母と和紙人形
                 石川のり子


 母が亡くなって七年になる。新潟の実家には、帰省するたびに同居していた姉の家族が迎えてくれるので、母の部屋に向かって「ただいま」と声をかければ、「お帰り」と返事をしてくれそうな気がする。
 母の部屋は生前のままにしてある。六畳間の中央にテーブルがあり、棚には母の作った二十体ほどの和紙人形が並べてある。今にも隣室の襖(ふすま)を開けて、母が現れそうな気配がする。

 母は六十代の半ばになってから、孫の幼稚園のバザーに出品するために、和紙人形作りの講習を受けた。それがきっかけで、九十六歳で亡くなるまで三十年間も人形を作り続けた。その数は大小合わせれば、一千体にはなるだろう。
 母の人形作りの情熱が衰えなかったのは、若いころ和裁の教師をしていて、手仕事が好きだったこともあるだろうが、私達娘の応援も大きかったと思っている。私も相模原市(神奈川県)に住む姉も、父の墓参をかねて毎年お盆に帰省していたが、母へのおみやげには和紙を買った。出来上がった人形をもらって帰る心積りもあったので、銀座の和紙専門店で、自分の着物を作るような感覚で柄選びをした。和紙といっても反物のように巻かれて四、五十種類も立てかけてあるので、選ぶのに時間がかかった。実家の姉もデパートに出かけるたびに、母の注文に応じて和紙を買っていた。
 窓を背に座っていた母は、ニコニコしながら、おみやげの和紙をテーブルの上に一枚一枚広げ、「町娘の着物にはこの花柄がいいね。帯にはこれが似合うかしら」などと、作りかけの人形に当てて眺めていた。母なりの感謝の表現方法だと分かっていたが、私達は、「鼻眼鏡で、まるで、いっぱしの人形作家気どりね」と、ちゃかした。

 新潟の片田舎に住んでいる母は、通信教育で学んでいた。テキストの写真だけで、一人で作り続けているせいか、どこか寂しげな人形だった。私は、それは母の性格か、あるいは年齢によるのだろう、と思っていた。
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二枚目
 八十歳になった冬、上京して姉宅に滞在していた母は、楊枝(ようじ)を芯にした小さな姉さま人形を作っていた。ときどき訪ねた私は、母の手元を見ながら着物の柄合わせなど、いろいろ意見を言った。口だけで手伝いはしなかったが、一緒に作っているような気持ちになっていた。
 母の新潟に帰る日が近付いたある日、ひょんなことから姉は銀座のMデパートで開催されている和紙人形展のチケットを三枚手に入れた。
 さっそく母、姉、私の三人で見に行った。三十人ほどの人形作家が、昔ながらの姉さま人形、現代の写実人形、ギリシャ神話を想像させるような創作人形など、じつにさまざまな人形が展示されていた。
 一作一作を食い入るように見ていた母は、お手本にしている歌舞伎人形の横に立っておられた名札をつけた白髪の老婦人が、テキストの先生だと知り、あいさつした。 先生は六歳も年長の母が、テキストだけを頼りに人形作りをしていることに感激し、手を握りしめて、「わからない事があったら、いつでも家に来てください」と、何度も繰り返された。

 人形展の後、帰省するたびに母の人形は変化していた。今まで細身で遠慮がちに見えた人形が大胆になった。身長は三十センチほどで変わりはないのに、白い和紙を何枚も貼りあわせた顔はふくよかになり、着物の裾や帯に入れた細い針金は繊細な動きを出して、なまめかしくなった。 テキストの写真では理解できない着付けや帯の結び方、髪の結い方などは、テレビの時代劇や劇場中継などを見て工夫するようになった。
 一作に四日も五日もかかり、母は「手が遅くなった」と言っていたが、それだけ入念に作っていた。自信作ができると、友人や知人にあげていた。評判は良かったようで、乗り物酔いをする母に代わって、おみやげとしてオランダやイギリス、韓国などに渡った人形もいる。

 わが家にも母の人形が五体ある。赤い花柄の着物を着た町娘は、「八百屋お七」。可憐な八百屋の娘に見えるが、火事で避難した寺の小姓に恋慕のあまり、また火事になればと放火する無分別すぎる娘だ。 母が手作りしたバラの花の簪(かんざし)が可愛いので、長女と次女へのみやげにもらってきた。
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三枚目

 立烏帽子(たてえぼし)をつけた白拍子は「道成寺」の清姫。若い僧の安珍に一目ぼれし、つれない素振りの安珍を大蛇となって追いかけ、道成寺の釣鐘に隠れていた安珍を焼き殺す、怖い女性だ。小豆色に銀色の花びらを散らした着物は、遠目には大蛇の模様のようにも見える。母は作る人形の役どころを頭に入れ、着物など考えていたようだ。
「八重垣姫」は上杉謙信の息女で、許婚の武田勝頼に危急を知らせるために氷の諏訪湖を渡ったという。諏訪明神の白狐が乗り移ったということで、白地に細かい花柄の着物に白っぽい帯を締めている。
 もう一体は、奥女中、母好みの紫と金色の矢絣(やがすり)の着物は粋で、母自身の投影のようにも思える。
 母の解説つきの人形は、眺めていると母の声や作っている姿が浮かんでくる。末っ子の私を「がんばりなさいよ」と励ましてくれているような気さえしてくる。母の背を見て歩んでいる私には、これらの人形は宝物でもある。

 母は最晩年には人差し指ほどの童人形を作るようになった。今まで使った和紙の切れ端で作っていたが、指先を動かしていたせいか、寝たきり状態にもならず、同居していた姉の家族も気づかないほど静かに、生を終えた。
 理想的な旅立ちで、私も母のように、生涯打ち込める楽しみをみつけたいと思っている。だが、「一寸先は闇」だというのに、「七十の手習い」だって「八十の手習い」だってあるじゃないかと、自分を甘やかしている。