かばのばか
             羽田竹美


 幼少のときに、母からよく絵本や童話を読んでもらっていたので、おとなになってからも子どもの本が大好きだ。大学で児童文学を専攻したから絵本をよく読んだ。福音館から発行されている絵本にはよいものがたくさんあった。私が好きだったのは、『かばくん』(岸田衿子さく・中谷千代子え)である。
「どうぶつえんに あさがきた」で、はじまるこの絵本は、かばが実に、のびのびと描かれており、ちびのかばもかめの子も愛らしい。
 小学校の遠足で見た大きいけれどやさしい目をしているかばが、この絵本を読むとまた、ぐんと身近に感じられた。
 大きなキャベツを大きな口で食べるかば、お腹いっぱいになってごろりと寝ころぶかば、のんびりとした平和な時間が流れる。
「おやすみかばくん どうぶつえんによるがきた こっそりゆめみてねむってくれ おやすみかばくん ちびのかばくん」
 最後のページを読み終わると、心の中にふわーっと温かい空気がひろがってくる。

 私は九年前から腹話術で老人施設を訪問している。二歳児大の男の子の開ちゃんが、私のパートナーである。小学校一年生という設定なので、かなり大人びたセリフも言わせることができる。先生に教えてもらったんだよ、と歌舞伎からも、落語からもネタをもらう。動物園のかばからもネタをもらった。     
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二枚目 
 開ちゃんがかばにアメを投げてやったら、前の池にポチャンと落ちてしまった。かばは池に飛び込み、水の底のアメを拾う。逆さになったかばが開ちゃんに「バカ」と、言う。すべて私がネタを作り、自作自演である。
「かばの逆立ちはばか」、これが面白い本になっていた。『河馬の馬鹿』(文芸社)という、のんせんす句集である。作者は左党放犀という心理学者だそうである。
 最初のページの序句、
   ジョークでも冗句じゃなけりゃと河馬の馬鹿
 ここから始まり、すべてのページが「河馬の馬鹿」だらけである。
   異才どころかダサイ犀だと河馬の馬鹿
 放犀という名の犀がダサイ犀なのだ。これを読んでいて思わず、うふふふふと、笑ってしまったら、
   三月のうふふふふふと河馬の馬鹿
 があって、また笑った。心理学者で、『行動理論への招待』という難しい本を書かれているのだが、
   心理学サイコロじいっと見つめれば分かるのかと河馬の馬鹿
   ユング派は優遇はしないと河馬の馬鹿
 とあって、また噴き出してしまった。これを読んでいると、私まで河馬の馬鹿になってしまう、と思っていたら、
   桜散ってあなたも河馬の馬鹿ですか
 とあった。
「そうそう私も河馬の馬鹿になりました」
 と返事をしてしまう。このように楽しんで読んだ本だったが、その一週間後、新聞を見て、戦慄が走った。
 京王線の新宿駅で八月二十三日(平成二十二年)の夜、電車を待つ客の列に男がぶつかり、先頭にいた男性がホームから転落して、電車とホームの間に挟まれて死亡した事故があった。
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三枚目
 その男性が左党放犀氏だったのである。本名は佐藤方(まさ)哉、七十七歳。
 『田園の憂鬱』や『秋刀魚の歌』などの作者である佐藤春夫の長男であり、心理学者で慶大教授、帝京大教授を経て、現在は通信制大学の星槎大学の学長を務めておられた。
 佐藤春夫は友人の谷崎潤一郎と妻同士を取り換えたいわゆる「妻譲渡事件」として話題になった。その千代婦人のお子さんである。
 普段は寡黙の人だったが、お酒が入ると陽気になったという。その寡黙の心理学者があの「河馬の馬鹿」の作者だったなんて、まったく信じられなかった。
 だが、父親の春夫のこともちゃんと詠んでいる。
   春夫の詩砂糖のように甘いだけかと河馬の馬鹿
 膨大な『河馬の馬鹿』の句を丁寧に読んでいくと、
   欲しいのは安らぎですと河馬の馬鹿
   河馬の馬鹿もう十分に生きました
 春夫の出身地、和歌山県新宮市の佐藤春夫記念館の完成式に立ち会った放犀氏は、
「おやじは七十二歳で死にましたからやっとその年を越えました」
 と、言っていたという。
 世間の人たちが非業な終焉と気の毒に思う中で、放犀氏はあの世への道を歩きながら、きっとユーモアあふれるのんせんす句を詠んでいるのではないだろうか。
 句集の中からもう一句、
   辞世の句詠んで自省する河馬の馬鹿
 ご冥福をお祈りします。