安土城址を歩く
           早藤貞二


 五月初めの連休の一日、私は安土城址を訪ねた。JR安土駅で電車を降りると、駅前に安土城天守をかたどった新しい建物が建っているのに目を引かれた。
 安土城郭資料館では、安土城の精巧な復元立体模型と、城をとりまく安土の光景を『洛中洛外図屏風』ふうに画きこんだ絵がたいへん参考になった。
 観光案内所では、城の天守閣を上がっていく趣向がこらされていて面白かった。
 私は案内所で安土町のイラストマップをもらった。それを見ながら、まず西の湖へ行ってみたいと思った。
 城のあった安土山は、かつて三方を内湖の水に囲まれた半島であった。山の山頂にそそりたつ安土城は、どこからよりも、湖の方から眺めた姿が最もきれいであったのではないか。
 私は舗装された大通りをまっすぐに湖の方へ向かった。右手の家々の切れ間から、新緑に燃える安土山と総見寺の尖塔が見え隠れしていた。
 間もなく、西の湖の水のきらめきが見えだした。みどりの葦(あし)のゆらぎと、湖の彼方に連なる八幡山から長命寺、沖島あたりの低くなだらかな山の線を眺めていると、何となく安らいだ気持ちになった。
 私は、湖の岸辺を伝って、大中の湖干拓田の外堀へ出た。堀に沿った土堤の道を、安土山の先端の方へと歩いた。
 左に広大な干拓田が広がっている。私は、伊崎寺詣りの帰り、内湖を真っ二つに割った道路を安土の方へ車で帰ったことがあった。
 昔の人は船で櫓を漕ぎ、白帆をふくらませて、ゆっくりと内湖を突っ切り、大きく映ってくる山の上の美しい城を仰ぎ見たことであろう。
 私は、左に安土山を見ながら、下富浦の集落に入った。ここから上富浦にかけては城下町が形成され、楽市楽座がしかれ、商家が軒を並べ、人の往来でたいへんに賑わった通りであったという。
 今は人通りも少ない、きわめて静まった町であるが、まっすぐにのびた道路と、両側の格式ある家々を見ていると、何となく昔の繁栄が目に映ってくるようである。
 私は、人に道を聞きながら、セミナリヨ跡へ行ってみた。
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二枚目   
 かなり広い敷地に、つつじの花が今を盛りと咲いていた。大きな石がころがり、樹木が生えているだけであった。
 しかし、ここからはすぐそこに安土の山が仰がれた。資料館の屏風絵にも、信長がセミナリヨに立ち寄って、宣教師と話をしている場面があった。異国の鐘の音が、毎日安土の空に鳴り渡っていたのである。
 私は、掘り割りにかかった百々橋を渡って、安土山の西登り口にたどり着いた。うっそうたる木々の緑が、午後の日ざしを浴びて、照り輝いていた。
 「安土城址」と刻みこまれた大きな自然石が立っている。私は、子ども連れの後から、急な石段の坂を上り始めた。
 信長や秀吉、家康、そして光秀も上った坂だと思えば、なぜか気持ちがさわぐ。
 木々のざわめき。幹をはい上がる蔦のからまり。地上に露出した木の根っ子。積もった朽ち葉。空を仰ぐと、日に透けたもみじの若葉がかわゆく揺れている。
 林の中をいく曲がりもしながら道は上る。やがて、総見寺の仁王門が見えてきた。建物の名残といえば、この寺の仁王門と三重の塔しかない。
 門は室町時代の建立というから古い。いい形をしている。左右の仁王は、隆々たる筋肉といい、鋭い眼光といい、古びた中に力強さを今も感じさせる。
 檜の匂いのする木立を縫って少し上ると、空が明るく開け、右手にしょうしゃな三重の塔があらわれた。
 小さいながら細工の行き届いた感じの塔である。晴れ渡った五月の空に、まっすぐのびた相輪がきれいであった。
 前は広々とした草地になっていた。総見寺の本堂や僧坊があった跡という。
 ここからは、眼下に西の湖が開け、遠い山々の連なりが美しい。私は、石垣に腰を下ろし、道で買ってきた草もちを頬張りながら、しばらく下界の景色に見とれていた。
 緑の中をかけまわる子どもたち。寝ころんで空を見ている若者。木陰で弁当をひろげている家族づれ。それぞれが、それぞれの休日を楽しんでいるふうであった。
 総見寺跡をあとにして尾根道を上り下りしていくと、重臣たちの館跡が見えてくる。そして、道は俄然、右に左にと直角に曲がり、両側の石垣も高く、巨大な岩石がびっしり詰まれていることに目を見張らせる。
 ことに黒金門跡の石づみは見事である。いくたびかの死線を乗り越えて戦ってきた信長の英知と気質が充満している感じがする。安土城址の最も安土城址らしい所であろう。
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三枚目  
 それにしても、このおびただしい岩石は、どこからどうして運び上げられたのであろうか。毎日たくさんの農民が動員されたことと思うがその苦労がしのばれた。
 どの石にもこけが生え、しだがはびこり、時代の風雪を感じさせるが、今もってびくともしない堅固な砦である。
 いちだん高いところが二の丸跡で、その奥まった木立の下に「信長本廟」があった。
 角石をいくつも積み重ねた直方体の上に自然石を一つ置いただけの、何の装飾もない墓であった。なりふりを構わなかった剛気な男にふさわしい墓ともいえた。
 疾風のごとく生き、忽然と去った信長。彼は自分の一生に満足をしていたであろうか。墓の上の松風のひびきは、「人生五十年。それでいい、それでいい」と、つぶやいているようにも思えた。没年は四十九歳であった。
 本丸跡を通って天守閣へ通じた土堤を上がると広々とした大中の湖干拓田が見渡せた。その向こうは琵琶湖である。高い石垣が谷底に達していた。
 石段を上がると、いよいよ天守閣である。明るく広い空地に大礎石が碁盤の目のように並んでいた。
 若い母親とその子どもたちが、石から石へと飛び移って、鬼ごっこを楽しんでいた。
 どのくらいの広さか歩幅で測ってみた。縦が二十八歩、横が三十歩であった。
 私は、資料館で見た模型の安土城を目の前でふくらませ、空中に五層七重の天守閣を建ててみた。
 壮大できらびやかな安土城が五月空に浮かんだ。束の間の幻影であった。
 土堤に上がって四方を見て回った。木が茂っていて、大中の湖干拓田の一部と、安土町の一角が遠望できただけであった。天守閣の上からならば、見晴らしは最上であったに違いない。
 その壮大優美な城も、わずか三年の命脈で、主人信長の不慮の死と運命をともにしたのである。
 しかし、生命が短かったために、よけい安土城への愛惜の念がいまも湧き続けているともいえる。
 私は、去りがたいあつい気持ちを抱きながら、山を下った。