豊島氏の城跡だという由緒ある寺院がある。
 この寺院には幼稚園が付設してあって、お天気の良い日には、散歩する園児の可愛らしい声がわが家にも聞こえてきた。六年前に引っ越して来たころは、まだ地理に不案内だったので、声を頼りに幼稚園を見に行った。城の名残を留める寺院は細い道を登った高台にあった。  
 幼稚園の建物は、子どもの好きそうなカラフルな色に塗られ、ゾウやキリンの絵まで描かれていた。園庭には動物をかたどった遊具が置かれ、オレンジ色のエプロンをつけた子ども達が楽しそうに走りまわっていた。わが家にも幼稚園に通っている外孫が二人いたので、無邪気な姿を眺めていると、心が朗らかになって笑みがこぼれた。
 地続きの寺院の境内にも足を踏み入れた。東側には併設された保育園の建物がある。睦月の昼時で人影は見えず、剪定された梅の古木がかすかにつぼみを膨らませていた。
 巨木の多い境内はいまだ日が薄くお釈迦様の白い涅槃(ねはん)像だけがはっきり見えた。そっと両手を合わせて、私はまっすぐ地蔵堂に向かった。
 この本堂には、延命地蔵菩薩が安置されていることで有名で、檀家である義兄から話は再三聞いていた。年に一回のご開帳は、たいそうな賑わいで、七十数段下りた門前には市がたった。露店が並び、サーカス団もやって来たそうである。
 私は地蔵堂のガラス窓に顔を近づけて目を凝らした。中は薄暗いのではっきりしないが、大きなお姿だそうである。この地蔵菩薩は「子育て地蔵」と呼ばれて親しまれているとのことだった。呼び名の由来が知りたいと思い周囲を見回していると、たまたま通りかかった初老の男性が、無言でパンフレットを差し出してくださった。見ると、そのいわれが次のように書いてあった。

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二枚目

「布川に住む与兵衛とさだという夫婦に、十三年ぶりに男児が授かる。しかし、権太と名づけられたその子が三歳になったとき、江戸の名医も匙をなげるほどの重病に罹る。信仰の篤い両親は、お地蔵様に昼夜をおかず熱心に祈り、七日めに与兵衛のお祈りの最中に地蔵様の声が聞こえ、子どもは平癒したー」
 身丈が二メートルもある木造の地蔵菩薩立像は、江戸満願寺より勧請したものらしい。「新しく生まれた子を護り、短命・夭折の難を免れさせる」うえに寿命を延ばしてくださる地蔵尊は、長い間町民の心の拠りどころにされてきたのである。 
 そのころ私は、町の図書館から民俗学者柳田國男の『故郷七十年』を借りて読んでいた。彼は十三歳(明治二十年)のとき、医院を開業していた長兄を頼って、この利根町布川にやって来た。三年ほどを過ごした印象を率直に書いていた。
「どの家もツワイ・キンダー・システム(二児制)で、一軒の家には男児と女児、もしくは女児と男児の二人ずつしかいないと言うことであった。私が『兄弟八人だ』と言うと、『どうするつもりだ』と町の人々が目を丸くするほどで、このシステムを採らざるをえなかった事情」と、間引きの絵馬を見た衝撃などが、民俗学に興味をもつきっかけになったようであった。
 私はこの「間引きの絵馬」の実物を見てみたかった。私の乏しい知識では、絵馬といえば、馬しか浮かんでこなかったからだ。本堂の入り口付近には、絵馬の写真とその説明の書いてある案内板が立っていた。
 私は本殿に些少のお賽銭を上げて見せていただいた。ガラス戸越しではあったが、見えやすいように廊下の鴨居に掲げられてあった。 
 およそ一メートル四方ほどの絵馬は何度か写真で見たとおり、藍色の縞の着物を着た母親とおぼしき女性が、鉢巻きを締めて、鬼のような形相で、茣蓙(ござ)の上の生まれたばかりの赤子の首を絞めている。かたわらには行灯があって、障子に映った女の頭には角が生えている。

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三枚目

 しかし、よく見ると、何らかの祈願のために奉納されたもので、多少の配慮が感じられる。描かれている女はぼろを纏っているわけではない。行灯には和紙らしい白い紙が貼られ、戸の障子も破れていない。屏風と襖には絵まで描かれてある。生まれたばかりの児を殺さなければならないほどの切羽詰まった貧乏な暮らしには見えない。それに、窓際には地蔵尊が立っている。
 ひょっとしてこの絵馬は、頻繁に行われた間引きを嘆き、禁止させたいという願いがあって奉納されたのかもしれない。
 私は持っていたパンフレットを再び開いた。間引き絵馬の下に、「天明の飢饉(一七八三年)浅間山の噴火を原因にして、空がくもり、洪水がおき、何年も米がとれず、たくさんの人が餓死した。以来、食べ物がなければ、こうする以外に方法がなかった」と書いてある。
 まだバース・コントロール(産児制限)などの知識のなかった当時は、嬰児に布団をかぶせて窒息死させたり、石臼で圧殺したり、濡れた紙を顔にはりつけたりと、さまざまな方法で葬っていたらしい。人間の力ではどうにも避けられなかった自然災害を考え合わせると、間引きの絵馬は各地にあるのかもしれない。画題が画題だけに隠されていると思われるがー。

 昨年、人口の減少で幼稚園が閉鎖された。あのカラフルな建物は壊され、寺院の駐車場になっている。無邪気な園児の姿に元気をもらっていた私は、寂しくなった。
 そして賑わっていたという地蔵市も、すっかり廃れてしまった。
 しかし、盛り返そうと、地元の商店やボランティアグループが新たな取り組みを始めた。私もそのグループの一員に加えてもらった。微力であっても住んでいる町の役にたちたいと願っているのである。