フォークダンス
            石川のり子
 

 フォークダンスを習い始めて丸三年になる。
 私は、フォークダンスはだれでもが踊れる簡単なものだと思い込んでいた。中学時代に踊ったフォークダンスは、音楽も軽やかで、楽しかった。世界の民族舞踊は田舎の少年少女に夢を与えた。
 しかし、五十年の歳月を経て始めたフォークダンスは違った。ステップが覚えられないし、身体も動かない。高齢者になった私の身体は、リズム感覚を失い、すばやい反応をしてくれない。いまだに悪戦苦闘しているのである。
 所属しているグループ「ひまわり」は、創部三十二年になる。部員数は二十五名、私は女性で踊っているが、男性が一人しかいないので、半数が男性役で踊っている。 
 現在はシルバー年代でも、始めたのが三十代というベテランが何人もおられる。ダンスと無縁な暮らしをしてきた私が、そういう方々と踊るのだから、緊張して左足と右足の区別ができなくなるのも無理からぬことである。
 こんな私が続けてきたのは、受け入れてくれる仲間と、丁寧に教えてくださる先生の優しさがあるからである。先生は、五十代半ばでプロのダンサーのようなスタイル抜群の美しい女性である。聞くところによると、主婦であり、三人の子を育てた母親でもあるというのに、少しも所帯じみたところがない。
 私が踊れない悩みを話すと、「だいじょうぶですよ。踊っていくうちに自然に覚えますから」と、慰めてくださる。その言葉に甘えているのだが、私なりに努力はしている。週一回の練習日のほかに、隣市の初心者コースに一日通っている。先生は幾つも掛持ちをされて、毎日踊っていらっしゃるが、私には週三時間半が限度で、無理をして足を痛めて、「年寄りの冷や水」などと、陰口をきかれないように気をつけている。せめて十年早く始めていたら、今ほどの苦労はしないだろうと思う。

 私のフォークダンスは、憧れから始まった。公民館の文化祭で、華やかなコスチュームで踊っている舞台に魅せられたのである。私より十歳年上の友人は、ライトを浴びて、少女のように軽やかにステップを踏んでいた。
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二枚目 
 衣装は、原色の糸で花の刺繍がほどこされた白いブラウス、ギャザーのたっぷりと入った赤、緑、青、黄色のロングスカート、裾には白のレースが付いている。それを孔雀のように両手で広げて踊るのだから、あまりの美しさに私は息を呑んで、舞台に釘付けになった。
「私もあんな衣装を着られたらいいなあ」
 振り返れば、戦時中に生まれ、可愛い洋服など着せてもらえなかった。ほとんどが姉のお下がりで、母手作りの洋服は、着物をリフォームしたものだった。それでも小学生のころは、洋裁教室に通っていた次姉が、余り布で縫ってくれたが、華やいだ洋服を着た思い出はなかった。
 デモンストレーション終了後、私は誘ってくださった友に、入会したいとの意思表示をした。友人は「後輩ができてうれしい」と、すぐにメンバーに紹介してくださった。
 その数日後、公民館の多目的ホールでの例会に出席した。同年代に見える女性たちは、練習でもギャザーのたっぷりはいった鮮やかな色のスカートをはき、白いブラウスに黒や赤のベストを着ていた。雰囲気に呑まれて小さくなって入り口に立っていると、その中でも、ひときわ目立つ先生が満面に笑みを浮かべ、「ようこそ、いらっしゃいました。ぜひ、いっしょに楽しくやりましょうね」と、歓迎してくださった。私は、
「フォークダンは中学の体育の授業で踊った程度ですが……」
 と、申し上げたのに、「さあ、どうぞ、どうぞ」と、踊りの輪に加えてくださった。見学のつもりでいたのに、いっしょに踊ることになった。
 教室には、私より年長者らしい人が何人かいらっしゃるのだが、長年踊っているので、ステップが体にしみ込んでいた。二時間の練習時間に、七、八曲は習った。私は先生の足ばかり見て踊っていたので、足よりも首が痛くなった。
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三枚目
 私の十年日記には、「石の上にも三年だ! 先が見えてくるまで、あきらめないこと。ガンバレ!」と書いてある。そして「まずは形からだ」とあり、靴やエプロンやブラウスやスカートなど一式を注文している。

 七、八年ほど前、私は演劇のワークショップで舞台に立ったことがあった。市の文化事業の一環で、十代から六十代までの十人余りが、民話を素材に、プロの演出家が書かれた脚本で、演技指導を受けたのである。無我夢中でセリフを覚え、命じられるまま体当たりで演じた。
 夫の病気で止めてしまったが、充実した二年間だった。フォークダンスを見た感動が、当時を思い出し、心の奥底の埋火を掘り出してくれた。そのころ体調があまり良くなかった私は、不眠による倦怠感で、もどかしいほど何事にも消極的、心から笑ったことがなかった。何でも良いから夢中で取り組めるものがほしかった。
 憧れていた初舞台は、入会して三か月めだった。音楽・踊りの部門のデモンストレーションなのだが、三十年の大先輩たちといっしょだった。四曲のうち比較的易しいステップの二曲を選んだが、猛練習をしたにもかかわらず、どこの国の踊りで、間違えずに踊ったかさえ覚えていない。
 私はこの三年間で、多少は上達しただろうか。何度も劣等感を味わい、それでも形(なり)振り構わず踊ってきた。年に二回の発表会は、お揃いのコスチュームに、髪にはピンクの花までつけて、参加している。ダンスパーティ、クリスマス会と、出番もたくさんある。
 教室では次から次へと新曲を教わり、ワルツ、ポルカ、ジルバ、マンボなども踊る。頭や身体は働いてくれなくても、踊った曲数は多い。この茨城県の片田舎の公民館で、デンマーク、フィンランド、イタリア、イスラエル、ルーマニア、ロシア、ドイツ、イングランド等々、世界各国の民族舞踊を踊っているのである。そう考えると、足が動くうちはまだ続けたいと願う。
 そして、うれしいことに私は仲間と踊りながら、朗らかに笑えるようになった。