長浜の盆梅
           早藤貞二


 私は、湖西の安曇川で昭和五年に生まれ、湖北の長浜で育った。私にとっては、どちらも思い出深いふるさとである。
 妻が長浜慶雲館の盆梅展を見たいと言っていたので、二月初めの日曜日に、二人で長浜を訪れた。いつもの年なら雪が降り積もっているのだが、今年はどこにも雪が見られず、春のような暖かい日ざしがさしていた。
 慶雲館は、北陸本線の長浜駅に近い旧長浜駅舎(日本でいちばん古い駅舎で、今は鉄道博物館になっている)の向かい側にある。
 昔は、館のすぐ隣に太湖汽船の船着き場があり、大津まで連絡船が通っていた。
 小学生のころ、私は、春夏の休暇ごとに父母といっしょに船に乗り、湖西の里へ帰った。南浜、竹生島に寄港して、今津まで二時間あまりの、のんびりした船旅であった。
 今は、入り江がすっかり埋めたてられ、広い道路になっている。
 慶雲館(伊藤博文の命名)は、長浜出身の明治の富豪が建てた別荘であり、明治天皇が関西遊行の途次に立寄られたという建物である。
 戦後は市に寄贈され、ここで毎春、近在から集められた盆梅の古木が陳列、公開されるようになった。
 しょうしゃな門をくぐり、常緑の木立の間を通って、館の大きな玄関へ入る。どこからともなく、芳しい梅の香りが流れてきた。
 毛せんを敷いた廊下や座敷に、紅梅白梅の鉢がいくつも並べられていた。その間をたくさんの見物客が見てまわっていた。あちらこちらで、人々のため息やどよめきがあがっていた。
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二枚目
 すっかり枯れてしまったと思われるような、こけむした古木に、白い梅花がかすみのように咲き出したのや、斜めに傾いた古木の先に花火のような花をつけたのがあった。
 なかでも私の気に入ったのは、うすくれないに染まった小さな花弁が、柳のようにしだれた細い枝々に開いていた梅であった。
 私は、ふるさと(安曇川)の家の庭の片すみに、つつましく咲いていたしだれ梅の古木を思い浮かべた。
 四百年以上たっている木もあるということだ。何代にもわたって梅を愛し、育ててきた人々の心のやさしさがしのばれた。
 会場を一まわりして、私は庭に下りてみた。雪つりをほどこした松の木が美しい。豪快な瀧石が組まれた枯れ池のほとりをめぐる。
 庭の南側は、市街を縫うように流れてきた米川の河口になっている。よどんだ水が、ゆっくりと湖の方へ流れていた。
 昔は、この河口が重要な港の役割をもっていたらしく、川に沿った高い石垣の間に、船着き場の跡がところどころ残っていた。
 私は、小学生のころ五つ六つ年上のAさんに、和船に乗せてもらって、この米川を下ったことがある。
 Aさんは、当時私の父が勤めていた女学校の用務員さんの息子で、県立長浜農学校の生徒であった。
 私は、父の帰りが遅いと、母と学校へ父を迎えに行った。父は、きまって同僚と寄宿室で碁を打っていた。ゲームが済むまで、私は用務員室でAさんに遊んでもらった。
 Aさんには兄弟がなかったし、私も父母と三人暮らしであったから、いつの間にか二人の間には、兄弟のような親しい気持ちが混じりあっていたのだろう。
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三枚目
 私は、小学校から帰ると鞄を放り出し、田んぼのあぜ道を女学校へと急いだ。そして、Aさんが農学校から帰って来るのを待った。
 Aさんは物を作るのが好きで、たいへん上手だった。米つき水車、蒸気機関、ヨット、飛行機、のぞき眼鏡などを次々と作った。出来上がると、二人でそれらを動かして遊んだ。Aさんの学校友だちに、家が米川河口にあって、和船を持っている人がいた。
 Aさんはある日の午後、私を連れてその友達の家へ行った。そして、あらかじめ頼んでおいた和船を借り、私を乗せて米川を下った。
 Aさんは器用に櫓(ろ)を漕(こ)いだ。櫓の音と水の音とが、交互にふれあい、船は気持ちよくすべった。
 湖へ出た。城跡の松林の緑と白い砂浜が遠のいていった。伊吹山が大きく目に映った。
 Aさんは船をとめると、あおい水に飛び込んだ。誰もいない。二人きりだった。
 一時間ばかり水遊びを楽しんで、また米川の河口へもどった。
 その米川を、私は、いま、慶雲館の垣根越しに見下ろしている。
 Aさんは、もうこの世にいない。戦雲の傾きかけた昭和十九年の春に、中国戦線におもむいたまま帰らぬ人となった。
 私は、長浜を訪れるたびに、Aさんのやさしかった笑顔を思い出す。戦争さえなかったら、今日も二人で杯を交わしながら夜を徹して語り明かしたことであろうにと、残念でならない。

 妻の呼ぶ声に我にかえった私は、垣根にそって庭をまわり、館の出口の方へと歩いていった。