待合室で       
            海老原英子

 九月に入って、朝夕の気温は二十度前後と下がり、日中でも二十七、八度と、たいへん過ごしやすくなった。私は気にかかっていた冬野菜の種まきをすることにした。
 まず、枯れたキュウリやインゲンのつるを取り除き、耕して肥料を入れ、二本の畝(うね)を作った。一本の畝には大根とブロッコリーの種をまいた。もう一本にはキャベツやネギの苗を植えつけた。狭い家庭菜園での、たったこれだけの作業だが、思いのほか重労働で流れる汗をふきながら泥まみれになった。しかし、様変わりした菜園をながめていると、疲れを忘れさせるほどの充実感があった。
 次の日は庭の草取りをした。さすがに疲れ、二日目は普段よりのんびりとお風呂に入り、早めに床についた。耳をすますと雨の音がかすかに聞こえてきた。
 植えたばかりの苗には何よりの恵みの水になる。とても幸せな気分で眠りについた。
 翌朝、チビ(犬)の鳴き声で目が覚めた。時計を見ようと起き上がると、いつになく体が重い。目もかすんで時計の針がはっきりしない。まだ四時を過ぎたばかりのようだがと、私は何気なく目元に手をやって、顔の異常に気がついた。
 急いで洗面所の鏡をのぞくと、目と口のまわりが腫れあがり、見慣れた私の顔ではなかった。私はとっさに庭の草取りで毒虫に刺されたのか、と考えた。しかし、痛くもかゆくもないし、腫れているだけで虫の刺し口がない。もしかしたら、毒のある草にかぶれたのかもしれない。とりあえず、犬の散歩はさせたものの、何もする気にならず、朝食後はぼんやりテレビを見ていた。
「やっぱり皮膚科で見ていただこう」
 時計を見るとちょうど九時である。私は近くの医院の診察時間を確認して、家を出た。
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二枚目
 待合室のドアを開けると、四、五人の視線がいっせいに私に注がれた。二歳くらいの女の子は私の顔を見て、急いで母親の膝に抱かれた。私は顔をふせて、部屋の角にある椅子に腰掛けた。
 九時半から診察が始まった。私は三十分ほどで順番がくるだろうと、軽く目を閉じた。
 しばらくすると、静かな待合室のドアが乱暴に開けられた。顔を上げて見ると、七十歳くらいの小太りの男性が汗を拭きながらせわしそうに入ってきた。
 彼は受付のカウンターに近づくと、右手をワイシャツやズボンのポケットに手を入れて何かを探し始めた。
 左手には厚みのある銀行の封筒をしっかり握っている。見かねた看護師さんが、
「どうされたんですか?」
 と、声をかけた。
「どうも診察券を忘れたようでね」
「今度いらっしゃるときでいいですよ」
「いや、財布が見つからんのでね」
「お支払いも今度でいいですよ」
 彼は看護師さんのことばに答えず、執拗にポケットを探っていたが、あきらめたのか、待合室の奥にある公衆電話に向かった。
「ああ、電話番号を忘れた」と、あわてて受付に引き返し、看護師さんにカルテに書かれている電話番号を調べてもらった。
 また、電話にもどり、「ああ、お金がないんだった」と、つぶやいた。
 彼の行動の一部始終を見ていた待合室の私たちは、思わず失笑した。
 近くにいた若い女性が、「どうぞ、お使いください」と、十円硬貨を二枚差し出した。彼は一度は辞退したが、ていねいにお礼を言って、電話機に投入した。
 ところが何度やっても電話がかからない。彼は彼女にお金を返し、「電話が通じないので家に帰ります」と、ドアに向かった。 
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三枚目 
 すると、受付の看護師さんが、「よかったらお使いください」と、携帯電話を差し出した。しかし、この電話も通じなかった。
 彼はしばし思案していたが、左手にしっかり握っていた封筒を開けた。そして、あろうことか、一万円札の新札の束をカウンターの上に広げたのである。見せびらかすつもりはないのだろうが、私たちはあ然とした。
 その封筒の中からも財布は出てこなかった。彼は、銀行に忘れたのなら家に連絡があるかもしれないと、電話をかけたのだろうが、留守のようだった。
 本人にとっては深刻な出来事でも、周囲には茶番に見える。私は、申し訳ないが自分の顔のことをすっかり忘れて、彼に心を奪われていた。
「海老原さん!」
 名前を呼ばれて、順番がきていることに気がついた。
 診察室には四十代の体格のがっしりした先生が、眼鏡の奥の優しそうな目で私の顔に視線をとめると、
「どうされましたか?」
 と、笑顔を向けられた。
「特別に思い当たることはないのですが、草取りをしましたので、虫に刺されたのでしょうか?」
「左右対称に腫れている症状は、虫刺されや植物のかぶれではないようですね。たぶん季節性のアレルギーでしょう。この時期、患者さんが多いですよ」
 先生の的確な説明で不安は消えた。炎症を抑える飲み薬と塗り薬で、二、三日で腫れがひくとのこと、週に数時間の非常勤講師をしている私は、愁眉を開く心地で、「ありがとうございます」と、頭を下げた。
 待合室にもどると、彼はいなかった。
 それにしても、彼はどうして大金を持って皮膚科に来たのだろう。不思議でならない。
 今のお年寄りはお金持ちだと言われているが、それを実感する出来事であった。