イメージは鮮明に
〈質問〉
作者は、同時に優れた読者たれーーそうおっしゃる先生は、二重人格尊重論者でいらっしゃるようですが、だからといって、それだけで立派な文章が書けるものでしょうか? わたくしは首を傾(かし)げたくなります。
あるいは、そんなわたくしが間違っているのでしょうか? 間違っているとしたら、どうしたらいいのでしょうか?
その辺のところを、お教えください。
(東京のS・Sさん)
信じる者は救われる
近ごろは新興宗教が花盛りです。「創価学会」「生長の家」をはじめとして「PL教団」「天理教」など我が世の春を謳歌しています。PLと天理は高校野球にも力を入れており、創価学会は創価大学まで所有しています。
では、なぜ、信者が増えるのでしょうか。ここで考えてみてください。
「日本の人口が増えたからだ」
「友達の輪ができるからかしら?」
「大勢の中にいないと落ち着かないのよ」
いろいろな答えが出ました。自信のある答えもあれば、そうでないのもあります。さまざまなのが愉快です。しかも、すべてが、「解答」になっているのですから偉いですね。特に、「大勢の中にいないと、落ち着かないのよ」という論は卓越しています。そうです。そうなのです。人間は考える葦(あし)ですから、不安に陥るのです。不安は、人を信じようとしない心から生じます。そして、その不安から逃れようとします。そこで宗教にすがりつくのです。考える葦でない下等動物は、不安に陥ることもないでしょうし、宗教にもすがりつきません。つまり、人間の弱さが今日の宗教を隆盛に導いたわけです。
昔から、「鰯(いわし)の頭も信心から」と言われているのは、その辺の道理を看破しているわけです。「信じる者は救われる」のなら、信じた方が楽だからでしょう。疑ってかかると救われませんし、悩みも解決しないでしょう。
そういう伝でいくと、「ひとのことばに耳をかさない人は、文章も上達しない」と言えるかもしれません。
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二枚目
複数的な視野を持て
おだてにのりやすい人と、そうでない人がいます。どちらが得かというと、「のりやすい人」と、私は答えます。「早起きは三文の徳」といいますが、この場合の「徳」でないのが残念ですが、本質ではつながっているようです。
人間はいろいろな面をもっていますので、一面的な視野では書きこなせません。ですから、複眼的な視野が必要になるわけです。それを分かりやすく「二重人格者になれ」と前章では書いたのですが、たとえが悪かったのかもしれません。「複眼的な視野を持て」と書けば、お分かりいただけるでしょうか?
文章は明確に
イメージが豊かで、鮮明な文章―というのは、くだけて言えば、「わかりやすい文章」ということにほかなりません。この『やさしい文章作法』では、そう述べるべきでしたね。
「分かりやすい文章」を書くには、どうすればよいかという興味深い問題の解答が、「作者は優れた読者たれ!」ということなのです。でも、すべての人が優れた読者でないということが分かりましたので、その辺を突っ込んでみます。
まず、文章を書く心がまえからー。
@ 難しい言い回しをしない。
A 気負いすぎないこと。
B 具体的に書くこと。
C 何を、いま書こうとしているのかを、自分自身に言い聞かせること。
だいたい、その程度でいいでしょう。文章を書くことは、自分の考えや意志を第三者である読者に伝えることですから、その点だけ忘れなければいいわけです。
具体的に書くこと
ここで、もう一度、前章の例文を引用させていただきます。出だしの部分です。
《私のふるさとは、山と川のある美しい村です。》
右の文章に手を入れると、次のようになります(私は、この作者のふるさとを知りませんので、私のふるさとである長崎県島原市に置き換えさせていただきます)。
《私のふるさと島原には、標高六〇〇メートル余の眉(まゆ)山があります。そして、眉山のふもとの白土(しらち)湖から、発した音無川は、市内を横断して有明海に注いでいます。全長三キロもありましょうか。》
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三枚目
お分かりいただけたでしょうか? 「山と川のある美しい村」のイメージが、かなり浮かびあがってきたのではないでしょうか? もっとはっきり伝えるには、人口が四万五千人とか、川幅は六メートルとか、キリシタン弾圧のあった地であるとか、いろいろ書き加えるといいわけです。つまり、「具体的に書く」ということです。
これは、言い換えますと、「抽象的な、あるいは観念的なことばを使わないこと」ということになります。この引用文にある「美しい村」の「美しい」が曲者というわけです。なぜなら、作者には分かっていても第三者である読者には、「どのように美しいのか」が分からないからです。
「美しい花が咲いています」と書いても、何の花なのか、どんな色をしているのか、花の大きさはどの程度なのか分かりません。そこで、「美しい花」のイメージを読者に伝えようと作者は努力をしなくてはなりません。それと同じことです。そして、それが描写という大事な文章表現につながるのです。
描写する喜び
最終的には、文章は描写ということになります。「描写の前に描写なく、描写の後に描写なし」というわけです。分かりやすくいうと「作者の目」なのですが、説明ではありませんので。お間違いのないようにしてください。
何だかだとごたくを並べているより、例文を提示した方が分かりが早いと考えますので、拙著『心に残る話』(日本随筆家協会刊)の中の「我が分身」という作品から二箇所引用してみます。
《頭を上げると、墨田川の下流にビルの灯が点(とも)っているのが目についた。この場合、それが救いであった。右側には貿易センタービルや東京タワーのイルミネーションが黒い夜空に映えていた。左側には豊海(とようみ)の高層ビルの灯が輝き、河面に映えたあかりは、尾をひいて揺れていた。ときとして崩れはしたが、波の間に間に浮いて、消えることはなかった。無言のうちにすべてを吸い込み、あるいは飲み込んでしまいそうな巨大な怪物に見えた。》
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四枚目
《正直いって、私の電気スタンドはおせじにも上等といえるものではなかった。デザインはいうまでもなく、装飾的にも古めかしい年代ものであった。それは今はやりのスマートな蛍光灯のスタンドではなく、椀(わん)のような形をした半円球の金属のそれであった。傘になっている半円球の金属は変色し、塗料もすっかり剥(は)げ落ちている。》
描写とは、つまるところ、「そのものを文章でイメージ化させること」と言っても、よいのではないでしょうか。カメラの目と考えてもらっても構いません。絵描きさんでしたら、絵で表現なさるのでしょうが、もの書きは文章で具象化するわけです。
作家が最も苦心するのは、前にも述べましたが、この「描写」なのです。描写の上手、下手が、作品の善し悪しにつながりますので、心してください。
結論―
説明と描写の区別がつく人なら、かなりの読書家といえます。また、それを意識して書き分けている人ですと、読み応えのある文章をものにしている人と断言できます。
ところで、S・Sさんの質問は全くナンセンスです。その原因は、人を信じることができない天の邪鬼(じゃく)がS・Sさんの心に棲みついているからと答えるよりほかに、私にはことばがありません。
S・Sさんは、まず人を信じることから修行してください。斜めに見るのは、作品の上だけにしてほしいものです。
きっとS・Sさんは、男性を愛したことがない女性なのではないでしょうか。そうでなかったら、素敵な男性に巡り合えなくて男性不信に陥っておられるのかもしれません。相手の悪い面ばかりあげつらわないで、よい面を見るように努力されてはいかがでしょうか。
花には花の、山には山の美しさがあります。
夜空に輝く星のきらめきにも心が躍ります。
このように「感動する心」を持っていると、作品にしたい、という衝動を覚えるようになるはずです。
たかが七、八十年の人生ですから、なるべく、よい面を見て楽しんでください。
そうすると、作品にも幅と奥行きが出て、読後感もよいものになるはずです。
いかがですか?納得していただけたでしょうか?