〈小説〉

  差出人のない葉書(その四)

            高橋 勝 
                      
 雅史は、教授の力のこもった演説になんと答えてよいのか、言葉がしばらく出てこなかった。
「はぁ、ぼ、ぼくの調べた歌に関してなんですがね、恋の歌にしろ、子守歌にしろ、生活や労働の歌にしろ、ですね、歌人は、社会的な枠組みのなかで、人間と人間が関係し合う現実から目を離さないんです。そ、その土地に根を張ってですね、たとえどのような過酷な状況に押しやられても、逃げることなく踏ん張って、その状況のなかで、一心同体に共存しようとしているみたいなんです。つまり、自分に降りかかる運命がどのようなものであっても、そこから目を逸らすことなく、どこまでも自らの大地に足を着けて、正面からむかいあっている感じがするんです。時には過酷な現実に負けそうになったとき、そ、そうしたときこそですね、自分の心にしっかり向き合い、その挫けそうな心にむち打ちながら、身近な人との繋がりを願ったり、神や、自然へ祈ったりして、そのなまの思いを言葉に託し、歌に口ずさむことによって、人間の持つ弱さや、耐え難い心の飢えといった心情を、昇華させ、克服し、そうやって原初的な生命を取り戻しているみたいに思えるんです。と、とても素朴な、あり方なんです。文芸においてもですね、創作の根源は同じだと思うんです……」
 石清水教授は、雅史の話が終わると、一瞬下くちびるを突き出し、額に皺を寄せた。

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二枚目
「君も女々しい考え方をするんだね、そんなことでこれから先、自分の人生を切り開いて行けると思っているのかね。どこを見たって目ん玉をくり抜き合うような世の中だらけじゃあないか。こんな世の中をあるがままに受け入れて、自分のほうが努力すればなんとかなるだろうというんかね、ああ! どうなんだね……、甘っちょろいんじゃないのか、君の考えは!」
 と、大きな眼を白く剥き、雅史の顔をまるで別人のごとくに睨んだ。
 雅史は、教授の剣幕に驚き、内心恐れ入った。しかし、教授の主張する内容とは違うので、咄嗟にそうではない、自分の考えはこうなんだと率直に述べようとしたその刹那だった、例の女学生の顔がどこからか脳裏に浮かびきて、黒目がちの大きな瞳で自分の眼を間近に見つめ、崖ふちよ、と囁く声が聞こえたような気がしたのは。
 そうか、とそこで一呼吸ついてから、
「先生の話されたことは今のぼくにはよく分かりませんので、指摘していただいた点については今後の課題としてよく考えてみたいと思います」
 と、努めて穏やかな口調で応対した。
 教授は、何か探るような眼差しで雅史を見つめていたが、やがて黒革の椅子に深々と腰をかけ直す仕草をして、
「地方在住の作家のなかには無名ながらも良い作品を書きつづけている人も多々いるので、そういう作家を発掘しても面白いだろう。農民の社会的な生きざまをいかに自らの作品に取り入れているか、という観点を研究するんだ。一生の研究主題としても好いんじゃないか、無骨な君の性格に合っていると思うよ」
 と、険の抜けた調子になっていた。
「ところで、ここに署名願いの回覧が来ているんだ。われわれ職員用のものなんだがね、よかったら君の名前も書いてもらえんかな。いいだろう学生だって、君一人くらい…。人数が多ければ多いに越したことはないからな。これは大学側当局に対するわれわれの要望書なんだ」
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三枚目
 教授は、散らばった書類の中から一枚の印刷物を取り上げ、身を乗り出して、雅史の目の前の卓子に投げつけるように置いた。
 細かい文字がびっしり埋まっている。なんの要望書だろうと思い、よく読んで内容を理解しようとしたが、教授の視線が自分のほうに張りついているのを意識せずにはおられず、雅史には落ち着いて読むことなどできなかった。仕方なく胸の隠しから万年筆を抜き出し、「日本文学科四年 高藤雅史」と、所定の記入欄に横書きの署名をした。
 用紙を渡すとき、一番下に、「○○○大学教職員組合」との文字が目に入った。一瞬、雅史は自分の顔がこわばるのを感じたが、教授も微かな変化を見逃さなかったようだ。
 教授に挨拶して外に出ると、あたりは薄暗くなっていた。空には筋状に流れる黒雲の背後に丸い月が淡く独りぼっちで浮かんでいる。西方に小さく見える校門までは、ここから数百めーとるはありそうだ。雅史は、緩やかに続く下り坂を、一人で歩いて行った。紺色の厚い外套の首もとから、肌の奥の方まで北風が容赦なく忍び込んできた。たかが自然の現象なのに、ことのほか薄ら寒いのはなぜなんだろう、と一瞬自分を不可解に思った。
 行き会う学生のそちこち動く影は、そこに在ってもないがごとく、雅史の眼に意識されなかった。黙って歩いていても、胸だけがぶきみに重い。まるで埃のいっぱい付いた石ころが詰め込まれているようだ。卵ばかりでお腹の満杯に膨れた昆虫の姿が一瞬浮かんだ。頭の中は、教授と一緒だった先ほどまでの情景が無秩序に動き回っていて身動きできないほど押し込まれていた。部屋を出るとき、なんでもやってみなくちゃ分からんものだよ、と教授に言われたひとことが、雅史の脳裏に繰り返し囁きかけてくる。一体何を話そうとしたのだろう。
 校門を出て右に折れ、大きな交差点を横切り、北方に向かって、正門と講堂に挟まれた広場前を抜け、さらに真っ直ぐ歩いていった。先ほどから、通りに面した店の数々には灯りがついていて、学生たちの屈託のない話し声や身振りなどが耳や目に入ってくる。この界隈の街は、大学にすっかり溶けこんでいるんだなぁ、と改めて思わずにはいられない。
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 四枚目
 きゃんぱす裏手の停車場に着いた。電車がすでに待機していて、そこで自分を待っていてくれたような気がする。よいしょと中ほどの出入り口から乗り込み、一番後ろの座席に腰掛け、前方に眼をやり、じっとしていた。やがて運転手とともに男の車掌が勢いよくすっと乗り込んできて、一瞬客席の方に無造作に眼を向けたかと思うと、ちんちんと鐘の音を、発車おーらいの合図として響かせ、おもむろに電車は動き出した。この電車は、都内で今でも一つだけ残っているものだという、空中に張られた電線沿いに走る都電である。ごとんごとんと揺られるまま、五つ目の駅で降りた。
 いつの間にか霧雨が降っている。雅史は、降りた停車場から更に北に向かって、自分の住んでいる下宿の方角に歩いて行った。目的地の近くまで来ると、いつも見ているこぢんまりした公園の入り口付近に、こすもすが一本、細い茎を揺らして立っている。花は、うす暗い桃色で咲いている。雅史はなぜか、引き寄せられるように近づいていき、花びらを一心に眺めた。
 気持ちが静まるのに比例してか、先ほどの岩清水教授とのやりとりの場面が、一つひとつ浮かんでくる。署名の場面が一点、大写しに迫ってくる。なぜ、あんな署名などしてしまったのだろう、今になって後悔しても始まらないけど、などと何気なく思っていると、突如として輪郭の鮮明になったものがある。「教職員組合」という、ひときわ太い黒色の五文字だった。そこに続いて、二重写しになって迫ってくるものがある。雅史が高校三年のとき担任だった教諭の姿だ。
 よく若い副担任が代理で連絡に来ていた。クラスの誰かが休む理由を尋ねると、具合が悪いという連絡が入っているなどと答えていた。だけど、生徒同士では噂話が持ちきりだった。本当の理由は、何のすとらいきかよく分からないが、どこかのすとらいきに行くということだった。つまり、学校を休む日というのは、でもんすとれーしょんに出かけているためで、必然的に授業のほうはぼいこっとになっていたのである。生徒の方は自習になって大喜びだったけれど、単に自分たちは置き去りにされているだけだったということになる。しかし、そういうときはきまって課題の配布物ばかり大量に強いられた。
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 五枚目
 彼は、日本史を教えていた。肝心の授業のほうもちっとも面白くなかった。ただ、授業中は生徒のだれもが静かにしているものだから、彼は自分の方に注目しているものと思い込んで、下手くそな素人芸人が、混雑した通行人の前で、本当は観ているものなど誰もいないのに、一人情熱的に演じる街頭ぱふぉーまんすみたいな滑稽さを演じていた。ただときおり耳に入ってくる言葉は、なんでも悪いのは日本だ、日本は戦争で悪いことをしてきたんだから、あやまんなくてはならないんだなどといっては、自分の生まれた国を貶めていた。じゃ、どこか他の正義の国にでも行ってしまえば好いのに、なんで生まれたこの不義な国にいて、不義なこの国の柔軟な脳髄の、前途有望な青年たちに自国の悪さを吹聴するんだろう、と嫌悪を抱きながら密かに批判の目を向けていた。
 生徒たちからも、彼は、自身の抱く反日感情に比例する割合において侮られていた。そんな実情も知らないでいい気になっているみたいだったので、彼には自分を省みるといった態度がまるで見られないようだった。つまり、なんでも悪いのは他人であり、学校であり、教育委員会であり、資本主義社会や日本国である、とむきになって主張していた。学校全体の空気も、そんな調子の教諭を抱えているものだからか、まるで冷凍庫のなかにでもいるようだといつも感じていた。 
 そういえば、雅史とその担任との個人的な関わりにおいても信頼関係は一度として築けたためしはなかった。進学問題で胃が痛くなるほど悩んでいるっていうのに、どうして親身な言葉のひとつもかけてくれないのだろうっていつも思っていた。今にして考えれば、いつも批判的な眼差しで突き上げるような視線を送っているのを察知し、生意気な奴だなって、おれにどこか、怖さを感じながら見下していたのだろう、と当時考えていたのを、雅史は目の前に思いだした。それでも、生徒に向ける何気ない眼差しの中に温かい心情が一片でもあるに違いないと必死に目を向けていた。でも、見つめれば見つめるほど担任の瞳はどこか浮遊していて、魂の定まらない、とろんとした印象しか見いだせなかった。そのありさまが結局、個人「指導」においても立場上の自分を取り繕うことしかできなかったのだと雅史には思えた。   (続く、4/6)