文は人なり
〈質問〉
わたくしは、四十六歳になる女教師です。
学生時代よりエッセイや随筆を書いてきました。もちろん、精いっぱい努力してきたつもりです。寝る時間をも惜しんでー。
最初の作品からして、おちゃのこサイサイで、鼻歌をうたいながら大傑作をものにしました。われながら天才ではないかと、自分の作品に見入り、酔ったほどです。
でも、いろんな所へ投稿したものの、どこにも採用になりませんでした。世の編集者は、わたくしの偉大な才能に気おくれしたものとみえます。
以来、もう長い長い間、わたくしの輝ける才能は埋もれたままで、日の目を見ておりません。何たることでしょう。三十年近くも経つというのにです。こんなことがあっていいものでしょうか。あふれるほど才能を埋もらせてしまうのは日本の損失であるばかりでなく、世界の損失です。
日本随筆家協会主催の「日本随筆家協会賞」に応募してみようかとも考えていますが、何か資格でもいるのでしょうか。
あわせて、優れた随筆の条件みたいなものがありましたら、ご教授ください。わたくしは、どんな素材でもテーマでもこなす自信がありますのでー。
(兵庫県のS・Aさん)
自信とごうまんの差
世の中は広いもので、「私は頭がよい」と思い込んでいるオバタリアン(中年女性)が、たくさんいます。
彼女たちは何か失敗すると、「私としたことが……」と言い、うまくやりとげると、「さすが私!」と言うのが口癖と、相場はきまっています。
私の知人に小さな会社を経営している女性がいました。自他ともに認める魅力的な顔だちの人でした。四十前後でスタイルもよく、男性にもてる華やかな雰囲気を持っていました。当然、自信家でした。それが時として、いやみに映ることもありました。
たとえば、当の本人は自分のそんな性格に気づいていませんので社員や部下を、「あのばか!」とか「ばかみたい!」とか言って、軽蔑しきった笑いを浮かべていました。
その彼女の作品を二,三度読んだことがありますが、友人や知人、あるいは近所の人の悪口や誹謗(ひぼう)しか書いていませんでした。
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二枚目
なぜ、こんなことをクドクド書いたかといいますと、S・Aさんの性格が彼女に似ているからです。自信を持つのは大事ですが、自信過剰はいけません、と私は言いたいのです。
だいたい、四十過ぎの人には、こうした人がたまたまいるのです。もちろん、すべての人がそうだと論評しているのではありませんので、お怒りにならないでください。ほんの一部の人たちですから……。
では、自信とごうまんの差はどこにあるのでしょうか。それは、自分を高みに置いているか否かで判断できます。それと、読後感がよいか悪いかでも分かります。
S・Aさんも、その辺のところを肝に銘じてほしいのです。
文は人なり
昔から言われていることわざに、「文は人なり」というのがあります。
つまり、人格、あるいは心を磨かないと、良い作品は書けないということです。換言しますと、人間は自分自身から逃げられないということでしょう。性格は、そう簡単に変えることはできないからです。
そういえば、日本の諺(ことわざ)に「三児(みつご)の魂百まで」というのがありましたね。これなどは、至言でしょう。
文章、あるいは作品になった場合、その人の性格が出るのは当然です。どんなに鎧(よろい)をまとったつもりでも、刃物をしのばせているのが垣間見えます。
S・Aさんに注文したいのは、あなたにも、そういう身勝手なところがあるのではないでしょうか、ということです。もし、心あたりがおありでしたら、早速、人格を高め、心を磨いてほしいものです。
もし、心あたりがない、とおっしゃるようでしたら、もうあなたは文章を書くのはおやめになった方がいい、とアドバイスいたします。
心を磨くには?
では、心を磨くにはどうしたらよいのですか?
当然、そういう質問が出そうですね。そこで私は、「人の痛みの分かる人間になってほしい」と、注文したいのです。たったこれだけのことですが、神ならぬ人間という生き物は、なかなかできないものです。
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三枚目
たとえば、表面は仲良くしているように見えても、裏に回ると、平気でその人たちを陥れたり、ありもしないことを言いふらしたりするわがままな人間もいます。そういう人は、まず読者は感動させるような小説や随筆は書けないでしょう。文章は小手先の単なる遊びではないのです。心をこめて書いて、初めて読者の心を捉(とら)えられるのですから。
人の親切には、心から感謝する念がないといけません。人間は一人でいきているのではないのです。大勢の人に生かされているのですからー。他人から受けた恩には報いなくてはならないのですが、どうも一部の人々は逆うらみをする傾向があります。これは心が貧しいからです。
物の本質、人間の道といったものを知らない、あるいは忘れている人が増えてきつつあるのは、物質文明の大きな弊害の一つの表れでしょう。
不惑―四十歳になったら、自分の顔に責任を持て、というのは、この年齢を境にして純なものがなくなってくるぞ、という警告でもあるわけです。本来なら、この辺で自分の心を引き締めなくてはならないのですが、たいていの人は逆に情熱を失ってしまうようです。
そして、わがままなエゴイストへと性格が移行しています。つまり、本能や欲望に比重がかかってくるのです。これと闘う心構えができていない人は、そのまま嫌われる実年・老人へと移行していきます。これを、私は、「幼児がえり」と呼んでいます。
この「幼児がえり」を拒否するには、心と精神に活力を与え、常に豊かな、余裕のある純な気持ちを養う以外に方法はありません。
それにもう一つ書き加えますと、恥という概念を忘れることなく、いつまでも無垢な心を持ち続けてほしい、という願いがあります。
私が四十八年間生きてきて感じたことは、「苦労をした人は丸くなるが、そうでない人は、幼児のままのわがままである」と、いうことです。
「かわいい子には旅をさせよ」という古人の心情がしのばれます。「情けは人のためならず」というモットーがほしいものです。生まれつき思いやりに欠けた人は、天にツバする不届き者と同様で罰を受けるに違いありません。この場合の罪は「駄作」という評価になります。心したいものです。
注「情けは人のためならず」とは、「人に情けをかけておくと、めぐりめぐって自分によい報いが訪れてくる」という意味です。決して、「人のためにならないから情けはかけるな」というのではありません。
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四枚目
随筆の心得の訓
@ 他人の悪口は書くべからず。
A 他人の肉体的欠陥をかくべからず。
B 他人を故意に陥れるような書き方はすべからず。
C 上(高み)から見下ろして書くべからず。
D 自分、もしくは自分の家族をほめるべからず。
E 感情にまかせて書くべからず。
右にあげた教訓は常識的なものですから、随筆を書こうと志す皆さんは既にご存知でしょうが、念のために記してみました。
教養のある人でも、意外とこの六箇条のどれかを冒しているものです。書きあげたら、もう一度点検してください。活字になってからでは遅いですからー。
結論―
心を磨くには、まず己(おのれ)のいたらなさを知るべきです。決して抜きん出た存在ではない、ということを知らないと、上からものを見下ろすことになります。家族や友人、知人、上司の引き立てがあって、初めて己が存在しているという事実を、まず知ってください。
次は友人を選ぶべきです。ただし、「類は友を呼ぶ」ともいいますから、これとて己の心を養うという前提がないと、ますますマイナスの世界へ引きずり込まれていきますから心がけてください。
S・Aさんも心を謙虚にして、まずは名作といわれている本を味読してほしいと、アドバイスさせてください。こういうことは言わずもがな、という気はしますが、あえて書きました。
「日本随筆家協会賞」に応募の件は、まだ時期尚早という気がしますので、当分の間、勉強してからにしてください。
なぜなら、自分の作品に惚れ込んでいるうちは、まだ他人に読ませる領域に達していない、と判断して間違いないからです。自分の作品のアラが見えてくると、本物になったと考えてください。投稿や応募は、それからでも遅くはありません。