磨針峠
          早藤貞二
   
 米原町馬場の蓮華寺を後にした私は、西日の差す中山道を磨針峠の方に向かった。峠を越えれば、彦根の鳥居本である。
 名神の喧騒と別れて静かな山道に入った。棚田が続き、稲の穂がもう出始めている。杉林では、夏の終わりを告げるひぐらしの合唱が盛んであった。谷間に古い農家が見えた。そこから道は上りになり、両側に小さな家々がいたわりあうように建っていた。
 幾曲がりかして上がったところで、石の鳥居と白壁の豪壮な家が目に入った。
 こんな所にこんな家が、と思ううちに、道が右に折れて、急に明るくなった。そして、大空の下に、湖水のきらめきが目に映った。
 ここが磨針峠であった。不釣り合いに立派に見えた家は、広重の浮世絵版画(『木曽街道六拾九次之内・鳥居本』)に描かれている茶店本陣(望湖堂)であった。
 私は、石段を上り、高みにある神社の境内から琵琶湖を見下ろした。少し木が茂って見えない部分もあるが、広重の絵そのままの眺望であった。
 私は、あちらこちら場所を移して、できる限り多くの景色を目におさめようとした。
 湖岸道路沿いの磯、筑摩、朝妻の集落が、細長く北の方にのびていた。湖は白くけぶって、山も空も見分けがつかなかった。空の彼方に、幾つもの積乱雲がわき上がっていた。
 入江内湖の干拓田は、一面緑の絨毯を敷いたようであった。そのほとりを、東海道線の電車が音もなく滑って行く。
 私は、瞼の奥で、干拓田をもとの入り江に戻し、水の上に白帆を浮かべてみた。 
 そして、目の前の茂りすぎた木を払いのけ、床机や石の上に数人の旅人を憩わせた。
 さらに、湖の上のもやを除いて、比良の山々を描き、竹生島を映してみた。
 私の目と心が、広重のそれに近づいていくのを感じた。さすがに中山道随一の景勝地とうたわれてきただけはある、と感心した。
 私は、その感動を確かめるかのように、もと来た道を戻り、また上った。
 東国からはるばる、険しい山や谷を越えてきた旅人たちが、琵琶湖を目にして、胸をなで下ろした気持ちがよく分かる。この峠には、次のような昔話が伝わっている。
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二枚目 
 ひとりの若い修行僧が、自分の才能に見切りをつけて、京から故郷へ帰る途中、この峠にさしかかった。そのとき、道端で、老翁がしきりに斧を磨いている姿が僧の目にとまった。
 何をしているのか、と僧が尋ねると、老翁は、この斧を磨いて針にするのだ、と答えた。そして、急に姿が見えなくなった。
 僧は、これは神霊が自分の怠惰を戒めてくれたものと悟り、急いでもと来た道を帰って行った。
 この僧は、若き日の弘法大師で、大成した後、ここに再来して、その神霊を祭った。それがこの神社の「神明宮」だという。
 石段の横に、「弘法大師お手植の杉」と彫られた石標が立っていて、大きな杉の切り株が二つ残されていた。
 私は、県立美術館に所蔵されている郷土出身の女流画家小倉遊亀さんの大作『磨針峠』を思い出した。
 若い僧の苦悩に満ちたまなざしと、斧を見せる老婆(この作品では女性になっている)の澄んだ目とが触れ合った画面に、一瞬息をのむ思いがしたものである。
 村人たちが神霊に栃餅を供えたことから始まったという「すりはり餅」が、峠の茶屋の名物となってもてはやされたという。
 峠の茶屋「望湖堂」には、ここで休息した多くの大名の名を記した覚え書きや、皇女和宮直筆の歌が残っているそうである。
 また、池大雅の詩や大石内蔵助の手紙、朝鮮通信使・真狂の額なども保存されているという。近くの竹林には、西行塚と伝えられている岩石もあった。
 この峠の景観が、昔からいかに多くの人々に愛され、親しまれてきたかがよく分かる。
 鳥居の前を掃いていた老人の話によると、近ごろは、たくさんの車がこの狭い峠道を行き来して、危険になったという。
 鉄道の開通とともに、一時は寂れた峠道も、車社会の到来で、また賑わいを取り戻したのであろうか。
  しかし、私は、峠の静けさや景観が、これ以上壊されないようにと願わないではいられなかった。
  しばらくして、私は、もう一度辺りを見回し峠に別れを告げた。そして、赤松の林や深い谷間を眺め、蝉しぐれを背に受けながら、山を下りて行った。