ちょっとの油断から 
        石川のり子

 
 十一月の中旬、朝晩がずいぶん冷えるようになった。風邪をひかないように厚着をしているのだが、乾燥しているせいもあって喉が痛い。
 早急に部屋の模様替えをすることにした。
 まず、居間に電気カーペットを敷いた。四十年も使っている重い四脚のソファを動かすのが一仕事で延び延びになっていたのだが、引きずったり回転させたりして、カーペットを広げた。友人が冬への模様替えで腰を痛めたと聞いていたので、「ヨイコラショ、ドッコイショ」と声を出して、動かした。
 今年は特にクーラーの代わりに大活躍してくれた扇風機は、二台ともきれいに拭いて、二階の納戸に片付けた。
 薬缶(やかん)の湯を沸かしてくれる昔ながらの石油ストーブは、納戸から階下の居間におろした。我が家なりの節電をするために、日当たりの良い二階の和室に電気炬燵(こたつ)を置いた。
 何度も階段を上がり下りしていると、足がもつれた。とうとう中段で踏み外して、手すりにしがみ付いた。大事に至らなかったが、無理は禁物、ひと休みすることにした。
 ソファにゆったり座り、ひねった右の足首をさすった。腫れてもいないしさほどの痛みもないが、念のために包帯を巻いた。
 もう二十年も前になるが、同居していた八十九歳の伯母が最後の一段を踏み外した。帰宅した私を迎えようとして、まだ一段あるのに下りきったと錯覚したらしい。かなり大きな物音で、私があわてて合鍵でドアを開けると、伯母が廊下に横たわってぐったりしていた。
「どうされたんですか?」

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二枚目

「足に力が入らなくて起き上がれない……ちょっとの油断で……」
 消え入りそうな声である。抱きかかえて和室に運ぼうとすると、「痛いからこのままで」という。とりあえず、床に座布団を二枚敷いて、毛布を掛けてあげた。
 これまで日に何度も階段を上がり下りしていたが、慎重な伯母は転ぶようなことはなかった。
 伯母の部屋は二階の南側、日当たりが良くて明るい部屋だった。八十歳になったとき、夫は父親の姉に、階下の部屋を勧めた。しかし、階段の上がり下りが運動にもなるからと、十七年間も二階のままだった。助産婦をしていた伯母は、寝たきりにならないようにと、家の掃除も毎日やってくれていた。
 私は伯母の耳元に口を近づけて、「救急車を頼みますね」と言った。小さく頷いた伯母は青ざめた顔をしていた。骨折したことがわかっていたのだろう。サイレンを鳴らした救急車が到着すると、軽々とタンカーに乗せられて、家を出て行った。
 私は自分の車を運転して救急車の後を追った。救急車に同乗してもよかったのだが、大学病院からの帰りを考えてのことだった。
 伯母は大腿骨の骨折でそのまま入院した。
 入院生活は三週間だった。手術が成功してリハビリが始まった日に、私が職場から帰ると、待ちかねていたように電話が鳴った。病院の看護婦さんからだった。急いでいるようで、「至急来てください」とだけ言うと切れた。
 悪い予感がして、頭が混乱したまま夢中で車を走らせた。病室のベッドでは、痩せ細った伯母が若い医師の心臓マッサージを受けていた。もう息はしていなかったのだろう。私の顔を見ると医師はマッサージを止めた。
「急変しまして、心不全です」
 涙があふれ出た。

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三枚目

「どうして、こんなに急に……?」
 私は無言の伯母に何度も問いかけた。壁に掛けられたカレンダーの十二月十三日に鉛筆で丸が付けてあった。前前日に私が「リハビリシューズ、トレーナー」と書いて、丸で囲ったのだ。翌日、ブルーのトレーナーの上下と白の運動靴を届けると、伯母ははにかんだような笑顔で、
「いつも、ありがとうございます」
 と言った。
「また、明日来ますから」
 伯母との最後の会話だった。言っておきたいこと、聞いておきたいことが山ほどあったのに、あのとき急いで帰らなければよかったと、思い出すたびに悔いた。
 自宅での葬儀が済んで、伯母の部屋の押入れを開けると、グレーの毛糸で編みかけたショールがあった。伯母は今の私と同じように、今日の続きの明日があると信じて暮らしていたのだ。
 いくら石橋を叩いて渡るほど慎重であっても、一瞬の気の緩みが明暗を分ける。ことに毎日の車の運転は、ちょっとの油断では済まされない事故を引き起こす場合がある。震災だってある。何が起こっても不思議ではない日常なのだ。

 私が伯母の「ありがとうございます」に慰められたように、別居している二人の娘や孫には、電話口で「さようなら」の代わりに、「ありがとう」と、言っている。