敬老の日に
          福谷美那子

 敬老の日にまだ幼い孫たちが、「おばあちゃん、おめでとう!」と、声を張り上げた。私は微笑んだものの、なぜかそのとき、気丈であった父方の祖母のことが思い出されたのである。亡くなって五十年以上にもなるのに。
 遠い昔を手繰りよせると、九十六歳で亡くなった祖母が活き活きと甦ってくる。
 祖母は、長田ケイといい、山梨県甲府市の生まれである。
 小柄で農民的な日焼けした顔、ひとたび笑うと目じりが下がりえびす様のように見える。山梨弁特有の語尾につける「そうずら」の響きや、お餅を焼いてくれるしわしわの手の甲、晩年、屈むと顔が地に着いてしまいそうだったことなど、限りなく私の脳裏を駆けめぐった。
 何か事情があったのか祖母は、五人も子どものある人(私にとって祖父)に嫁して、三人の男児をもうけた。その一人が私の父にあたる。
 養蚕をし、質素ながら堅実な暮らしをしていたようだが、幸せはつかの間、夫は急逝した。
 時おり、父が私たち子どもに祖母のことを語るとき、いつも甲府中学時代のことが出てくるのだった。
「お父さんはね。学校まで一里もある田んぼの道を一歩、一歩、歩いて通学したんだよ。後から来た奴らが、みんな自転車で通り越すのさ。寒い時など凍りつきそうだったよ。」
 父は髭の濃い頬をゆるめて苦笑しながら、
「自転車なんか買ってもらえんかったのさ」
 と、付け加えた。
 聞くところによると、祖母は「田畑を売っても学問を大切に」といった信条をもっていたが、決して息子たちに贅沢はさせなかったようだ。それに母子家庭で人手を借りた農業と養蚕だけでは子どもを中学に行かせること自体、経済的に無理だったのであろう。父は中学を卒業するまで、冬の制服を着せてもらえなかったらしい。作って欲しいとはどうしても言い出せなかったそうだ。
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二枚目 
 父の卒業アルバムを開くと黒のお揃いの制服を着た学友にまじって、父だけがしもふりの制服を着ている。祖母は気づきながらも息子にしてやれなかったのであろう。
「愚痴はこぼさん」と、いつもにこやかであった祖母の内側の葛藤を考え、私は思いを深くするのである。
 後妻という微妙な立場、先妻の子どもと実子への愛情のふりわけ方など、気骨のおれる生活を考えてみると同情といたわりの念が湧く。
「牛男はなぁ、いつも組で一番ずら、ばーちゃんの自慢の息子でぇ」
 そう言えば医者になった父のことを語るとき声が一段と高くなった。
 まだまだ忘れられない場面がある。祖母の面倒をみていた伯母が急逝したとき、祖母は敷居に顔を伏せて泣いていた。
 いよいよ出棺のとき、祖母は声を張り上げて、「外は寒いぞ、毛糸の半てんかけてやったけ?」と、周囲を驚かせた。
 もっと昔、私の子どものころにもどって考えていくと、こんなことも思い出されてくる。
 医院であった我が家の急な階段を二階から上がり下りするとき、祖母は私の小さな手を固く握って、のめりそうに、一段、一段、数を数えて足を運んだ。苦言を言うのではなく、
「美那ちゃん、あんたひとりだけでも名前を洋子にすればよかったなぁ。三人の娘に、みんな『美』がついて、ばーちゃん覚えられんよ」
 意表をついたことを言った。
 のどかな風景として祖母は、私の心のアルバムに描かれている。
 最近しきりに気丈であった祖母を思うと、憧れにも似た感情が湧いてくる。山梨県の田んぼに沿った川を歩いて行ったら、もしかしたらおばあちゃんに会えるかもしれない。
 私は幼子のように祖母のかがまって歩く姿を懐かしみながら、二川村の川の流れを思い浮かべるのである。
 古希を迎えてわが身に忍び込んだ老いに、意気地のない自分を返りみるにつけ、祖母がもっていた意地、それはどこから来たものなのであろう。
 めっきり衰えたわが身の日々に気弱な自分が歯がゆくてならない。