はちや柿
          中井和子


 私は昨秋(二〇一二年)、福島市の東方に位置している、柿の木の多い町へ用があって車で出かけた。
 福島市から国道一一五号線に入った。原発事故のあった町へと続いている道である。福島の街から離れていくほどに、昔ながらの農家が点在する懐かしい田園風景が広がる。農家の庭先や畑の中に、渋柿であるはちや柿がたわわに実っている。子どもの手のひらほどの楕円形をした柿はひとつひとつが重たげで、切なそうにさえ見えた。その光景は、私の目には異様にも映った。なぜなら例年ならば鳥たちのために数個の柿を枝に残して、すべて収穫されている時期なのである。

 二〇一一年三月十一日の東日本大震災の原発事故いらい、福島名産の干し柿は生産、販売を禁止されている。
 あれからちょうど二年が経った。テレビのローカルニュースで、放射線に汚染された柿の木の蘇生方法を説明していた。柿の木の樹皮は、凹凸があるのでその隙間に放射能物質が入り込んでいる。幸い木の根元から四、五センチ下は汚染されていないので、幹を、高さ数十センチにして伐ってしまい、除染すればよいというものであった。
 しかし、それから新しい枝が伸びて、柿の実を収穫できるようになるまで、何年待てばよいというのであろうか。

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二枚目

 生柿で出荷したり、干し柿に加工して収入を得ている人たちも多い。見事な柿の成りを目の前にして、きっとどうにもならない口惜しさに、地団駄を踏みたくなるだろう。やがて、柿の実は熟し、手つかずのまま黒くなって落ちるのにまかせるのだ。そのような人の無念さをおもいやると、私の心は痛む。

 その柿の木の多い町に柿の木に因んで命名された『パーシモン』というゴルフ場がある。そして、そのゴルフ場の名を代表するような一つのコースがある。昔からそこに存在していたのだろうか、数本の柿の木があって、秋には、枯れた風景のゴルフコースの中に赤い柿の実が映えて、いかにもローカル色豊かになる。
 現在のゴルフ道具は、飛距離を求めた、チタンやカーボンヘッド、メタルヘッドであるが、それ以前のウッドヘッドの素材は、固くて、雨水にも強い柿の木が主流であった。
 以前、一人の男性ゴルファーが、私に次のように熱心に説明してくれたのを思い出した。
「高級品のクラブヘッドは一本の木から一個しかできないのですよ。木の部分にも年齢がきれいに出るところというのは、一箇所ぐらいしかないのですから……」
 当時、私の夫もゴルフ場から帰ってくると、よくクラブを乾かしたり、クラブ専用のオイルを塗って手入れをしていたものである。

 はちや柿の実の方は皮をむき、縄に吊るして天日に干し、乾いて白い粉をふくようになると、渋みが抜けて甘くなる。いまでも民家の軒下に、自家用に数本の縄につるされた柿を見かけることがある。のどかな秋の風物詩だ。

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三枚目

 私が子どものころ、母はおやつ用に干し柿を作ってくれた。甘くて、適当にしんなりと硬くなった柿は炬燵(こたつ)団欒の際の格好なおやつであった。
 以前、私はその子どものころの味を懐かしんで、家族のためというより自分のために干し柿を作っていた。
 ある年の秋、私は数十個の柿の皮をむき、数本の縄に吊るして、二階のベランダの竿にかけ甘くなるのを待っていた。水分が抜けて、実がしぼんで白い粉もふいてきた。そろそろ食べごろかな、と眺めていたある日のこと、二階の屋根下にあるわずかな風穴の桟からスズメが出入りしているのを見つけた。ベランダが鳥の糞で汚れる原因がようやくわかった。私はさっそく風穴を厚紙で塞いだ。ところが、翌日、ベランダの干し柿は一つ残らず、嘴(くちばし)で突っつかれてすっかり傷だらけになっていた。
 スズメの仕業だ! スズメは巣作りをしていたのであろうか? 私は混乱しながらも穴を塞がれてしまったスズメの怒りを理解したのであった。すると腹が立つどころか、その見事とさえいえるスズメの逆襲に、
「よくぞやったり」
 と、拍手喝采の気分で笑ってしまった。そしてすぐ、私は風穴の段ボールを外した。
 それ以来、私は干し柿を作っていない。

 私は用事を済ませて、再び一一五号線を引き返す。道すがら柿の木に視線を走らせながら、さまざまな思い出と、いっときの感傷とがないまぜになって、その日は重たい一日となった。