墓参り
中井和子
「今年の(平成二十三年)お盆は、お墓参りに行けるかしら、ねえ」
私は、だれに言うともなく、ひとりごちた。それを聞きつけた夫が、
「私は行けないがね……。水害もあったことだし、無理をして行かなくともいいんじゃないの?」
と、気遣(づか)ってくれるのだが。
「もちろん、お父さんは病み上がりで無理ですよ。でも、お墓に去年の造花が挿(さ)したままになっているので、それが気になってねえ」
夏休みで帰省していた次男が傍から言った。
「気になるなら行った方がいいよ」
その言で、夫の古里、奥会津への墓参を決めた。
夫は、この七月五日に敗血症で入院し、八月六日に退院したばかりだ。まだ十日も経っていない。片道二時間のドライブは無理である。
長男に留守を頼み、次男の運転で私は古里へ向かった。
七月末、台風十五号で奥会津は豪雨の災害に見舞われている。只見川にある四つのダムが放水したこともあり、川が氾濫して村落を結ぶ四本の橋が流されてしまった。
それで、孤立した地域や、避難した人たちもいる、というニュースに、私はあわてて類縁の人人の無事を確認したのであった。
東北地方中央を縦断している奥羽山脈は、標高一千メートル以上の山なみが連なっている。その中に標高二千メートルの吾妻連峰が福島県の中央にそびえている。
その山脈の東側が中通り。それよりまた東へ六十数キロ、太平洋沿岸の浜通りで、津波、放射線の被害でダメージを受けた地域である。山脈の西側が会津地方だ。
会津地方は三・一一の災害には無傷であったことから、唯一、古里が私の心のよりどころになっていた。それだけに、このたびの豪雨の被害には胸が潰れた。
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二枚目
私たちは、盤越高速道の坂下インターで降りて、やがて只見川に沿って山峡の国道二五二号線を走る。
橋を渡るごとに、只見川が右に左に、川幅も広くなったり、狭くなったり、と見えてくる。いつもなら、森林の山間を満々と、嫋嫋(じょうじょう)と、そして悠然と、時と共に流れている川である。
夏の季節には、川霧が雲海ならぬ雲川となって川の流れを覆い隠す。私は、この山峡の道を通るたびに、その大いなる自然に魅了されていた。
しかし、いま目にしている光景は、土砂が積もって川底が見え、水量の少ない濁流だ。
息子が、
「水の量が少ないね」
と、川をのぞいた。
「そうね……」
私はうなずきながら、向こう岸を見た。水位が数メートル上がったらしい、その水位線の山裾(すそ)の森林が裸になっている。激しい水流のために、樹木の枝葉、樹皮までもが剥(は)がされて生木の黄色っぽい足が並んでいる。森林が緑衣の裾をいっせいにたくし上げて、あられもない光景だ。
「お父さんにこの光景を報告しよう」
と、私はポケットカメラに写した。しかし、窓から移り行く景色を眺めているうちに、私はだんだんやりきれなく、憂鬱な気分になっていった。
「あ、あそこにトラックが転がっているよ」
と、息子が車を道路わきに止めた。
「ほんと」
私はちらとそれを目にしたが、もう、カメラを構える気がない。息子が怪訝(げん)そうに言った。
「撮らなくていいの?」
「うん。もう、いいの」
いよいよ国道四〇〇号線へそれて、十数分車を走らせる。
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三枚目
古里の墓地は山裾(すそ)にある。心配していた造花は片付けられて、お掃除までされていた。昔は土葬であったから、家の墓地には十数基の墓石がある。その全墓石の端に、焼香台代わりにした夕顔の実の薄切りが置かれて、その上に、二本ずつの線香の燃え残りがあった。線香をたいてくださったのだ。さり気なくて風情ある優しい風習だ。これは、近くのTさんがお世話くださったのだと、すぐわかった。ここより下の段には、十年前に亡くなられたTさんの奥さんの墓がある。奥さんには、一人暮らしをしていた夫の義母がたいへんお世話になった。それにともない私も面倒をみていただいた。優しいお姉さんのような方であった。焼香すると、私は声に出して、
「お陰さまで、今年も来られました」
と、合掌した。懐かしさがこみ上げてきた。そのTさん宅へごあいさつに寄る。帰り道、親戚(せき)の家を見舞うことにした。道路脇下の田んぼは一面土砂に埋まり、草一本見えない。私は暗たんとした気分になる。
しかし、訪ねた先の八十歳を超えた老夫婦の顔は明るく、私は救われたのであった。
水道が止まり、電気が消えて電話も不通になり、一晩避難したのだそうだ。
「家に帰ったらテレビが勝手に喋っていた」
と、二人は見合って笑っている。私が田んぼのダメージを心配した。
「何の。また種をまけば、青い芽がすぐ出てくる。十年に一度ぐらい、こんなことがある。大丈夫だ。放射能みたいな悪いものが降ってさえこなければだが、な。あれはだめだ」
至っておおらかで私の気持ちも緩んでくる。
そして、厳しい山里の自然の流れの中で、寛容と忍耐で生き抜く人人に頭が下がった。
三・一一の震災時に、パニックにもならない日本の国民性に、世界中の人人は感銘した。厳しい自然にもじっと心を添わせる東北人のその心意気が原点だったのでは、と私は一人合点した。