二十年後       
           末広由紀

  ニューヨークの夜十時、冷たい小雨は、身を切る風を伴って静かに降っていました。
 かつて、飲食店だった跡地を、パトロール中の警官ジミー・ウェルズと指名手配されているボブとの劇的な再会がありました。
 十八歳のボブと二十歳のジミーの、二十年後に会う約束を果たしたあの有名なオー・ヘンリーの短編小説です。
 昨年(平成十七年)三月、タイから電話があり、ファックスも届きました。タイ天然ゴム協会の新会長に、夫と親しかった社長が就任するそうです。その就任式に出席してほしいとのことでした。私たちは、手を取り合ってこの吉報を喜びました。よく頑張った、努力が報われたのだと、彼を称えました。その昔私たちがタイに住んでいたときは、彼はまだ二十代の若者でした。幼くして父親を交通事故で亡くし、社長の祖父から将来社長になるべく、教育を受けていました。私ども夫婦は、彼の結婚式にも出席し、祝福した仲でした。彼は今、四十代の後半のはずです。
 就任式は、五月六日金曜日だそうです。久しぶりに会う彼の家族や、祝福に訪れるであろう懐かしい人々に会える喜びで、その日を待ちました。その喜びの日が近付いているというのに、私の持病の一つである胃腸病が悪化し、左目の緑内障と右目の白内障も悪くなってきました。でも、私はこの劣悪 な肉体を引きずってでも行く決心をしました。体に余裕をもたせるため、五月四日に福岡空港からバンコクへ発ちました。そして、久しぶりに嶋さんご夫婦、古井さんご夫婦、安田さんご夫婦にお会いし、楽しい一時を過ごしました。
 当日、夫と私はエメラルドホテルの会場へ行きました。二つの会場をつなげた大会場には、東南アジア諸国を初め、中国人、韓国人、アメリカ人、フランス人など沢山の人々でごった返していました。受付に行きましたら、私たちの名前がありません。おびただしい数の丸テーブルには氏名が書かれています。しかし、そこにも私たちの氏名はありませんでした。古井さんと安田さんが、詰めれば座れるから自分たちと一緒に座ろうと誘ってくださいました。
 
      
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二枚目
 日本人は私たちを入れて わずかな人数でした。何のために来たのか、と体中から力が抜けていきました。夫の落胆は、目をそむけるほど激しいものでした。 その時です。司会者らしい方がやってきて夫に氏名を確認すると、私たちを中央の四角いテーブルの方へ連れて行きました。
 そこは三十人のVIP用の席でした。十二番めが夫で、十三番めが私の席でした。二人は理解不可能な事態に驚きました。
 さらに、司会者が夫へ言いました。名前を呼ばれたら壇上に上がってください、と。二人は今から何が起ころうとしているのか皆目わかりませんでした。見守る古井さんや安田さんも首を横に振るだけです。 
 VIPの席は、日本人は私たちを含めて三人でした。   
 しばらくすると、農業大臣のスダラット女史がお見えになり、開会となりました。
 タイゴム協会の旧会長のセン・ホウ氏の表彰があり、新会長のラクチャイ氏が紹介されました。二十年ぶりにお見掛けするセン・ホウ氏はますます貫禄がつき、若かったラクチャイ氏もいくつかの会社を経営する立派な中年の社長さんになっていました。 
 次の瞬間、夫の名が呼ばれました。
 飛び上がった夫は、三人の方がいらっしゃる壇上へ導かれました。
 二十年前、タイの天然ゴムの品質を向上させた、との理由で表彰されました。
 英語で書かれたクリスタルのトロフィーを、大臣から頂戴した夫の顔には、緊張と驚きでひとかけらの笑みもありませんでした。夫と大臣を中にお二人の新旧の会長さんがフラッシュを浴びました。
 私は、胸がつぶれるほど、嬉し涙が溢れました。うつむきかげんに席に着いた夫の目には涙がこぼれていました。
 その直後からゴム会社の社長さんたちがお祝いに夫の側に集まってきました。二十年ぶりの再会でした。ほとんどの方たちは二世でした。若き日の面影を残した顔を見て、夫は名前を一人ずつ呼び掛けていました。
 声を詰まらせて抱き合う様子に、私はただただ有りがたく、腰を二つに折ったまま顔を上げる暇はありませんでした。
 ジミーとボブの再会と違い、感謝と喜びに満ちた七十三歳の夫の顔は、いつしか五十三歳になっていました。