魔女たちのイチジク煮
              中井和子

 九月も半ばになると、店棚に、煮るためのイチジクが並び始める。今年は、煮るのをどうしようか。私は、半分茶褐色に色づいたイチジクをしばらく眺め、迷っていた。
 先日、東京のK夫人が、今年も三十キロのイチジクを煮て、友人方へ贈られるというお話をうかがったのを思い出した。私は攣(つ)られるように二キロ詰めの袋を一つつかんだ。
 さっそく、夜仕事にイチジクを煮始める。鍋にイチジクと一キログラムの砂糖と、砂糖を溶かすほどの水(カップの半分くらい)を入れて、火加減は弱火である。
 長時間になることを覚悟して、私は、居間で、『怖い絵』中野京子著(朝日出版社)の本を開いていた。著者の学識の高い、識見に富む文章に、私は引き込まれていた。
 ヨーロッパの宗教画にしても、王や貴族の肖像画にしても、その、歴史的社会背景と描かれる人物の環境、愛憎のドラマまで、画家の思想と解釈で表現されていたとは……。画家は色彩の文筆家なのだ、と私は、感服した。そして、これから絵を鑑賞するとき、これまでとは異なった視点で楽しめそうな気がする。  
 読み進むうちに、ジョルジョーネの西暦一五〇八年ごろの油彩『老婆の肖像』と『眠れるヴィーナス』の絵の紹介ページが開いた。『眠れるヴィーナス』は若い裸体を天上的な理想美に表現されている。それに対比させるかのように、『老婆の肖像』では、皺の一本一本まで克明に描いて老醜を残酷なまでに描いている、という説明がついていた。なるほど!  
     → 二枚目へ
      




二枚目 
 中世の西洋では、老いと死はイコールのように忌み嫌われたそうなのだ。老いた男は無価値で、老女は魔女にされたそうな。まあ、なんと老人蔑(べっ)視であることよ!
 ルネサンス時には美を追求するあまり、美ならざる者を嘲笑の的にした、とは驚きである。私の中では、文化上での革新化、文芸復興であり、失われていた人間性を復活させる、という思想時代、と思っていたから心外であった。
 さしずめ、喜寿を過ぎた私は、立派な魔女ということになるのではないか。魔女に指名された私は、「グッフッフッフ」と魔女らしく、小さく笑った。それで、私の鼻の先が少し伸びたような気がした。
 台所で鍋の蓋がカタカタ音を立てている。イチジクから出た多量の水が沸騰したのだ。更に火を弱めながら、水分が無くなるまで、まだまだ時間がかかりそうだ。時計に目をやると、十二時を回り、日付が変わっている。さて、これからがいよいよ魔女の時間帯だ。
 魔女にされた私は、すっかりその気になって、訪ねたことのある東京のK夫人宅へ瞬間移動した。
 夫人宅の台所のガス台には二つの大きな鍋が掛かっている。甘い、そしてラカンカの独特の香りが漂っている。夫人はカロリーを気にされて、ラカンカ糖でイチジクを煮られるそうだ。
 一人住まいの夫人は居間で、熱心に帽子を製作中だ。こんどは何のお帽子かしら?
 私より二つ年長でいらっしゃる夫人も魔女ということになる。夫人のお作りになる帽子は、カジュアルなものからドレッシイなものまで様様で、そして、それをみなさんにプレゼントされてしまう。
 夫人は帽子ばかりでない。洋服も袋物も、なんでも作ってしまわれる。お買い得の生地を見つけると、たくさんの手提げ袋を作り、物を運ぶのに活用できるようにと、アフリカの子どもたちへ贈られる。心優しき魔女なのである。 
     → 三枚目へ




三枚目
 製作に熱中して鍋を焦がしませんように。
 また瞬間移動で我が家にもどると、私も焦がさないように台所の鍋をのぞく。まだもう少し……。
 寝室では、夫とキャバリア犬のメメがぐっすり寝込んでいる。
 私は、物音を立てないように気を遣いながら、夜のしじまの中で、自分だけの至福の時を楽しむ。お肌に悪かろうが一向に構わない。魔女の時間なのだ。
 イチジクがあめ色にしぼんで出来上がった。甘いイチジクの匂いが家中に広がる。
 そして後日、絵を描いている友人とイチジク煮の話になった。彼女は言った。
「あなたは水無しで煮たのでしょう? 私は水で一時間煮て、水を替えて砂糖を入れて七時間煮るのよ。冷凍などしなくとも大丈夫よ。私の、試食してみて……」
「では、八時間も?」
 私は絶句した。そして水で煮てもカビが生えない?
 届いたイチジクはきれいなあめ色にふっくらと艶があって、その美しさに私はしばし見とれた。食べるのが惜しいようであった。そして、口に入れるとしっとりと、ほどよく上品な甘さだ。試しに、一個だけタッパーに入れて数ヶ月冷蔵庫に保存した。カビも生えず、味も変わらなかった。
 私の友人たちは、ゴヤ作の絵『魔女の夜宴』に集まっている魔女たちより、生き生きと現代に活動している素敵な本物の魔女たちだ。