出会いの家                
            福谷美那子


 十五年も昔のことである。新聞の片隅に「出会いの家」と書かれた記事を見つけた。
 ロマンチックな男女の出会いかしら、それともしばらく逢えなかった人と、めぐり合う機会を与える場所なのかしらと、想像はさまざまに広がっていった。
 ところが、読み始めてみるとそれはカンパの依頼であり、次のような懇願の文面であった。

 もし、いらなくなった毛布、男物の衣類(洗濯したもの、または新品)、食料品、タオル、セッケン、など寄付してくださる方はお送りください。そのほかに、労働者の人々が寝泊りできるアパートを提供してくださる方があれば、ぜひご連絡をください。

 私はこの記事を読みながら、日本の景気が上昇気流に乗っていたときだけに、いささか驚いた。家も無くて働く労働者がそれほどたくさんいるのであろうか?
 そのころ、私はホームレスということばをまだ知らなかった。しかし、ホームレスとは少し意味が異なるような気もした。
 私は急に奮い立った。何か手助けをしたい。書かれてあるとおり、石けん、少し古くなってはいるが我が家にあるタオル、息子や夫が気に入らないで放ってある衣類、新聞屋からサービスでもらった洗剤、などを段ボールに詰め込んで荷造りをし、第一便は「黒ねこやまと」から送った。すると、便箋に乱暴な大きな文字でお礼の手紙が届いた。
 不思議なことに、それをきっかけに私は一人でコツコツと、「出会いの家」の宿なき労働者のために、不用品を貯めていくことに妙な生きがいを感じ始めていた。 
     → 二枚目
       



二枚目

 顔も知らない彼らの一人が、寒いときに、私が夫のために編んだチョッキで寒さを凌いでいるのかしら? 少しばかり送ったインスタントラーメンを、ふうふう湯気のでるどんぶりに顔を埋めて食べているのかしらと、想像しながら、自己満足をした。 
 しばらくして、その「出会いの家」が、大阪の釜が崎にあり、主になって活動を進めているのが、カトリックの修道士Y氏であることを知った。
 釜が崎で週一回のカレーライスの炊き出しをすると、長蛇の列ができるそうだ。
 そうこうしているうちに、パソコンが使われるようになり、礼状も今までの便箋一枚から、今度は立派な活字で現状を訴えてくるようになった。

 みなさん! 活動資金がパンク寸前です。二十三年一日も休まず続いたこの活動をみなさんのご支援で生かしてください。
「終の住み家が二畳強」。
 ドヤの一日の部屋代が千円で一ヶ月三万円だったのです。ところが四万二千円に上がってしまいました。労働者には、とても払える金額ではありません。
「どないしましょう!大変なことですわ!」「サラ金の取り立てが来たんですわ」
 以前は少しずつ返済していたそうですが、取り立てが厳しくて生活ができなくなり、釜が崎に逃げてきたのです。釜が崎の住所に送られてきた請求書を見ると、なんと合計が百二十四万円にもなっていたのです。
 昔、二十三万円借りたお金に、利子が百一万円もついては、とても返せません。
「取り立てが釜ヶ崎へ来たらどないしましょう?」
 
     → 三枚目 





三枚目

 読んでいくと、驚きと恐怖で必死な当事者の表情が想像された。
 いつだったかテレビに映る「ワーカープアー」の人たちの生活を眺めがら、私は怒りとも悲しみともつかない感情が胸を襲ったのを思い出した。
 それは八十歳代のご夫婦である。そこの家庭は毎月、息子さんからの送金が二万円、八十二歳の夫は毎朝、四時起きをして缶拾いをしている。いちばん良いときで、缶の代金は、月に八万円だそうだ。
 その日は、雪が降っていた。缶拾いから帰宅した夫は、「胸が痛む」と、ジャンパーを着たまま横になって、つぎのような会話が交わされていた。
「お父さん、大丈夫?」
「うん、しばらくじっとしているよ」
「お父さん、無理をしないでね」
 妻はおびえるような目つきで、夫の平たい憔悴した顔を覗いていた。その労りのことばに、夫は首を縦になんども振って答えていた。毎朝の缶拾い、しかしこのごろは、缶の持ち帰りを強いられるので、めっきり減ったという。働いても働いても報われない人々の暮らし、大声を上げて泣きたいであろう。
 もっと、缶の単価が上がるといいのにー。
 先日、初めて「出会いの家」へ、私は電話をかけてみた。
「いつも送っていただいて助かっていますわ。みんな、喜んでますねん。がんばって生きていきまっせ」
 きびきびとした男性の関西弁が、受話器の向こうから聞こえてきた。その声は熱気があふれていて、私の心も温かくなっていった。