〈小説〉
  差出人のない葉書(その五)
            高橋 勝 
                             

 でもんすとれーしょんといえば、今は大分落ち着きを取り戻しているけれど、この大学だってときどき授業中止になっているじゃないか。せっかくきゃんぱすに来ても、鋼鉄のばりけぃどが何重にも張りめぐらされて、構内に入れない日々が続いていた。細い横門からなんとか潜ることができたとしても、真っ先に授業変更を確かめようと事務局前の連絡板のところに行くのが習わしだった。だが、そこには、本日の講義は諸般の都合で中止になりました、との張り紙がぽつんと貼ってあるだけだった。これまで入学してから、連日のように街頭で繰り広げられていた全学連のでもは、あちこちの大学きゃんぱすをも占拠し、どこの学校も統制がとれなくなっていたのだ。
 顔を上げると、公園灯が夕闇を背に、雪洞のように園の中ほどに灯っている。辺りに、紅葉した銀杏の木、微かに香ってくる金木犀、裸枝の桜木などを淡い影絵に浮き上がらせ、この灯りは霧雨にけぶり、幻想的な雰囲気を醸している。気がつくと、やけに耳に響いてくるものがある。脇の道路を通り過ぎる車の音だった。
 雅史は顔を落とすと、父の姿が突如目の前に蘇ってくるのを幻視した。なぜだろう、と意識を集中した。この全共闘や高校時代の担任のことなどをあれこれ考えていたため、でもにまつわる言語連鎖で、かつて父に言われていた言葉が息を吹き返してきたからかもしれないと気づき、自分でも驚いた。
 あれは入学式当日、実家から最寄りの駅まで車で送ってもらったときのひとこまだった。隣の運転席で話をしていた父の言葉が、頭の中に一連の言葉に纏まって聞こえてくる。
「生活費や学費は心配しなくていいけど、ひとつだけ父ちゃんの言うことを聞いてもらいたいんだ。雅史のことなので何も心配はしていないけど、学生運動だけはしないでくれ。よくてれびに映っているあのでものことだ。父ちゃんの言いたいのはこれだけなんだ」
 いつもの穏やかな口調とは違い、はんどるを握ったまま真っ直ぐふろんとを見つめながら話す父の横顔には、どこか他人を意識させずにはおかないような毅然とした雰囲気が漂っていて、雅史は口が利けなくなってしまった。
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二枚目

 雅史は公園の傍を離れ、ふたたび歩き始めた。いつか小粒の雨に変わっている。右側の車道はひっきりなしに走る車が強いらいとを照射するので、あすふぁるとは水膜に覆われて輝いている。傘も差さず下を向いて歩道を歩き続ける。いつか、いつものだるまぽすとが一人でじっと立っているが見える。そうだ、あぱーと方面に左折するT地路の手前の角まで来ていたんだと意識するが、なぜかそのまま暗がりの街を真っ直ぐ歩き続けていった。何気なく目を上げると、左手の飲み屋の赤提灯が、雨よけのびにーるを被って商店街の一画に大きく垂れさがっている。浅草の雷門に吊してある大提灯が思い浮かぶ。酔客が数人、その前で肩を抱き合い、乱れた歩調で歩いているのが影法師となってうごめいている。
 先ほど、岩清水教授は農地解放の話をしていたけれど、戦前のおれの父親はまさにこの時期に実家の跡取りを始めたのだ、と雅史は父のことを考え始めた。
 雅史の実家は代々地主農家であり、戦前まで田畑や山林を手広く所有していた。父はその次男として産まれたが、長男が生後直ぐ亡くなっているので跡取りとして育てられた。結婚して、雅史と七つ違いの姉が産まれたあと赤紙を受け取り、戦争に行った。戦後、父が南方から引き揚げてくると、先ほど石清水教授が話していた、まさにその農地改革に出くわしたのだった。雅史は戦後の団塊世代に産まれたため、その後、父がどのように生きてきたのか、よく知っていると自分では思っていた。
 幼い頃から特別なお坊ちゃんとして育てられた父は、戦前の実家が、小作農家の人たちに平身低頭されていたのを肌身に沁みて知っていた。それがこの農地解放を境に、穏やかな性格も災いしたのか、それまで小作人だった近所の人たちから、搾取されていたんだとか、こき使われていたんだなどと、憎まれ口を陰に陽に叩かれるようになった。
 それでも父は、敗戦後のGHQによるこの「民主化」政策のもたらした影響について、何事もなかったように、誰を恨むでもないかのように、このことにまつわる自分の感情を口に出すためしは一度もなかった。少なくとも雅史はこの農地解放に関する父の愚痴を耳にした覚えがない。

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三枚目

 ただ覚えているのは、やけになって、安値で買い上げられるのを免れた山林のほうを売り飛ばしたり、わずかに残った田畑を放棄したりして、新たな事業に手を出すこともなく、黙しがちに、残った土地を守りながら、働き通しだったことである。しかし、腹の中では、何かに対してやり場のない憤りをきっと抱いていたのに違いないと、今にして思えば思えないことはなかったと雅史は捉えている。
 思えば小学生の時分、雅史はわるがきのぼすだった。子分たちの先頭に立って、雨上がりの下校時に、道端に植えてあるねぎ坊主を端から端までこうもり傘でなぎ倒したり、祭りの夜には、所有者の分からない畑のすいかをひとつ残らず棒で叩き割ってしまったりした。その度に通報されては、雅史が、雅史が、と学校や付近の大人から家に苦情を言われていた。また同級生のある親からは、息子が雅史に虐められたと言ってよく家まで押し込んでこられた。父はそのような場合でも、終始伏し目になって耳を傾けているだけで、鼻息荒く帰っていく親の背中にちらりと目をやり、向こうが大人しく出てくればこっちも同じように出て行くまでだ、などと少しもたじろぐ仕草を見せなかった。
 よそ様に迷惑をかけ続けて、あれほどのわるさをしたっていうのに、こういう場合に限って父に怒られたり、とくとくと説諭されたりした記憶というものがまるでなかったのはなぜなんだろうと、雅史は子どもながらもよく一人で考えるときがあった。だが、結局よく分からなかった。
 また、中学時代は一途に勉強に打ち込み、優秀な成績を取っていたのに、高校に入学してからはなぜかやろうとする気力が失せてしまい、無口になり、ほとんど勉強しない一時期があった。何かに反抗するとか、環境にそぐわないとか、目標が見つからない、などといった理由とは思えない。もちろんおくての雅史に異性交遊に耽るといったことは到底考えられなかった。そうして、時間の経つまま自己管理ができず、流されるままに一年近くも過ごした。それゆえ、当然のこととして学年末試験でも三科目以上の赤点を出してしまった。クラスの順位も最下位のほうまで落ちた。その結果、父兄召還をされるはめになり、父が雅史と一緒に学校まで来てくれ、学年の多数の先生たちの前に座らされ、厳しく説教された。

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四枚目

 そのとき、父は黙って先生方の話を一通り聞いていた。最後に、お父さんはどうお考えですか、と学年主任に詰問された。父が何というのか、何と言われようとも雅史は少しも恐れてなどいなかった。ただ、場所が場所だけに内心恥ずかしい思いで一杯だった。でも父の口から出た言葉は意外なものだった。このとき父の発した言葉は、この先もずっと雅史の記憶に残るに違いない。忘れることなど生きている限りできないことだ、と改めてそう思った。
 父は、今にも弓矢を放つような、虎が獲物に今にも襲いかかるかのような、星くずみたいな目つきの数々を前にして、他の父兄がよく話す台詞のように、いつも勉強しなさい、将来の自分のためだからしっかり努力しなくてはだめだ、と折に触れて言って聞かせているのに、どうしても本人がやろうとしないんですよ、などとは一言も口にしなかった。そうではなく、子どもに到らない点があるとすれば、親としての自分に問題があるからです、というような内容の言葉をきっぱりと語ったのである。雅史は、そのとき父の脇で父の話す言葉を何気なく聞いていて、なんだか胸がいっぱいになり、涙をこぼしてしまった。
 一方、父親自身の問題として考えてみれば、戦後の不本意な思いは、四人の子どもへの愛情となって注がれていったのではないだろうか。しかし、同じ兄弟でも姉や兄や弟と、自分への叱り方には温度差があった。だが、これは雅史の思いこみに過ぎず、姉や兄や弟はそれぞれ自分のことを一番可愛がってもらっていたと思っているかもしれない。それはそうかもしれないし、それで好いと思う。ただ、雅史は、やはり、父は自分にたいして特別の愛情をかけ、遙か遠くから自分のことを観ていてくれたのであって、今の、そしてこれまでの自分を全面的に信用していてくれたんだ、と自信を深めていった。
 小雨に濡れながら足許をふらつかせている男が一人いる。先ほど目にした酔客の残像が残っていたせいだろうか、このときの自分の姿がだぶって見えた。対向車の通り過ぎるたびに、まるですぽっとらいとに照らし出され、行き場をなくして立ち往生している道化者の、そうジョルジュ・ルオーの描く《赤鼻のクラウン》に似た道化師の格好で、路上に影として浮かんでいるに違いない、と雅史は自分の姿を想像した。(続く、5/6)