個性ある人物描写
                    
〈質問〉
 日一日と秋も深まって参りました。
 わたくし、今春、大学を卒業しましたОLですが、ある人に「人物が死んでいる」と批評されまして、落ち込んでいます。
 どうしたら、人物を生き生きと描写できるようになるのでしょう? 以上の二点をお教えください。
     (名古屋市のS・Yさん)

 表現力の大事さ
 作品は主題(テーマ)、素材、構成、文章(表現)力という四本柱から成り立っていると、私はかつて述べました。そして、そのどれが欠けてもいけないと書きました。
 S・Yさんの場合は、「人物が死んでいる」との批評ですから、やはり表現力の欠落ではないでしょうか。それならば、事は簡単です。四本柱のうちの一本のみを修正すればよいのですから。
 それも「人物描写」と限定されているのですから、範囲もぐんと狭められます。「自然描写」に問題はないのですから、登場人物の描写に神経を集中させればいいのです。換言しますと、自然描写は完全にできているのに人物は……という場合、作者の心構えが、焦点が、人物に合されていなかったということになります。描写は自然描写だけではなく、人物にもあるという点に気づいておられなかったのでしょう。
 まだ、お若い人ですから無理もないと思いますが、これから表現力を身につけていってください。

 人物の表裏を描く
 登場人物を描く場合は、必ず喜怒哀楽を盛り込んでほしい、と思います。この四つが出せたら、一応、その人物を描き切ったことになるでしょう。もっと、くだけた言い方をしますと、人間の表裏を書いて、立体感を出してほしいということです。平面な、あるいは平板な人物像――と批評された場合は、一面的な人間描写しかしていなかったと考えていいようです。
     → 二枚目へ



二枚目
 人は三百六十度の面を持っています。ですから、各方面から光を当てますと、より立体的な人物像が描けるわけです。芥川龍之介は、そうした試みを『藪の中』で大胆に用いました。未読でしたら、ご一読なさってください。しかし『藪の中』は一つの手法にすぎません。形式はいろいろあるわけです。たとえば井上靖は『猟銃』で、芥川の『藪の中』をまねていますが、単なるまねではなく自分のものにしています。読者のあなたも、よい作品をどしどし取り入れて新しい自分の作品を作りあげていってほしいものです。

 内面にくい込む描写を
 人物描写と一口に言いましても、描き方はさまざまです。十人十色といいますから、書き手の手法もまた、さまざまあるわけです。ではここで、少し人物描写を紹介してみましょう。共に日本随筆家協会発行の本からの引用です。

 ……和子は小柄な色白の女の子だった。目が大きくて黒く澄んだ瞳がまぶしかった。まともに向かい合うと吸い込まれてしまいそうだった。鼻は小さめであったが、ツンと上を向いたその形が可愛かった。口も小さかった。しかし、くちびるの色はいつも紅く輝いて濡れていた。全体のバランスがとれていて、おれの妹の照子より、ぐんと美形だった。
          (神尾久義『初恋物語』より)

 由美は足音をたてて階段を下りていった。
「もっと、おしとやかにできないものかしら」
 芳枝は苦笑しながら洋服に着替えた。白のブラウスに紺のスカートである。あっさりしている、こういう組み合わせが好きなのだ。夫はいないし、家族は母と娘の三人きりである。着飾る必要もないのだ。それに中肉中背で、醜いほど太っている体形ではない。顔のつくりにしても、二重まぶたに黒い瞳が映えて人目を引く。鼻梁が通っているし、唇も形がよい。それに何よりも色白である。化粧とて、ほんの少し、身だしなみ程度にするだけだ。
 それでも華があるので、だれも五十一歳だとは思わない。額に皺がないせいかもしれない。目尻にもカラスの足跡はないし、唇も引き締まっていて、だれていない。それに、何よりも首筋がたるんでいないのだ。年をとると、顔は化粧でごまかせても、この首筋のしわだけはどうにもならない。しかし、芳枝は、そうしたしわもないのだ。
        (神尾久義著『マリアたちの夏』より)
     → 三枚目へ



三枚目
 昭和八年の春、十四歳で青山師範を受験して失敗した私は、叔父につれられて、小日向台の一隅に邸宅を構えておられる田中舎身(しゃしん)先生の「書生」として住み込むことになった。
 初めてお会いした田中先生は、茶色い丹前を無造作に着流して、すらりとした体形がいかにも「山の手の老先生」という感じであった。ただ、ごま塩頭の面長で、切れ長の目の下に、鼻筋の通りがはっきりしていないのが惜しかった。だが、細く剃った口ひげが、一直線に結んだ口元をほどよくやわらげて、先生の顔だちをひきたてていた。一見して、老紳士特有の枯淡の味がにじみ出ていた。
       (大津七郎著『一期一会』より)

 Sさんは、さほど上背はないが、がっちりした体格で、律儀な性格そのものを表したような、四角い顔をしている。父母より若かったが、今はもう八十をひとつふたつ超しているだろう。
 いつも背広にネクタイ姿で、少し大きく見える革靴をはき、木綿の縞柄の大風呂敷に、仕立物を包み込んで、だいじそうにかかえてくる。
 もの腰はひくく、ことばの丁寧な礼儀ただしい人で、だされた茶菓にも、なかなか手をつけない。ことばの少ない人であったが、新聞をすみずみまで読んでいて、知識がまことに豊富であった。
        (角 千鶴著『ゆうすげの詩』より)

 まず、母は、囲炉裏(いろり)の端にゴザを敷き、その中央に直径三五センチばかりある捏(こ)ね鉢(ばち)を据える。次に、鉢に上新粉を入れて熱湯を少しずつ注ぎ、左手を鉢のふちに掛け、右手を巧みに使って粉を捏ね始める。
 子どもたちは手をきれいに洗い、傍らに座って捏ね上がるのを待つ。母は、指についた粉を取っては、粉を足したりお湯を注いだりして捏ね合わせ、固さを調整する。
 バラバラだった小さな粉の玉が互いにくっつき合って少しずつ大きくなり、終いには指の粉も鉢のまわりや底の粉もきれいに吸い取って、一つの塊ができあがる。すると、母は腰を浮かせて膝立ての姿勢をとり、両手を使って体重を塊にかけて肌理(きめ)細かくなるまで捏ね続ける。
     → 四枚目へ



四枚目
 捏ね上がると、いよいよ団子作りが始まる。私(十二歳)、弟(七歳)、そして三歳の妹までが皆の真似をして、塊を小さくちぎり、ナス、キュウリ、ニンジン、カボチャ……などの野菜を作るのである。
 ナスのヘタの切り込みには鋏(はさみ)を用い、キュウリのイボは箸の先でつついてそれらしくした。弟と妹は母の手を借りて作っているが、私は見よう見真似でトウモロコシやニホンカボチャなど、手の込んだ物にも挑戦した。普通に丸めた団子も作り、できあがった物を粉を敷いた四角いお盆に並べた。
 いちばん大物はキツネである。それは、母の手で作られた。母は馴れた手つきでだいたいの形を作る。子どもたちの目は、母の手元に吸いつけられたように見入る。母の顔がだんだんと厳しさを増してくる。細かいところに手を入れているのである。顔を長細くして口のあたりを尖らせ、四脚を整えて尾っぽを下げる。
 最後に鋏を使って目を細く吊り上げ、鼻と口を直すと仕上がりである。母は、キツネを前の方から眺めたり、横から見たりして、
「おがしなキヅネだごど」
 と、テレ笑いをする。私は、弟と妹に向かって、
「上手だよな」
 と、ことばを投げかける。粉のついた二つの顔は、母に目をやり、
「うん、上手だよ」
「うん、うん。じょうじゅ、じょうじゅ」
 と、真剣なまなざしである。母はうなずきながら、目を細めて二人を見やる。
        (城山記井子『やすらぎの里』より)

 前述しましたように描写は個性的でなくてはいけません。そこで、もう少し例をあげてみますので、その香りを味わってください。これも日本随筆家協会刊の本です。

 いま、私は八畳ほどの洋間を自分の部屋として利用している。東側に、一間ばかりの出窓式に造られたスペースがある。そこには、ケース入りの博多人形を飾っている。
     → 五枚目へ
 



五枚目
  人形の足もとの小さな木の立て札には、枯れた筆書きで、「打ち出の小槌」とあり、薄く落款の跡も見える。
 ケースの大きさは、高さ四四センチ、幅三八センチ、奥行き三二センチである。中の黒塗りの台には、粘土製の、右手に「打ち出の小づちを」持った童子が立っている。
 童子の、高さ三〇センチぐらいの太った体には、ごく淡い緑色の、松鶴の柄の着物が彩られている。茶色の小づちのもとにつけられた赤いひもは、体の前でゆるく弧を描き、童子の左手へと渡されている。
 唐子風(からこふう)に、頭上と左右に毛を残し、あとはそった童髪にしている大きな頭部は、身の丈の四分の一はあろうか?
 やや上向き加減な白い丸い顔の、上下の中ほどに、間隔をおいた純真な瞳が描かれている。その上にさり気なくまゆが掃かれ、ふくよかなほおには、ほんのり紅がぼかしてある。見落としてしまいそうな鼻や、ちょっと開いたピンク色の小さい唇、柔らかそうな大きな耳――どれをとっても精巧で、寸分のすきもない。
 それを、人形の背後の、ケースの金色の一面がひきたてている。
        (青柳静枝著『夏椿』より)

 このグミの木の東側に、今にも崩れそうな茅葺(かやぶ)き屋根の家があり、無口なおじさんが独りで住んでいた。おじさんはニンニクが好きで、家の裏にたくさん作っていた。グミの木との境界に植えられた稲架(はさ)には、破れた野良着がいつも干してあった。その隙間から覗くと、おじさんはたいてい縁側に座って、煙管(きせる)で刻みタバコを吸っていた。手ぬぐいで頬かむりしていたが、日に焼けた面長な顔は、目がおちこみ、しわが多く、にらまれると恐ろしかった。おじさんは子どもが嫌いらしかった。
        (石川のり子著『茶飲み話』より)

 結論――
 人物を生かすも殺すも、作者の腕次第です。腕をあげるには、まず、ものを見る目を養うことです。いかに深く見るか、どこまで深くえぐられるかーーそれが描写の、あるいは作品の優劣の分かれめとなります。
 S・Yさんはまだ若いのですから、これからいろいろな体験を積み重ねて、人間研究をなさってください。