地蔵さん
            早藤貞二


 桜の花が咲き乱れている春の日暮れどきのことであった。石山寺へ行く瀬田川畔の歩道に沿って、私は自転車を走らせていた。
 左は車道で、乗用車やトラックがひっきりなしに通る。
 車道の向こうは、この二、三日の雨で水量を増してきている瀬田川である。学生たちの漕ぐボートが、コックスのかけ声に合わせて、流れを上ったり下ったりしていた。
 歩道と車道との境になっている道端に、小さな石の地蔵さんが立っているのに気がついた。草花やお菓子、りんごが供えられていた。すぐに通り過ぎてしまったが、ペダルを踏みながら、私は地蔵さんのことを思った。毎日ひっきりなしに走り過ぎる自動車のために、地蔵さんはすっかりほこりをかぶって汚れていた。
 私は、ひとりの若い母親と、五つ六つの女の子のことを思い描いた。
 二人は美しい川畔の風景に見とれながら、歩道を歩いていた。女の子が突然、背後から走ってきた乗用車にはねとばされる。
 母親はとっさのことで口もきけない。人だかりがする。救急車がやってくる。近くの病院へ運ばれたが、女の子はすでに亡くなっていた。
 母親は、くる日もくる日も娘のことを思い、涙にくれた。瀬田川べりを歩きながら、あの日の元気だったころの娘の面影を追い求めた。
 こうして三年が過ぎ、七年経ったとき、母親は人に頼んで、子どもが車にはねとばされ、亡くなった道ばたに小さな石地蔵をたてた。命日の日には、季節の花やお菓子や果物を供えて、娘の成仏を祈った。
 私は、こういう空想をしながら、同じような路傍の地蔵さんを見かけたことを思い出した。「交通戦争」といういやな言葉もある。
 昔は、病気をしたり、戦場で亡くなった息子のために、野仏がたてられたのであろう。野仏には、それをたてた肉親の悲しい、せつない心持ちがこめられているのだ。
 
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二枚目 
 村里の入り口や山の木陰にひっそりと立っている石仏に、私たちが親しみを覚えるのは、それをたてた昔の人の気持ちが伝わってくるからに違いない。
 三つ下の私の弟は、二歳でこの世を去った。今でも覚えているが、小児結核とかで病院で亡くなった弟のむくろを、父が小さい木箱に入れて持って帰ってきた。
 納戸で、家族みんなが最後の別れをした。弟は、私が「コツン」といって首の後ろをさわると、声をたてて笑った。その笑い声だけが妙に耳に残っている。
 母は泣きながら、弟の好きだったかき餅を小さな手に握らせてやっていた。棺が釘を打たれるときの響きは寂しかった。
 毎年お盆になると、私は田舎(滋賀県高島郡安曇川町)へ墓参りに帰る。墓地は玉泉寺に属し、その寺は比良山の山なみが北に終わろうとする丘陵地の上にある。
 たくさんの墓石の間にはさまれて、弟の小さな墓もたっている。
 墓地の後ろの雑木の陰には、形も大きさも違う地蔵さんが幾体も並んでいた。かなり古いものらしく、こけが生え、風化して目鼻だちも定かでないものもある。
 私には弟が、この地蔵さんたちと毎日楽しくおしゃべりをしたり、かくれんぼをしたりして遊んでいるような気がしてならない。父や母の墓もすぐ近くにある。
 この墓地には、何百という石仏があるそうである。墓地の上の方の、その名も「阿弥陀山」の麓に、昔から散らばっていた無縁の石仏が、いつとはなしに集められたものだろうといわれている。
 丘陵地には、継体天皇の父、彦主人王(ひこうしおう)の御陵もあるので、このあたりは古くから開けたところなのであろう。
 台地のはずれに立って、東の方を望むと、松林の間から、安曇川の流れや広々とした湖西平野、その向こうにうっすらと琵琶湖の水を目にすることができる。
 お地蔵さんの顔は、いつ見ても優しく、大きなお寺の仏像とは違った親しみが感じられる。地蔵盆が、子どもたちの夏の楽しい行事になっているのを見ても分かる。
 子どもたちが元気で大きく育っていくように、地蔵さんも見守ってくれているのである。