ハクチョウに寄せて(二)
                  中井和子


 二月(平成二十三年)に入ると、抜けるような青い空が広がった。一月の記録的な、大雪を降らせた暗い空は、まるで、うそであったかのように……。
 二月半ばのある日、穏やかで、まぶしい春の光に目を細めながら洗たく物を干していると、頭上に一声、ハクチョウの鳴き声が聞こえた。見上げると四羽のハクチョウが平行四辺形に隊を組んで飛んでいる。そろそろ北へ帰るためのウォーミング・アップだろうか。この時期になると、こうした小グループの飛行が、ときに見られるようになる。私は、ハクチョウのことを時候のあいさつにして友人へ手紙を書き送った。友人から返事が届いた。その中に、ハクチョウの話が記してあった。
 ハクチョウたちが北へ帰るときは、編隊を組んで、いっせいに飛び立って行くのだが、中には、怪我(けが)などで飛べなくなって阿武隈川の隅に残ることがある。その残っている一羽のために、途中の、青森? とか、新潟? からなのか、数羽で阿武隈川に引き返してくる。そして、その一羽のハクチョウに、なんども飛ぶことを促(うなが)し、試みる。やはり、それが無理であることがわかると、数羽のハクチョウたちはあきらめて、再び北を目指す。
 次の年もまた繰り返し、三年めで、その居残っていたハクチョウの姿は見えなくなる。元気になったのだろうか? 鳥の社会にある絆のドラマに、友人は感動した、とあった。
 そしてまた、ラジオの深夜放送で、鳥の研究をされている先生の話を聴いていたら、虫は、花の中へ蜜を求めても、後の虫のためにゴマ粒ほどの蜜印をつけておくのだそうで、また、感心しました--と、あった。
 虫でさえも、と私は目を丸くした。そして、なんの脈絡もなく思い出された。
 あれは春の季節で、当時、奥会津に一人住んでいた義母を訪ねたときのことであった。
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二枚目
 義母が、私をワラビ採りに裏山へ誘ってくれた。案内された所は平場になっていてワラビの頭がたくさん見えた。私は興奮して、夢中でつぎつぎと摘み取っていった。そのような私を見ていた義母が、
「そんな採り方をしてはだめだ、小さいのは残しておかないと、来年出なくなってしまう」
 と、私を厳しくたしなめた。私は「ごめんなさい」と謝りながら、古里の人たちの自然を慈しみ、感謝する心に触れたようで、私は、恥ずかしかった。

「やはり、地球上なにかが変だ」と、思ったことが起きた。
 平成二十三年三月十一日、東日本はマグニチュード九・〇という驚天動地の大震災に見舞われたのだ。太平洋沿岸の町は津波にのみ込まれて、家が、車が、人が目の前で流されていった。テレビの前で、日本中の人たちが息をのんで、涙を流した。
 きれいに整地された畑の上を、黒い津波が覆いつくしていく。私は、無情! とつぶやき、嘆きと悲しみのことばが次次と口をついで出た。そして、むなしかった。被災者の方たちの身もだえするほどのせつなさが伝わってくる。
 福島市街地は、建物の倒壊は見受けられなかったが、所どころで、石塀が崩れ落ちていた。わが家では食器が割れた。しかし、物損どころではない。福島原発事故で、もっと恐ろしい、高濃度の放射能が流れ、見えない恐怖にさらされている。現場から六五キロ離れている福島市の被ばく線量は、県内では常に二位の高い数値を示し、県民はその数値に一喜一憂している。
 外出は控えた方がよい、というが、用事があって阿武隈川に架(か)かる橋を渡った。川面をのぞくと、もう、カモの姿はなく、二、三十羽のハクチョウが頭を羽の中に埋め、丸くうずくまってのいるのが見えた。地震があったときはどうであったのか。
 三月末ごろには、ハクチョウの姿は見えなくなるだろう。今年はこの川に一羽の居残りもなく、みな無事に北帰行を果たせるよう、強く願ったのであった。