ある日の出来事              
             羽田竹美
 
 以前、ある人と自動販売機につり銭が取り残されていたら、そのお金をどうするかで言い合いになった。私は当然、自分のお金ではないから自分のものにしてはならない、と言った。 ところが彼女は、取り忘れた人が悪いのだからそれをみつけた者がもらってよいのだと、激しく反論してきた。コンビニのコピー機のつり銭の取り残しも「もうかった」と、もらってしまうのだそうだ。私はよくそういうことがあるが、必ずレジに届けていた。それが普通だと思っていたので彼女の言葉に驚いた。お金を拾っても一万円以下なら自分のものにしてしまうと、それが世間の常識のように言い放った。このような考え方をする母親に育てられた子どもはどうなるのだろうと、心が寒くなった。
 長男のMが小学校の低学年のころであった。道で百円を拾ったので、交番に届けたら、お巡りさんが、
「正直に届けてくれてありがとう。えらかったね」
 と、褒めてくれたという。お巡りさんの字で、『正直に届けてえらかったから、ご褒美に百円をあげました。お母さんからも褒めてあげてください』と、手紙が書いてあり、百円が封筒に入っていた。
 お巡りさんのポケットマネーをMにくださったのだろう。私はMをうんと褒め、このお巡りさんの優しさに感謝した。
 今は百円が落ちていても、交番に届けるような大人も子どももいないだろう。しかし、もし子どもがおつかいを頼まれて、途中で百円を落としてしまい困っているとき、
「これはあなたが落としたの?」
 と、拾ってくれた人がいたらうれしいのではないだろうか……。
 そんな思いを巡らしていたら、今日びっくりするような人を見てしまった。 
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二枚目
 車で買い物に行ったのだが、お店の横で降り、自動販売機が何台も並んでいる前を通りかかった。向こうからおばあさんがやって来て、自動販売機のつり銭口に手を入れている。 一台、二台、三台、四台と、同じ動作を繰り返しているので何をしているのだろうと不思議に思って見ていた。五台目のつり銭口に手をつっこんで五百円玉を取った。
「あれっ? あれは取り残しのお金?」
 おばあさんはうれしそうにそれを投入口に入れてジュースのボタンを押した。私が見ているのに気がつき、こちらを見てにやっと笑った。
(このおばあさん、いつもこんなことしている常習者だ)
 私は背筋がゾーッとした。つり銭ドロボー?
 しかし、以前に、
「そんなの取り忘れた人が悪いんだから、もらったっていいのよ」
 と、言った女性の言葉が頭に浮かび、目の前で見てしまったショックでしばらくぼんやりしてしまった。お金に困っている人なのだろうか。それとも単なる小遣いかせぎなのだろうか。 きっと悪いことをしている意識がないのだろう。万引きという商品ドロボーと同じ感覚なのかもしれない。
 悲しい気持ちを胸に広げながら走り、日用品を買おうとしてスーパーの駐車場に車を止めた。買い物をしてからトイレに入った。すると、壁の張り紙に、
『トイレットペーパーをお持ち帰りにならないでください。他のお客様のご迷惑になりますので』
 と、あった。
「えーっ」
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三枚目
 スペアのトイレットペーパーが何個も置いてあった。それを黙って持ち帰ってしまう人がいるなんて信じられない話であった。これは明らかに窃盗である。他人のものと自分のものの区別がつかない人が多くなっている悲しい現実を目の当たりにして気持ちはさらに落ち込んでいった。
 自分さえよければなにをしてもよい。人の目を盗んで我欲を満足させる。みつからなければ「しめしめうまくいった」と、ほくそえんで快感を覚える。こんなゲーム感覚で毎日を過ごす人が多くなっている。こんな人たちの上にいつかとんでもない罰が下るかもしれない。人間を超えた大きな力がこの人たちを見ていることに気づいていないのだ。必ず来る死というものが物語るだろう。
 自動販売機でつり銭を盗んだおばあさんに私は一言も声をかけられなかった。にやっと笑ったおばあさんにそれは悪いことだと言えなかったうしろめたさに、自分も同じ罪を犯したようで胸が痛んだ。
 やりきれない気持ちで帰路につき、交差点の青信号で、右折車線に入った。直進車が次から次へと来てなかなか右折できない。まるで車が湧き出てくるようであった。とぎれない車を目で追いながらいらいらが頭を持ち上げてきそうになる。
 とそのとき、大きなトラックが止まって、ピカッと合図してくれた。「右折していいよ」の合図である。
(はぁ? わぁーうれしい!)
 私は「ありがとうございまーす」と大きな声で叫ぶと、おじぎをしながら右折した。
 今までの気持ちがいっぺんに消し飛んだ。気持ちよい五月晴れにやっと気づく。
 街路樹の緑に初夏の陽光が風と戯れて光っていた。