〈小説〉
   差出人のない葉書(その六・完)
             高橋 勝
                                            

 正式な卒論のほうは、その後、予定通り冬休み前の締め切り日までに事務局に提出できた。また、例の感想文のほうは、あの小雨の夜抱いた教授への批判的視点はいっさい省略し、教授の喜びそうなところだけ、多少誇張して原稿用紙七枚にまとめ、やはり冬休み前のある日、閉まっていたドアの下の隙間から研究室のなかに放り込んでおいた。
 冬休み明けを待って、雅史は新年の挨拶を兼ね、石清水教授の研究室を再び訪ねた。
 教授は、あれはそれほど悪くはなかったよ、と穏やかな表情を見せた。
「ところで君の提出してくれた、例の感想文のことだがね、あれはよかったな。痛く感動してね。卒論の成績は感想文込みで A にしておいたからね」
 と、低く包み込むような言葉遣いをする。
「君の飾らない言葉で、感じたところが素朴に表現してあった。自分でも気づかない点を指摘してもらって、あたしにもそういうところがあったのかなって、改めて考えさせられる点が多々あった。うん、あれは確かによかった。繰り返し読んでいたので、君の述べていた主なところは全部暗唱で言えるよ。確か…、こんなところもあったな。
 敗戦後、どこもかしこも破壊され尽くし、焼け野原に変わり果ててしまった瓦礫の街、そんななか、寒い冬を深い土に包まれ、僅かばかりの水を命に生き延び、やがて大気を透かして陽光が降り注ぐや、ヨモギやワラビの芽が地中から目を出すように、人間という人間、誰もがその日の暮らしをなんとか生き延びようと必死だった。家族も家も身寄りも財産も、何もかも喪失してしまい、どこに行こうにも行き場もなく、生死の瀬戸際に追いつめられているうちに、ともすれば見過ごされがちな、およそ極北の生き方に足を突っ込まざるを得ない人たちに目を向けていた。そう、この人たちこそ、時の不条理な運命に立ち向かっていった、名のない若き女性たちの一群なのだ。こうした誰も見ようとしない闇の世界に光を当てて歌った歌には、哀しさを誘われずには詠めない、という一連のくだりなんか、自分で言うのも恥ずかしいのだが、全くその通りでね。あの当時のあたしはものを見る目が純粋そのものだったと思うよ」
 ここまで話を聞いていて、雅史は、教授の語る言葉につられて自分で書いた感想文にまつわるできごとが、細切れのスローモーション画像みたく、自分の頭のなかを過ぎるのを感じた。
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二枚目
 ――あれは、確か、教授に言われていた感想文を書かなくてはと、実家に帰省するときあの歌集を持っていったときから始まる。とりあえず読もうと、その「白雲木」を手にとって、ページを開こうとした。しかし、数百首も収めてある短歌集なので、到底最初から詠むことなど不可能なうえ、その気力ももとからなかった。そこで、適当にどこでもよいからめくってみた。すると、現在の奥さんに収まっているという、かつての教え子だった女学生との恋愛と結婚に到るまでの、一連の何十首にもわたる歌群に出会った。これは自分にはあまり関係もなさそうだったし、覗き見する趣味もなかったので、さらにページを飛ばして適当に開いた。すると偶然なのか、学生時代に教授が実際に見聞した戦後の街の風景を歌ったものに出くわした。何首かさっと目を通し、こちらのほうが書きやすいと思い、目安をつけることができたとの安堵感で、歌集は机上に置いたまま、弟と騒いだり、近くの田圃に魚釣りに行ったりして過ごした後、日曜日の午後に下宿に帰ってみると、肝心の歌集を実家に置いてきてしまったのに気づいた。引き返すのも、送ってもらうのも面倒なので、仕方なく、強いて題材にする歌をうんうん頭を捻って思いだしていると、いくつかの歌が目の前に文字になって現れた。多少違っていると思うが、確か、こんな感じの歌だった。

 T駅を出るともういる毒婦たち街がいつから淫売窟に
 散れ消えろ真っ赤な口紅ハイヒール煙草加えて金蠅ブンブン

 ――そう、これらは、教授が敗戦後の学生時代に、最寄りのバラック小屋の駅の改札口を朝早く降りると、焼け野原の混じる建物の陰や駅の裏通りなどに居並んでいた街娼を歌ったものなのだ……。
 顔を起こし、教授に再び目を向けると、雅史が内面で意識していることなど、夢にも気づいているとも思えない様子だった。いやそれどころか、何かこのうえない幸せに浸りきった雰囲気を醸しながら、途切れなく何らかの言葉を口頭に載せてぱくぱくさせている。
「その当時は、あたしも紅顔の美青年でね、黒い金ボタンの学ランに高下駄が凛々しく、よく似合ったものだ。いや姿格好だけじゃない、心だって濁りなど一滴さえなかったし、感覚だって犬の嗅覚に劣らないほどだったと思うよ。とにかくだね、社会の悪は悪として糾弾しなければ、街も社会も人間も決して進歩することも向上することもないからね。何も取り立てて行動に現すことのできないたった一粒の麦たるあたしには、そういう正義の想いをひたすら歌にうたって書き留めておくことにしたんだよ。
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三枚目
 君はあたしのそういう繊細極まりないところを、時代や社会とのつながりにおいて詳しく指摘してくれたんだ。いやぁ、自惚れているのではないんだが、とてもうれしいんだ。……ところで、君のことなんだがね、君は学部卒業後、どうするのかね」  
 と、雅史のほうに向き直り、上目遣いにじっと見つめた。
 突然振られた話題に、雅史は戸惑って咄嗟には返事をすることができなかった。
 雅史の就職はこの時点になっても決まっていなかった。というより、この一年間、就職活動をやらなかった。ただ四年次に教育実習をこなし、教員免許は取っておいた。だが、これだって卒業したらすぐに教師になりたいと焦って取得したわけではない。たとえ教職に就くにしても、一度学校の世界から外に出ていき、現実の社会や人間模様をできるだけ見ておきたいという思いがあった。これも、雅史がこれまで出会ったさまざまな教師たちの姿を観てきたのが一因だと言えば言える。だがこれから体験することになる個人的な経験は、あくまで自分自身の問題であり、間接的な影響はあるのかもしれないが、子どもたちの教育に活かすためであるなどとは最初から考えていなかった。だから教師になるとしても、三〇歳近くになってからでもいいのではないかと漠然と考えていたのである。ただ教授には、これからどのようにやっていきたいのか、こうした主なところだけ話して、内面の思いは胸のうちに抑えていた。
 話を聞き終わると、教授は、親指と人差し指で肉付きのいい自分の下顎をつまみながら、そうなのかい、そういう生き方も好いかもしれんな、とつまらなそうに横を向いた。
「でも君ならこのまま大学に残って研究者になる道を考えても好いんじゃないかな。そうそう、君の同郷からは、一年上級に磯谷君がいるよ。彼も学部生のころはよくあたしの研究室に遊びに来てくれてね、今は大学院に籍を置いて、あたしのもとで近代短歌の研究をしているんだ。なぜか知らないが、長塚節にひたすら興味を持っている。なかなかの頑張り屋でね。実家では帰ってくるように期待しているようなんだが、もうすこし好きな学問を続けたいと、あたしに相談に来たんだよ。ただ生活費は家に頼りたくないというので、あたしの知っている都内の某私立女子校を世話してあげた。するととてもやる気が出てきたみたいで、今、喜んで掛け持ちしているよ。 
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四枚目
 君もまだ若いんだ。君にとって何よりの宝物はその若さだろう。しかしだな、時間というものは知らないうちにどんどん過ぎていってしまう。これから学部を卒業したら、たとえ何をするにせよ、目の前に横たわる現実の生活にばかり囚われず、むしろそうした状況や運命といったものを飛び越えて、とにかくなにがなんでも真に理想とするものを自らの意志で追いかけずにはいられない、そんな前向きの生き方を絶えず心がけて欲しい。そうやって、そこから現実社会を批判し、未知の、そして未来の世界を開拓していくんだ。
 これからさまざまな運命に翻弄されると思うが、そうしたなかで、ちょっと一呼吸つく合間でもよいから、本大学を思いだして欲しい。そしていくつになっても、あたしとの繋がりを断ち切らないで欲しいんだ。君の人生においても、この大学とあたしの存在が必要不可欠なものであって欲しいと願っている。本大学は歴史のある伝統校だし、社会で活躍している先輩方がたくさんいる。どこに行っても名が知られているし、実績を積んでいるので、ここの卒業生というだけで君も信頼されるし、誇りに思っていられるだろう。研究室には、あたしがこの大学にいる限りいつでもいいから尋ねてきてくれたまえ」

 三月一日に卒業式があった。
 その後、大学はすでに春休みに入っている。そんなある日、一枚の葉書が雅史のアパートに届いた。見ると差出人の名前が記されていない。ミミズが地面を這うような筆跡だったので、誰が書いたのかすぐ分かった。
「卒業おめでとうまだ同じアパートに居るようだったら今度の日曜日遊びに来ないか他にも卒業生を三人ほど呼んであるこちらに来て書斎の整理を手伝ってもらいたい書庫用にマンションの一室を近くに買ったのだが移すのに人手がいるんだ仕事が終わったらこう言っては何だがお返しとしてささやかな食事をごちそうしたいなおこのことはこちらに来たら言おうと思っていたのだが君に向いている学校の話もあるんだぜひ一度来て欲しい」
 雅史は、自室で一気に読んでしまうと、葉書を手にしたまま二階のガラス窓を開け、外を眺めた。庭には黄や薄紫の花をつけた菊が三段重ねの植木棚に鉢ごと行儀良く揃えてある。板戸塀の外では、子どもたちが通りに絵を描いて遊んでいる声が聞こえる。顔を上げると、雲ひとつない青空があった。あぁ、東京にもこんな締まりのある寒空があったんだなぁ、と呆然と見とれた。
 人から誘いがあったとき、行けない場合は礼を失わないように、必ず理由とともにその旨を相手に伝えずにいられない性分だが、このときの雅史は、ひと言の返事もしなかった。(完了、6/6)