描写のいろいろ

〈質問〉
 文章は、「描写に始まり、描写に終わる」のが最高との先生のお説でございますが、どうも、その「描写」というのが、どういうものなのか分かりかねております。
 小生は三十歳になる文学青年(?)ですが、何一つ自分の文章に自信が持てないでいます。どういうのが描写で、どうしたら描写文が書けるようになるのでしょうか。
 具体的に例をあげて、お教え願えないでしょうか。
          (福島県のK・A氏)

 描写と説明
 まず「描写」と「説明」とは違うということから理解していってください。
 小説にしても随筆にしても、本来なら描写のみで運んでいってほしいのですが、これは観察力と筆力とを兼ね備えていないとできない芸当です。それゆえに、もの書きは「ものを見る目」を養わなくてはなりません。それは、ひとえにリアリティーを出す必然性があるからです。そのためには、読者に鮮明なイメージを与える必要があります。石なら石の、木なら木の存在感を出さないことには、文章が生きません。
「そこには石と木のみしかない所であった。」
 そんな文章を書いたとします。これは単なる説明にすぎません。しかし、この文章に存在感を与えると、描写になります。
 では、どうすればよいのでしょうか?
 当然、そういう質問になり期待感を読者のみなさんは抱かれることでしょう。いや、抱いてくださらなくては困るのです。「もの書き」を目指す人ならーー。
 答えは簡単です。天才、秀才は、「一を聞いて十を知る」といいますから、みなさんも既にお分かりのことでしょう。でも凡才な筆者である私は、その簡単な答えを書かなくてはなりません。読みたくなくても、目をつぶって(?)読んでください。
 つまり、「石」や「木」に焦点をしぼり、スポットライトを当てるといいのです。どんな形の石なのか、色は、大きさは……とか、あるいは「木」の種類、形、大きさ、葉の色、陽光に映えてどんな色彩を放っているか、とーー。 
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二枚目
 お分かりいただけたでしょうか。
「なあんだ!」
 そう言って、ガッカリしないでください。理屈は分かると簡単なのです。「コロンブスの卵」と同じことです。でも、いざ文章にするとなると、そうやさしいことでもないのです。

 自然描写の必要性
 一口に「描写」といっても、いろいろあります。「人物描写」「自然描写」と、大きく分けると二分されます。
 まず、この段では最も多く用いられて、しかも主要な「自然描写」から入りましょう。
 いま、私の手もとに本が数冊ありますので、その本の中から的確な自然描写の例をあげてみます。読者のみなさまも、その香りを味わってください。
  
 街にはいつのまにか秋の気配が漂っていた。街全体が灰色に包まれた感じの太原市の朝夕はすでに寒い。黒っぽい綿入れの上下を身につけ、両手を両の筒袖に交差させて突っ込んで歩いているおとなの中国人を見かけるようになった。あれほど輝いていた街路樹のアカシアの緑も、色あせて見える十月も下旬を迎えていたであろうか。
 広い我が家を引き払った私たちは、八畳一間の仮住居に転居した。上がり框(かまち)の傍らの畳の上には既にストーブが設置され、赤々と石炭が燃えていた。家具はタンスが一棹(さお)、部屋のいちばん隅に置かれ、あとは食卓だけである。しかし、着のみ着のままで帰国するのだから、驚きはしなかった。
          (山口玲子『心に響くメロディー』より)

 線香の煙を見ていると、かなりの勢いで昇っていく。まるで、何かに上へと引っ張られているように。そして、煙の上辺では渦を巻いて急に形は解かれて、消えてゆく。
 これと同じように、私は小さいころ、町の煙突から出てゆく煙の行方を気にしていた。細かく、薄れて消えていく煙を、私は消えたのではなく、小さな空気になって、その中で交っているのだ、と信じていた。それと似たような感じが、最近、し始めている。それも、他人の眼(め)には見ることのできない自分の心の中で……。
          (柏木亜希著『とっておきの話』より)
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三枚目
 私は今住んでいる熱海大洞台(おおほらだい)の住いの裏山の中腹に小さい掘立小屋の書斎を建てた。狭い場所で、窓の前は直ぐ急な傾斜地なので、用心の為、低い四つ目垣を結い、その下に茶の実を蒔いた。ゆくゆくは茶の生垣(いけがき)にするつもりだが、それは何年か先の事なので、今年は東京の百貨店で買った幾種類かの朝顔の種を蒔いた。夏が近づくとそれらが四つ目垣に絡(から)み始めた。反対の方に地面を這う蔓があると、私はそれを垣の方にもどしてやった。茶も所々に芽を出したが、繁った朝顔の為に気の毒な位日光を受けられなかった。
          (志賀直哉『朝顔』より)

 長い尾が弧を描くのは優美なものだ。
 南側二階にあるキッチンで朝食をとっていた。一枚張りのガラス窓を透かして、オナガ鳥が飛び交っているのに気がついた。秋も十月半ばを過ぎたころのことである。
 小川に面した我が家から、10メートル先の川向こうに竹が連なっている。大雨や雪のあとは竹林が変化する。幹の途中から折れ曲がったり、雪の重さに耐えかねて、うなだれる。
 オナガが二、三羽竹の葉先に止まった。鳥は、体重をあずけた瞬間に不安定になり、別の竹に飛び移った。竹が、乾燥した微かな音を立てんばかりに揺れた。
 隣の家から隣へと、友達を誘って遊ぶ子どものように、二、三羽を一群れとして行動している。その竹林に、別のオナガの群れもいた。
 体は水色がかった灰色で、頭は黒い。体から続いた先の尾は青くて長い。動きは穏やかだ。自然の中に溶け込んだ、きれいな鳥だ。
           (まつしたとみこ『水辺に集う鳥』より)

 草花の描写の場合
 自然描写は分かったが、では草花の場合はどうなのだーーそんな質問が聞こえそうですので、次にその模範文をあげてみましょう。

 おりづるらんは、楚々とした六弁の白い花をつける。
 わが家のリビングルームに並べてある鉢植えのおりづるらんは、外がまだ冬枯れのうちから咲きはじめる。幾重にも垂れ下がっている細長い葉の中に、軽やかについた花びらは、私を郷愁の世界へ誘ってくれる。広い野原で舞い疲れた小さな蝶が、羽根を休めた姿に似ている。頂(いただき)に黄色い花粉をつけた雄蕊(おしべ)は触角だ。 
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四枚目
 昼間、百八十度以上に精いっぱい開いた花は、夜になると閉じる。翌朝、レースのカーテン越しに柔らかい日ざしを受け、再び開く。一枚の長さが一センチほどの小さな花片(はなびら)ながら、健気さが感じられるユリ科の植物である。
 おりづるらんには、豪華な花の終焉(えん)にありがちなみじめさが伴わない。ひっそりと花期が終わっても、常緑の葉が四季を通じて観賞できる。
 根から群がっている葉は、細長く、稲のように尖っている。透明感のある緑に白条斑(ふ)が入っていて風情がある。外斑(そとふ)と中斑(なかふ)の二種類があり、それぞれに趣があっていい。株もとから芽をだし、茎になる。外斑からは緑の茎、中斑からは白い茎がでているのがおもしろい。伸びた蔓のところどころに子苗がつく。子苗にも、たくさんの葉が茂って茎がゆるやかなカーブを描いて垂れ下がっている。
     (斉藤博子著『水車のある風景』より)

 草花の場合は、山や川、あるいは海岸などのように大きなものではありませんので、描写はいちだんと緻密でなくてはならないと、この例文は教えています。つまり、小さい部分の観察と、描写が必要ということです。
 なぜなら、その草花を見たこともない人にも、その姿や形がはっきりと脳裏に刻み込まれなくてはならないからです。

 結論――
 描写がどんなに大事かということが、これでお分かりになったことでしょう。イメージをより的確に読者に伝えるために、描写は必要なのです。描写力をつけるには、表現力を養うよりほかに方法はありませんので、書いて書いて書きまくってください。