『今、ココニ』
          水品彦平

「お父さんも五月がくるといよいよ七十一歳ね。わたしも六十四歳かあ。早いものねぇ」
 二人とも五月が誕生日です。その誕生日を目の前にして妻がため息混じりに言います。そうだなぁ、と頷きながら、内心わたしも穏やかではありません。
 この歳になると死を意識しないわけにはいかなくなるからです。あと残りも幾ばくか読めてくるからです。そして、日々時間に追われるような感じで落ち着きがなくなってくるのです。
 こんなことを思い巡らせていたら、いつも敬愛している中野幸次さんの文章(「『閑』のある生き方」新潮社)を思い出しました。次の一説はその中のもので、中野さんが甥っ子に宛てたものとなっています。

「(略)徹底した悟りの境地に達した人には、生きている自分の時『今ココニ』だけがあって、外部にある時間などは存在しないのだ。暦の時間、時計の時間、そういう外にある人工的な時間に縛られず、自分は心の時だけを生きている。(略)
 自分が生きているということにのみ着目すれば、それは時間やカレンダーでは計れないものであることがすぐ分かる。きのうは去ってすでになく、明日はまだ来ないからまだ存在しない。あるのは今という時だが、その今も時計では計れない。一秒がカチッという時すでにそれは今ではなく、一秒を何千分の一にしたところで同じだ。
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二枚目
 仏教ではそれを刹那と呼ぶが、刹那と呼んだところで今をとらえることはできない。
 それは時計やカレンダーの時間にまだとらわれているからであって、まったくそういう『過ぎ去るもの』としての時間観を棄て、いま自分がいきているというところを丸ごととらえれば、そこにあるのは過去とも未来とも関わりのない『今ココニ』という状態であることがわかる。(略)
 君が生きている『今ココニ』を丸ごと心で把握するなら、そこにはあとに残る過去も先に待つ未来もなく、ただ永遠の今があるだけということに気づくだろう。空間が時間であり、時間が空間であり、その空間とも時間とも名付けられぬ絶対の現在がある。それが君の生きている場だ。そこから見れば、物指のような時間観念はただ外にある人工的尺度にすぎない」

 まだまだ続きますが、ここで一応切ります。
 今ココニを丸ごと心で把握するなら、ただ永遠の今があるだけで絶対の現代がある、と教えられるとホッとして救われたような感じになります。時間に追われて脅迫観念におびえていたことから自由になれた気がします。自分は永遠の時の中に生きているのだと安心を覚えるからです。
「まあ、焦らんでゆっくり生きていこうよ。それでいい」
 と、傍らの妻に声を掛けると、妻も静かに頷いていました。