〈小説〉
    差出人のない葉書(その二)
         高橋 勝 
                                              
 キャンパスに来れば、まず否応なく目にせずにはいられない研究棟は、学生を威圧するような何か特別な存在としていつも学部内の中心に聳えていた。雅史は今日始めてこの教授達の牙城に思い切って一人で入って行った。
 足を踏み入れると、一見してそこは、いつも使っている薄汚れた教場とは違い、塵ひとつない禁断の世界ではないかと錯覚させる空間だった。でも三階まで階段を上ってきて、渡り廊下を北に続く奥の方に歩いていく途中、同じ風景でも見慣れない視角から目にしたためか、西側に面したガラス窓から見える外の景色には特別の味わいがあった。そこで歩みを止め、静かに目を凝らしてみた。
 校門付近には機動隊員が数人、紺色の隊服にヘルメットを被り、棍棒とジュラルミンの盾を手に眼光険しい目つきで辺りを見張っている。その背後には、金網のついた鉄板の厚い装甲車が数台控えている。上り坂になっていて、校舎の入り口に続く通路脇の広場では、白文字のセクト名が描かれた黒いヘルメットの学生たちが、ロボット文字のような言語で埋め尽くされた立て看板の前で、倦むことなく拡声器をがなり立てている。一般の学生は何事もないかのようにその傍を闊歩している。
 学生運動の盛り上がりはすでに下火になっているせいなのだろうか、どことなく、いたるところで落ち着きを取り戻しつつあるなぁ、でも今は、「あさま山荘事件」のニュースが依然として世間を騒がせているけど……と、遠くに眼をやると、キャンパスの彼方に民家の家並みがぎっしりと詰まって小さく見え、人々の営みが何一つ変わることなく続いているようだ。そう言えばいつかどこかで耳にしたことだけれど、正月休みなどには、ここから頂を白く染めた富士山が、真っ青な大空を背景に泰然とたたずんでいるのを目にすることができるという。
 雅史は先ほどから、四人掛けの木製テーブルを前にして、折りたたみ椅子にひとりで座っていた。目をどこへやるでもなくその位置から、東側に位置する向かいの透き通ったガラス窓に目をやっていると、文学部の木造校舎が新緑の欅の葉のそよぐ合間にちらちら目に入ってくる。ガラス窓の手前には、石清水教授がデスクに座って雅史に向き合っている。そう、雅史はまさに今、教授の研究室に入り込んでいるのである。
 研究室に入って来られるくらいの積極性が今どきの学生にはなくなってしまったなぁと、教授はでっぷりした体格に釣り合った、太く勢いのある声でつぶやいた。それから、雅史が卒論の件で質問に来たのをふと思いだしたかのように、雅史に目をやるともなく目をやって、テーマの内容や選んだ理由などについて尋ねた。
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二枚目
「ぼ、ぼくは、意識的な創作行為としての文芸が、そもそもどのようにして生まれてくるのか、それを生活に根ざした童歌や、子守歌や、民謡などといったですね、そういった類の歌の詞を素材にしてですね、原初的な心理形態の面からですね、考察したいのです」
 と、雅史は頭を右に左に震わせた。
「それだったら、そうだな、どこか、そうした関係の資料を備えている郷土館や民俗資料館などに行くのもいいんだが、NHKに問い合わせしてもいいだろう。しかし、そうだなぁ、それよりもどこかそうしたものがまだ見られる地方に直接行ってみたらどうかな。東北地方だったらまず間違いないと思う。まずは自分の足で行ってみて、歌を蒐集している専門の人などに会ってくるといいんじゃないか、まだ残っているだろう」
 と、教授は背後の窓の方に回転椅子を向け、外のキャンパスに眼をやった。
 石清水教授は、雅史の卒論担当になっていた。担当の指導教授は三年次の学期末に学生が自分で選べるきまりになっているのだが、雅史は特に希望もなかったので事務局に決めてもらっていた。
 最終学年の今年度は、この教授の授業をひとつ選択した。というのも、教授は近代文学の方面ではご高名な方のようなのだが、雅史はこれまで面識もなかったので、この一年間個別に指導を受けるには授業を受けていないと何かと不都合だろうと考えたからだった。そこで、選択する時点の「シラバス」で本年度の講座を探したところ、自分で受講する他の講座との時間的兼ね合いを考えると、この教授の講座は「近代西洋翻訳文学概論」という、嫌に長々しい名称のものしか選択する余地がなかった。翻訳物といえば、上田敏の訳したカール・ブッセの「山のあなた」やベルレーヌの「落葉」の詩とか、森鷗外の訳したアンデルセンの「即興詩人」などはどこかで読んだ記憶がかすかにあるくらいだった。個人的には比較文学の立場から日本文学を見られるという興味はあったけれど、期待通りの講義が受けられるのか自信もなかった。と言うのも、教授の専攻は近代短歌の分野で成果を挙げていると聞いていたからだった。しかし何よりもまず教授と顔見知りになっておくためには仕方がないと考え直し、受講することにした。
 ある講義で、教授はつぎのような話をした。
「あたしはね、生まれが四方を山に囲まれた土地柄であったせいか、海に対する憧れには強烈なものがあってね。夏のぎらぎら照りつける太陽に触れると、あの果てしなく青く透き通る海や空、肌を撫でる潮風や焼ける砂浜、そういったものに取り憑かれてしまい、もう来る日も来る日も雨の降らない田圃の干ばつみたく、居ても立ってもいられなくなってしまうんだ。これはもう本能なんだね、あたしの場合は。それで……、夏休みには毎年君たち学生を連れて離れ島に行くんだ。海ざんまいの生活を送るのが昔からの、言わば年中行事となっているんだよ。
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三枚目
 海では泳いだり、スキューバダイビングをしたり、魚釣りをしたりして一日中過ごすんだ。晩には、釣った魚をみんなで料理し、キャンプファイアーを囲んで喰うのがまた楽しくてね。そうそう、はじめに短歌を創る課題を出しておき、最終日に参加者全員に発表してもらうことにしてある。良いものにはささやかなあたしからの賞品もあげるんだ。なかにはなかなかいいものがあるなぁ、もちろんあたしも創るんだがね……」
 この講義がひけてからその直後に、雅史は、ある男子学生が誰か傍らの友人たちに教授の話をしているのを小耳に挟んだ。
「アイツ、受け持ちの演習クラスの学生や研究科の院生に毎年募集をかけているんだぜ。オレも行ったことあるけどさ、七、八名の学生を引き連れて、教授の持っている離島の別荘で自炊生活をするんだ。別荘といったって、家主のいなくなった小さな民家を格安で買い取ったという代物なんだ。そこを拠点にして、ボートを繰り出し、さっきの話のような魚釣りをしたり海に潜ったりするわけなんだ。だがよ、釣りに行くときまって海水パンツいっちょうのまま海の真ん中で朝から暮れまでウィスキーボトルを手放さないんだよ。夜になればまたなったで、酒で盛り上がる。酒に酔ったからなのか、一日中肌をさらけ出していたためなのか、とにかくあの腹の突き出た真っ赤な裸で踊り出すんだからもう大変。いやそればかりじゃなくって、女子学生にまでなおも絡んだり破廉恥なことを口に出したりして顔を背けさせてしまうんだから、それはもう付き合いきれないって感じ、アハハハハッ」
 雅史は、そんなことがあるのかと、彼の話を耳にして驚いた。自分には真面目に応対してくれているようだし、ちょっと信じられないなぁ、そういう面もあるのかなぁ、と思った。と同時によく考えれば、いくら教授だといっても、しょせんは生身の人間に過ぎないのだから、それまで体裁や保身のためという要素があっても、仕事のほうはとにかく卒なくこなしているうえで、貯まりに貯まったストレスを、学生諸君を引き連れて、あのような形で充分発散できるのも教授職の特権なのではないのかな、とも意識した。
 しかしこの学生の話し方は、たとえ教授の目の前で口にしたわけではないといっても、教授に対して随分失礼なものだし、そういう話を耳にするのは、大概はこのうえなく面白いのだが、自分には笑えず、気分を悪くさせるだけだと雅史には思われた。だがやはりその一方では、こうも考えられた。教授も教授で、学生の前でそのような醜態をさらけ出しているからこそ、学生に侮られる事態になるのだと。だいいちあんなアルコール中毒みたいな飲み方をするから身体のほうもますます脂肪太りになってしまい、頭の頂上付近も薄くなっていくんじゃないか。普段細い血管が浮き出て赤くなっているあの鼻頭が、そこだけ飲んでもいないのにいつも酔っぱらっているみたいで不思議だなぁと思っていたけど、いまにしてやっとその原因が分かった。
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四枚目
 いくら授業から離れ、開放的な空間にいるからといっても、教授たる立場を弁えられない振る舞いをしているのなら、本当にそう見られても仕方がないな、などと勝手に意識を遊ばせた。
 また別の日に、教授はこんな話をした。
「先月、歌集を自費出版したんだがね。良い歌だけ選んで、あるオペラ歌手にレコーデングさせたんだ。この歌手が有名なソプラノでね、たまたまあたしが知っていたので頼んだんだがね、歌がほれぼれするほど巧いんだ。なにか心の奥深いところにある琴線に触れてくるという感じなんだ。ぜひ諸君にも聴かせたい。今日はこちらに小型のプレイヤーも持ってきてあるんだ。これで取り敢えず両面を聴いてもらいたい」
 教授はこういうと、電源コードを壁のソケットにつなげ、ソノシートを一枚、回転盤に乗せた。プレイヤーのスイッチを入れ、ピックアップを指先から静かに下ろす。
 何を歌っているのか、同じ言葉のフレーズを繰り返し、間延びする感じで朗詠しているのは分かるのだが、肝心の言葉の意味はよく聞き取れない。ただ、何も考えず、じっと耳を澄ましていると、ソプラノの歌声が、若い女性の身体全体からほとばしっているのを微かに聴き取れる。男声とは異質の、たおやかな女性らしい薫りがしてきて、聴くものの身体の奥まで震わせる美しさが確かにある。雅史はそれでもじっと耳を凝らして女性の声を聴いていると、しだいにそのなかに包みこまれて行くような、なにか母親の胎内に戻っているのではないかと思われるような、不思議な気分になっていった。
 一通り聴かせ終わると、教授はおもむろに話し出した。
「どうだ、いいだろう。この曲だってもちろんあたしが作ったものなんだ。この歌曲のソノシートも歌集に添えてある。限定出版なので早い者勝ちになるが、欲しい学生にも貰ってもらおうかなと思っている。もちろん本校の学生には値引きはするさ。ついては講義が終わったら希望者は早速申し込んで欲しい。ついでに言っておくが、購入した者には何らかの形で単位にも還元させたいと考えているんだ。成績の危なくなると思う者や、出席回数の不足するおそれのある者は、特にそこんところをよおく考えてくれ」
 見本で見せた歌集の大きさは、電話帳の半分くらいだが、厚さはそれくらいあった。紺の布張り箱には白い象牙の止めガネが付いていて、表紙には「白雲木」と金文字の草書体が印字されてあった。ハクウンボクか、どんな木なのかな、などと想いながら、講義終了後の学生の様子を見ていた。教卓まで出て行って、手に取ったり、言葉を交わしていたりする者はいたが、実際に申し込んだのは数名だけのようだった。          
(続く、2/6)