短編小説
     ある青春の陰影
              高橋 勝

     一

 この五月半ばの早朝、久しぶりに近くの田畑コースを選んで散歩に出かけたときだった。昨晩降っていた雨も上がり、歩いている道にはところどころ泥濘 (ぬかるみ)もある。ここから見えるのは、人影もない靄の薄くかかった新緑 の草木だけで、民家の庭々も、神社の参道や境内も、田圃も畑も道路沿いも、清らかな息吹が痛いほど漂っていて、異次元の世界に包まれているのではと恐い気がする。そんな麦畑の脇道に入りかけたとき、強烈な匂いが鼻をついてきた。いつしか嗅いだことのある確かな匂いと、眼にしたことのある疑いようのない夜の情景だったと意識しているその瞬間、薫の脳裏に明瞭な像が浮かんできた。
 ことさらこうした意識が浮かんできたのも、先日ベルグソンの本を読んでいたからかもしれない。生きている人のまぼろしについて語った文章だった。 過去に経験した出来事はいくつになっても忘却などされず、詳細に人のなかに保存されているというようなことが書いてあった。谷底に滑落する登山家や、医者からも絶望視されベッドの上で間もなく死を迎える病人などは、その一瞬のあいだに自分の過去がパノラマのように見いだされるのだという。確かに顔を真っ赤にして、息を引き取る間際の何時間か何日間か、眼球が、閉じられた目蓋のなかできょろきょろ動いている臨終間際の病人を見たこともあるのではないか。薫は、病床での父親の最後の様子を思いだしていた。
 現在の薫は、取り立ててそういう命の瀬戸際に立っているわけでもなく、ただ麦畑のむせる匂いに出くわしただけである。そう、あれは高校を卒業して少し経っていたから、昭和四十五年頃だ。今となってはもう四十数年も昔になる。 それ以来、あのひとは今も自分の身体から一瞬たりとも離れたことがない。歩いていても、本を読んでいても、買い物をしていても、折に触れ感じられては意識に顔を出してくる。でも今日はこの麦の匂いに誘われて、いつもに似ず、あの当時のことが鮮明に蘇ってきた。そうして、もぎりとったばかりの夏ミカ ンを食べたときみたいな感覚が、身体中に広がっていくのを感じるのである。
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二枚目
     二

「薫、薫」
 母が階段下のところから、二階の部屋に向かって大きな声で呼んでいるのが、立てきった真っ白な紙障子の外から聞こえた。
「なに、かあちゃん」
「電話だよ、中島さんから」
「うん、わかった。すぐ行く」
 薫は、読みかけの本に栞をはさんで閉じる。小林秀雄の『モーツァルト』を読んでいて、おれも、小林が大阪の道頓堀で女と別れたあと一人たたずんでいたらト短調シンフォニーの出だしのところが頭のなかに突如聴こえてきたように、あんな現実の大人の経験をいつかはしてみたいなぁ、などと想いに耽っていたところだった。
 階段を下り、玄関脇にある電話室に向かって廊下を小走りに走っていった。黒い受話器が、本体の電話機の上にクロスした格好で置いてある。後ろのどこか近くに母がいる気配を察して、薫はガラス戸を引いて閉める。
「もしもし、薫さんですか、あたし照枝です。突然で悪いんですが、これからすぐ会ってくれますか」
 咳き込むような声が受話器から聞こえた。
「え、どうしたんですか」
「とにかく事情は会ったときに話します。場所はあたしの家からすこし離れた、前の大通り沿いに火の見やぐらがあるの、知ってるでしょう。そこで七時にしたいんだけど、来られますか」
「うん、じゃあいいですよ。これから自転車ですぐ出かけるので、一時間くらいで行けると思います」
「そう、じゃあそのときに。さよなら」
 薫は、こんな夕暮れどきにどんな話があるのだろう、慌てているような話しぶりだったので、なにか急用があるのかもしれない、面倒くさい気がしないでもないが、などと意識していたが、これから会えるんだと思うと、なんだか胸のうちが少しずつ熱くなっているのが感じられた。自室に戻って、ジャンパーをはおり、下におりて自転車で乗り出そうとした。母が傍に来ていたので、ちょっと出かけてくると声をかけると、どこ行くの、中島さんに会いに行くの、 夕飯はどうするの、と真っ直ぐ薫を見つめる。なんかうるさいなぁと思い、どこに行ったっておれの好きだろう、ご飯なんてどうでもいいよ、と薫は少し吐き捨てるようにペタルをこぎ始めた。
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三枚目
     三

 薄暮のなか、ときおり通りすぎる車のライトに眩しく照らし出されながら、火の見やぐらのある消防用車庫の前に身を縮ませて薫は照枝を待っていた。しばらくすると、遠方から自転車を右に左にかすかにゆらしながら砂利道の大通りをこちらに向かってくるのが見える。目の前までやってくると、待っ た、と自転車を降りもせず、無理に作ったえくぼの笑顔を見せながら、あっちに行こうと穂が青々と伸びた麦畑のほうに目配せし、先に自転車に乗って ずんずん行ってしまう。薫も照枝のあとを急いだ。
 無言のまま麦畑のなかを五、六分ほど走った。今や、大通りからも離れ、街灯もない畑の真ん中あたりまで来ている。周りは右も左も、前も後ろも麦畑だらけ。遠くに眼をやると、民家の灯りがいくつか見える。
 気がつくと、麦の匂いが全身を浸してきて息苦しいほどだ。
 照枝は自転車を停めた。薫も停めた。
「こんな時間に呼び出してごめんね。薫さんが先日、確かに手紙を書いて投函したって言ったのに、いつまで経っても届かないので、事故でもあったかなってあれこれ考えていたんだけど、分かったのよ、お母さんが隠してしまったって。もう頭にきちゃってあたし、ケンカしちゃったの。それでどんなことを書いてくれたのか、どうしても聞きたくなって電話かけちゃったの」
 照枝は自転車のサドルとハンドルを片方ずつ持ち、うつむき加減の薫に向かってこう話し出した。
 二人の間には、もう二人分の自転車さえ入るくらいの空間があった。どちらからともなく無意識に距離感を保っていたのだろう。
 あたりはすっかり暗くなっていた。麦畑に囲まれた路上で、目も暗がりに慣れ、お互いをよく見ることができた。
 照枝は薫が話し出すのを目を凝らして待っているようだ。
「このあいだの手紙は、確か将来の進路のことと、これから照枝さんとどのようにつきあっていけばいいのか、ぼくの思いを書いたと思います。このところぼくのほうもすっかり境遇が変わっているので、しっかり考えないといけないと思っているんです。でも驚いたなぁ、手紙を隠してしまうなんて。 ぼくのほうだって、ときどき怪しいと思うときがあるんですよ。机の引き出しに入れておいた封筒が表と裏で反対になっていたり、別の段の引き出しに紛れていたりすることもあるんですよ。
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四枚目
 こんなことが何回も続くので、母の仕業かなと思っていつか何 気なく話したんです。すると母は、咄嗟に顔を真っ赤にして、そんなことあつしが知るものかね、と普段は見せたこともないような慌てたそぶりをして、その場を逃げて行ってしまったことがあるんです」
「まぁ、薫さんの家でもそういうことがあるんですか。あたし恥ずかしいな。 でもあたし、うちの母を疑っているんです。もう全部読まれているような気 がしているの。それはそうと、今回の手紙の話なんだけど、どんなこと書いたんですか。もう少し話して」
「照枝さんはこの四月から三年生になって就職活動が始まりますね。進学は特に希望していないので、高校を卒業したら化粧品関係の仕事に就きたいって言ってましたよね」
「ええ、あたしそうなんです。女性は自分をいつでもきれいにしていたいっていう想いを抱いていると思うの。あたし自分でもそうしていたいし、ほかの人にもそのようなことでお手伝いができる仕事をしたいなぁって、小学生のころから思ってたの。でも現実の職場のことはやってみなけりゃ分からないし、ありきたりのお仕事かもしれないけど、あたしそれでいいと思っているの。とにかくやってみたいのよ。薫さんはどんな希望をもっていますか」
「ぼくのほうは、手紙でも何回か書きましたので照枝さんもよく知っていると思いますが、おととしの夏休みに照枝さんの高校に行ってバスケ部の練習を見学した次の年、つまり去年の二月に現役の受験をしましたが、落ちてしまいました。そのあとは一年間浪人をして、この春、やっと志望する大学に入学できたところです。でもまだ間がないので、将来のことは具体的に決めてないんです」
「そうですか。あたしも薫さんが部活を見に来てくれてからは受験勉強でいそがしくなるだろうなぁって思っていました。それでこれまでのように文通は続けられないのではないかなぁ、お手紙を書くのは悪いのかなぁって思っていたのです。でも、薫さんは高校生の最後のころも、去年の浪人しているときも、それまでと変わらずいつも長いお手紙を書いてくれましたね。もしまた落ちたら、あたしのせいかもしれないなんて考えていたのです。でも無事に合格できてホントによかったって思っているんですよ」 「いええ、ぼくのほうこそその都度お返事を書いてもらってとってもうれしかったです。特に浪人をしているときは、家の人も腫れ物にでも触るような感じで見ているし、ほとんど一日じゅう誰とも口も利かないような日々を送っていたのです。
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五枚目
 そのぶん当時考え事をしていることや、目にしたことを照枝さんに読んでもらっているところを想像しながら何時間もかけて書くことができたので、なんだか気分が次第に高まり、解放されていったような気がします。いったん封筒をポストに入れてしまうと、もう早く返事が来ないかなって次の日も次の日も、そのことばかり気にしていました」
「そう言ってもらうと恥ずかしくなっちゃうなあたし。でも、ずっと文通を続けてこられて、すこしでも薫さんのためになれていたのならうれしいな」
「将来の話の続きですが、ぼくは小学生のとき大人になったら実業家になろうかなって考えていました。作文の時間に、将来つきたい仕事、という題で書いたことがあるんです。次男だったこともあり、将来はどうせなるなら人に使われないでできる会社の社長が好いと思って、そう書いて提出しました。先生は、なかなか大きな望みを持っているのね、薫くんなら大丈夫よ、きっとやれる、頑張ってね、そのためには大学に行かなくちゃね、なんて若い女の先生に言ってもらったと思います。そのことが頭から離れなかったので、現役のときは、経済や経営などが学べる商学部を受験したのです。それが落ちて去年一年間、週一回ずつ東京の予備校に通いながら、自宅でほとんど独学していました」
「ええ、そのこともお手紙でくわしく書いてありましたね」
「このとき、国語の問題に評論文や小説、古典作品があるため、高校生のときには考えられないくらいたくさんの文章を読んだのです。読むうちに、単に受験勉強のためだけではなく、しだいに書かれている内容を楽しめるようになってくるし、好みの作品や作家も分かってくるのです。するとこうした作品をもっと読んでみたいという思いが出てきました。実際数は多くありませんが、小遣いで本を買って読んだり積んでおいたりしました。このことから世の中の見えないこと、たとえば高校生のときの三年間、ぼくがいつも独りぼっちで神経過敏な自閉症のようになっていたとき、そうした眼で観ていた学校での人間関係や大人社会の不条理なあり方に関する問題や疑問点が言葉になり文章になって語られているのが分かり、自分の虚無に乾ききっていた身体の中にまるで石清水がトクトクと滲み入ってくるように感じられたのです。このときです、ああ、この世界が自分の求めていたものだったのだなっていう思いを強くすることができたのでは。このことが結局ぼくの進路を変えてしまいました。それで将来はぜひ国語や文学にかかわりを持てる仕事に就きたいと思うようになり、文学部に志望変更してしまったのです。おかげで、本当に進みたい学部に合格できてよかったって思っていたところなんです」
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六枚目
「そういう話しを聞くとあたし、かなしくなっちゃうな。でも……、気を取り直さないといけないですね。そうですか……、かえって浪人したことによって、薫さんの本当に目指すものが見つかったのですね。薫さんはあたしの知っている限り、中学生のときから賢かったと思うし、自分でやる気になれば、きっとやり通せる人だと思うの。いつかその夢は実現できると思うわ」
「まあ、今後、学生でいる間に考えが変わってくるかも知れませんが、学生生活は真面目に過ごそうと思っています。今はまだ実家から東京まで通っていますが、そろそろ家を出てアパートに住もうかなって考えています」
「そう、そういうのも好いですね。あたしも就職したら、会社の寮に入ってみたいって思っているの」
「そうですか。もうそういう年齢になったのですね。するとこれからはなかなか会うことも難しくなってしまうんでしょうか」
「そんなこともないと思うけど……」
 照枝は、薫を見つめていた目を落とし、足許の地面をじっと見つめているようだった。
「これまで五年近くもつきあってきたんだし、これからもずっとつきあっていたい。できれば文通だけではなく、機会を見つけて、このようにときどき会って話がしたいってこの間の手紙に書いたんです」
「あたしも薫さんとお会いできればとっても嬉しいけど、今までのように文通を続けていられるだけでも毎日がとっても楽しいの」
「これまでぼくたち一度も手を握ったこともなかったけど、よく考えるとおかしいなって思うことがあるんです」
「そんなこと、照枝、とくに思ったことなんてないわ……」
「ぼくこわいんだけど、照枝さんとキスしたいんです。キスしていい」
 照枝はしばらくうつむいたまま黙っていたが、薫のほうを一瞬見つめて「う ん」と頭を縦に振り、抱えていた自転車から離れ、薫のほうに二、三歩歩を進めてきた。
 薄いピンクのブラウスに紺のカーディガン、グレーのタイトスカートを身に つけた照枝が、それまで空けておいた場所に手ぶらで立っている、まるで何か に睨まれ今にも襲われそうになって一歩も身動きできなくなっている子ウサギのように。
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七枚目
 薫は、まさか本当にキスしてくれるとは心中思いもよらなかった。ただ成り行きで、自分とは別の誰かが自分の身体の中に入り込んで、その人が言わせたとしか思えなかった。
 これまで女性とそのようなことは一度も経験したことがなかったせいか、胸の動機が次第に自身の耳に聞こえるくらいに高鳴っている。表情には微塵も出さないようにして、目の前の照枝と同じように、薫も自分の自転車から離れ、照枝のところまで力を振り絞って近寄って行った。
 照枝の短めにカットした黒髪が、薫の頬に触れてさらさらと動いているその合間から、柚のような香りがしてきて、月明かりに映え、震えているみたいだ。
 やがて、
「できればもっと深い関係になってもいい」
 と、薫が照枝を見つめた。
「えっ、深い関係って、どんなこと、よく説明してくれなくちゃ、わかんないわ」
「え、それは……、その……、よく街の映画館に立て看板が出ているよね。まぁ、あのようなこと」
「立て看板っていっても、いろいろあってどんな立て看板なのか、あたしにはわからない。はっきり言葉で言ってもらわないとわかんないわ」
「……、……」
 薫は、照枝の言葉につられて、それが何か喉まで出かかっていたけれど、言葉として口にすることは絶対にしてはいけないと自分に言い聞かせた。もし口に出してしまったら、それが一生自分につきまとうことになり、馬鹿にされ見下されるにちがいないという思いがあった。これまで築いてきた二人の世界を根底から崩してしまうに違いないという意識も確かにあった。そうして胸は凍りつき、身体全体が宙に浮いている感覚が自分を浸すばかりで、やり場のない眼を伏せていることしかできなかった。
 照枝は、瞳を真っ直ぐ薫の目一点に注いで見続けている。
 もう何の展開もあり得ないと思ったのだろうか、やがて、薫に一瞥をくれると、 自転車に乗りかけ、さよなら、と泣きそうな顔になってその場を去ってしまった。薫はその場に一人取り残され、今度は自分の方が身動きひとつできなく なっていた。ただ、照枝の後ろ姿が小さく闇の中に消えていくのを見るともなく目を向けているのが精一杯だった。自転車の車輪が地面をすべっていく音……、 残響音としてかすかに聞こえている。
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八枚目
 薫は、照枝の感情が隠っているその音の響きに自らの気持を合わせるかのように、あぁーと腹の奥底から微かな吐息をついて顔を上げた。まん丸の月がすぐ目の前に浮かんでいる。なにもかも見ていたよ、とでも言いたそうに雲ひとつない夜空に出ている。

     四

 やがて自転車に手をかけ、サドルに跨ると、麦畑の中を、照枝が帰って行った方向とは逆の、薫の家がある北に続く道をこぎ始めた。照枝がそうしていたように、薫も電球を点けずに走った。
 薫は、自分に対する嫌悪感が刻一刻と深まっていくのを感じていた。と同時 に、何であんなことを口に出してしまったのだろうという後悔の念も芽生えてきた。自分の感覚と意識に向き合っていると、そこから言いようもない甘い香りが全身を包んでいるのを感じないわけにはいかなかった。もう一度呼び出して謝りたい、そしてあのままいつまでも一緒にいたいという衝動にかられ、自転車を止め、引き返そうかと考えた。しかし、それも現実的ではないと思い直し、自分の家に向かうことにした。
 おれは人が変わったみたいになんであんなことを口に出したのだろう。照枝さんに対して特殊な目で見るようになっていたのだろうか。特殊な目ってなんだ。照枝さんを女性の肉体を持つ一人の性の対象として見るようになっていたっていうのか。もしそうだとしたら、行動に出してみなくては、いつまでも自分の中に悶えている想いは高まるばかりということになる。そして、思いきってどうなるかぶつけてみるということにもなる。何事もやってみなければ分からないじゃないか。きっと照枝さんはおれの言うことなら何でも受け入れてくれる、いやこれまでの交際を振り返ってみれば、拒絶するなんて考えられない。おれは受験浪人するようになってから、しょっちゅうこのようなことを考えていたということなのだろうか。
 口に出してしまったあとではもう取り返しはつかないけれど、もしそうだとするなら、なぜおれはこうした男になっていったのだろう。高校生のときは、毎日決まり切った日課に追われ、それをこなすだけで脇目をふるう余裕などなかった。卒業してからは家に居ることも多く、受験勉強といっても自分でやることを考え、いわば主体的な生活を少しずつ身につけていった。そこで、自由がおれにも感じられるようになったということか。
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九枚目
 家には、おれが高校生のとき嫁にいった、六つ年上の姉がいて、定期購読していた女性雑誌が姉の居た部屋の押入にそのまま残っている。おれはその雑誌 を一冊、また一冊と引き出してきては読むようになった。そこには性に関する 記事が盛りだくさん載っている。「信じていた相手の男性に、部屋に入るやいなや肉体関係を強要された」などというイラスト付きの体験談や、「真実の愛のない性交渉をしてはいけないのでしょうか」などという、ドクトルチエコの 性相談の記事をむさぼるように読んでいた。おれは未知の世界に妄想を遊ばせていたが、そのあと必ずこんなことでたらめだ、面白く書いて読者を楽しませようとしているだけじゃないかなどと思ったり、こんな記事もう読んじゃいけない、ここにあるからいけないんだと、読んだ雑誌をすべて裏の林で燃やしたりした。しかし、そうやってもまだ大分残っている未読の雑誌に想いを走らせてしまい、勉強で疲れた合間に、姉のいた部屋に行っては盗むようにして持ち出し、自室で耽読していた。
 だから、その想いに刺激を受け、増幅していった欲望を生身の照枝さんに向けてしまったというのか。もしそうだというなら、おれはとんでもなく嫌らしい男だ、これからどうすればいいんだ。だがいずれにしろ、こうして今、夜道 を一人自転車に乗り、だれと出会うこともなく走っているけれど、おれの身体はどうしようもなく火照っている。熱い、頭のなかは、夕陽に西の空が真っ赤にやけるように、桃色がいっぱいに広がっている。あのキスの感触がオレのくちびるに残っている。そういえば、キスしている最中、それまで人形みたく身動きもせず、自身の両脇に下げていた腕を、おれの背中に両方とも軽く添わせ、照枝さんは腰の辺りをおれの身体に押しつけてきたような気がする。気のせいかもしれない、いやそのときの感触が今でもおれの身体にしっかり残っている。
 ああ、おれには分からない。何も分からない。今日おれが呼び出されたのは一体なぜなのか。手紙を隠されたのでどんなことを書いたのか聞きたいって言ってたけど、ほんとうにそうなのかな、それとも、自分で既に読んでいて、手紙の内容がそれまでとは違って積極的になっていたので、会って真意を直接聞こうと思ったのかな、もしそうならば、なぜおれの口から聞きたかったのだ ろう。

     五
 
 薫は上野公園のなかを、乗り物酔いでふらつくときみたいな足取りで一人歩いていた。先週の金曜日の夜、実家に帰って二泊し、日曜日のこの夕暮れどき、上野駅で電車を降り、公園口改札を抜け、文化会館前を横切ってきた。
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十枚目
 照枝とあの晩会ってからほどなく、薫は谷中にアパートを見つけ、引っ越ししていて、今はそのアパートに戻る途中だった。
 今日も朝から雨だったな、と薫は樹木の葉に降り続く雨を目にしながら、傘を差して公園内を歩いていた。噴水を右に見ながら、そのままこの広場を通って帰るいつものコースから外れて、奥まった左の方に足の向くまま歩いていった。まわりの鬱そうと茂る木々に気をつけていたわけではないが、梅 雨のせいか、紫陽花が雨に濡れて咲いているのが目に入ってくる。近寄って 一房覗いてみる。緑の葉の上に真っ白い五弁の花びらが四つから五つある。この花びらに取り囲まれるように粒状の藍色の花が密集して咲いている。
 薫は何か不思議な気がして、花弁に手をかざすと、そうだこの花の色合いは照枝さんの好きな色だ、と実家に届いていた手紙のことが改めて梅雨空のように思い浮かんだ。
 ここに来るまで、繰り返し手紙の文面を思い返していた。そのせいか、万年筆の藍色の文字が一字一字おのずから浮かんできた。
「薫さん、こんにちは。このところ毎日雨もようですが、体調のほうはいかがですか。聞くところによりますと、最近東京に引っ越しされたそうですね。憧れの一人住まいはどうですか。田舎とは違って都会は華やかで、きれいな女性に目移りしているのではないですか。でも家にいたときとは違って、自由である反面、何もかも自分ひとりでやらなくてはならないので大変だと思います。そのぶん、頑張ってください。それから大学のほうも、近くなったぶん思いきり充実した生活を送ってください。
 あたしのほうは、部活を引退しました。この一年、最後の高校生になりますので、一日一日大切に過ごしたいです。それと同時に、就職活動も始まり ました。求人情報は多く、就職環境は良いようですが、あたしの行きたい職場はなかなか見つかりません。でもできれば大手の化粧品会社に入社したいなって思っています。社会に出て働くことは、今のあたしには恐くて大変です。でもそこで自分なりに、たとえ小さなことでも、いつも働くということの意義を見つけながら、前向きに生きていきたいと思っています。  
 話はかわりますが、あの晩のことは、あたし忘れられません。こんなことを書いて気を悪くさせてしまったらごめんなさい。でも照枝、どうしても言わずにはいられないのです。
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十一枚目
 これまで薫さんだけは違うと思っていました。信じていました。でも結局、ほかの男の人と同じだったのですね。男の人と女の人が、ああいうことをするのって、私にはとても嫌らしくてしかたがないのです。汚らわしいやら恥ずかしいやら、私にはとても耐えられないのです。薫さんがあの晩、あんなことを口にするなんて、本当に信じられないのです。ショックを受けています。しばらく食事もとれませんでした。これからどうしていいのか、分かりません。とにかくしばらくお会いしたくありません。じゃ、さよなら」
 おれはイヤらしい男なのか、と薫は紫陽花の花に無言で話しかけた。イヤらしいといえば、いつかこんな話をしていたな。
「この間も部活で遅れてしまい、ひとりでバスに乗って帰る途中、はす向かいの後ろの席で、白髪交じりのおじいちゃんがじっとあたしを見つめているのよ。きちんとネクタイも締めているし、黒い革のバッグを持った銀行員か公務員ふうの人みたいだった。早く照枝のバス停まで行かないかなって、ちらちらそれとなくその人を見ながら思っていると、あたしの降りるバス停にきたら、その人もあたしに続いて降りてきたのよ。あたし恐くて胸がドキド キしてしまったの。それで急ぎ足で歩いたけど、そのまま夜道の暗がりのなか、その人も早足であたしをつけてきたの。家までは二、三百メートルしか ない畑道だったけど、着くまでに追いつかれてしまったの。その男の人は弾 んだ息づかいで、おねいちゃん、一万円あげるから、おじさんと遊んでくれないって腕をつかまれたの。あたし気が動転してしまい、どうしていいかわからず、なぜあんな力が出たのか分からないのですが、そのおじいちゃんを突き飛ばして、家のなかに駆け込んだのよ」
 またこんなことを口にしていたこともある。
「部活の顧問以外にも中年の男の先生が、授業中あたしのほうを見つめながら話をしているときの目つきや、担任や進路指導主事の男の先生があたしに話しかけるときの目つきで、あたしこの人達が今あたしにどんなことを想っているのかピーンと分かってしまうんだ。またあの先生、あたしのこと嫌らしい目つきで見てるなって思いながら、知らんぷりして目を逸らしているの。 がんばれよ、などと言いながら、あのバスケの顧問に肩や背中やお尻など何気なく触られると、ジーッと寒気(さむけ)が身体中走り抜けるのよ。あたし、キュッとにらめかえすときがあるんだけれど、気づかないみたい。被害妄想 といえばそうかもしれないけど、現にそう感じちゃうんだから仕方がないんだ」
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十二枚目
 考えれば考えるほど照枝さんの言っていたことが思い出される。いったいおれという人間は、本当にそういうおじいちゃんや部活顧問たちと同じなのだろうか。おれも高校生のとき、体育教諭がセーラー服の女生徒に両手で彼女の右手を握っていて離さず、その子が顔を真っ青にして、下に向いて動けなくなっていたのを、遠くから眼にしたことがある。そのとき、全身から血の気が引いた。そして決意した、あのような男にだけは死んでもなりたくないと。おれは心中では、今の自分がこういう男たちと同じだなんてどうしても認めたくない。でも……、照枝さんの言うように、おれは確かに彼らと同じ思いを抱いて行動に移そうとしたのだろうか。結果からすれば確かにそう言える。しかし、その後このことをくり返し考えていて気づいたことがある。 あの晩、自転車でひとり夜道を帰るとき疑問に思っていたことなのだが、これまで照枝さんを一人の性の対象として見ていたとは決して言えないということだ。性的欲望が自分のなかに芽生えていてしょっちゅう照枝さんを妄想しながら生活していたなんて、少しでも自分の過去を振り返ってみればありえないのは明白ではないか。たとえ一度でもそのような妄想に耽ろうとすることがあったとしても、何か自分にも分からない強い力が、照枝さんの何もかも見透かすような瞳に見つめられているような、不可抗力の力が自分を引き離していったに違いない。だが現実に照枝さんに手紙で指摘されたことから見れば、おれは自分に取り憑いていた妄想で、その場に漂っていた暖かく健気であった空気を瞬時にして犯してしまうような、そんな言葉を、そのまま照枝さんの前にさらけ出してしまったことになる。しかし、自分に言い訳 をするのではないが、何かが、自分以外の何かが自分のなかにはいってきて、自分に囁きかけ、ああいった言葉を喋らせてしまったとしか思えないのだ。だがそうであったにせよ、おれはそうした誘惑と戦うことをせず易々と悪魔 の声に乗っていったのではないか。なぜ毅然と戦おうともしなかったのか。このこと一つをとっても、自分の中に邪鬼が宿っていたのは認めざるを得ないだろう。今はこうして雨に濡れて鮮やかな紫陽花を見つめているけれど、見ている心はそれだけ暗闇の世界に陥っていくようだ。自己嫌悪なら、分かっている。でもこの悩ましい種はそれだけではなさそうだ。
 公園のなかも、あたりは暗がりが刻一刻と増している。傘も重く感じられる。少し歩こうかとも思うが、足が動かない。手前の紫陽花の花、それに緑の葉。背後には、ブナやけやきの大木、その幹や葉の茂った枝。雨に煙る植 物のいのち。絶え間なく降り注ぐ雨音。目に映るもの、耳に聞こえるもののなかで動けずにいるおれは、照枝さんとの関係に意識が移るのを感じる。
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十三枚目 
 一人だけで思っているのであればそれで済んでしまったのに、おれは、隠しもできない自分の姿をあの手紙でズバリ指摘されてしまった、ほんとうにこんな汚らわしい自分を、もう二度と照枝さんの前に晒すことなんてできるものではない、ああ、自分の姿が遠くに見える、五右衛門風呂のなかに押し込められている、業火に煮えくりかえる湯のなかで、出るにも出られず湯の熱さに耐え続けている自分の姿が……、熱い、熱いよう……、これからおれ はどうすればいいのだ、照枝さんもどうしていいか分からないと言っていた、おれにも分からない、だが……。

     六
 
 薫は実家の縁側に座り、新聞をよんでいた。小春日の差し込むガラス戸の外が気になるのか、ときどき読んでいる目を庭の方に向けている。母屋の西 隣にある、この二階屋根の天辺よりもっと高いケヤキの木から、紅く染まった葉が休みなく落ちている。庭を囲った四方の、南向かいの物置小屋にも、東側のもはや牛のいない牛小屋にも、西側の植木場にも、それを囲っている竹垣にも、そして庭一面にも落ち続けている。
 玄関の土間の上がり端からは、閉じた白い障子紙を通して、板敷きに腰掛けて話をしている父と母と兄の声が聞こえている。兄は薫とは二つ違いだ。 高校生の三つ違いの弟はどこかに出かけている。椎茸栽培作業の合間、午後の休憩に裏山から戻ってお茶を飲んでいるところだ。
 薫は話に加わるでもなく、縁側で依然としてくつろいでいた。「薫は、」 などと話しているのが聞こえる。
「薫は、東京で学生生活を送っているのでしょうがないけど、どんなに働いても、働いた稼ぎは次から次へみんな持っていかれてしまう」
 と、父の声がする。
「本当にいい気なもんだよ。家にもよく帰ってくるけど、仕事の手伝いなんてしたことがないんだ。高い授業料のほかに、毎月の部屋代やら生活費、さらに小遣いなどと言って持っていくんだから、いくら学生だって少しはカネのありがたさを知るべきなんだよ。勉強する時間のほうが大切だとか言って、 アルバイトなんてやったこともない。こんなしまらない人間にしているのも みんな母ちゃんが悪いんだよ」
 と、いかにも憎らしそうな話し方をする兄の声。
「なに言ってるんだい。薫のことは何一つ悪口を言わせないよ。あつしは、薫がそうしたいと言うなら、大学ばかりか、どこにでもやってやるつもりだよ。薫にやる月々のおカネは、これは薫のためにと、いつもあつしが取っておくんだよ。
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十四枚目
 父ちゃんは稼ぎを持っていかれちゃうなんて言っているけど、本当は薫がカネをもらうときは、あつしのほうにばっかり言うもんだから、さびしいんだよ」と、多少ムキになっている母の声もする。
「そういうやり方が結局薫をダメにしているんじゃないか。母ちゃんがそう言うならもうこれ以上言わないけど、まあとにかく学生でいるうちは学生らしく、人に迷惑をかけずにきちんとやってもらわなくちゃなぁ」
 と、縁側にいる薫に聞こえよがしの言葉を発する兄。
 ちょうどその時、自転車に乗ってきた郵便配達夫の声が聞こえた。
「薫、手紙が着たよ」
 薫は障子を開け、母から封筒を受け取ると、差出人にちらと眼をやり、二階の自室に行って読もうとした。背後から、「オレの若かったころは、女の人から文などもらったら、親からひどくおこられたもんだ」と父、 「あんなふうにして女とつき合って遊んでいるんだから、学生の身分でいい気なもんだよ」と兄。
 自室の座布団に座り、ハサミで封を切って、薫は手紙を読み始めた。
「薫さん、前回のお手紙からずいぶん日にちが経ってしまいましたが、その後お元気でしたか。
 ではまず、あたしのほうの近況報告をしたいと思います。昨年は、夏休みも返上して就職活動で忙しい毎日を過ごしました。おかげで無事第一志望の会社に採用が決まりました。勤め先は横浜です。
 もっとくわしく説明しますね。今年の三月に高校を卒業し、その後はこちらへの引っ越しやら、四月の入社式と続いて、さらに研修が始まり、九月までの半年間、研修生として商品の知識や接待の仕方など、実際のお仕事を学 びました。仕事も事務系と販売営業系に大きく分かれるのですが、私は販売 職になりました。先月からは、こちらのデパートに出店しているお店の配属となり、新米セールスとして働いています。失敗ばかりしているけど、先輩方もよくしてくれますのでやる気が出ています。何もかもが新鮮で、毎日笑顔でがんばっています。
 住んでいるのは会社の寮です。昔、話したかもしれませんが、お勤めは地元を離れ、どこか遠いところに住み込みながら一人でできるところにしようと思っていました。でも引っ越しのほうは大変でした。荷物はあまりなかったのですが、それでも寝具や衣類、その他生活に必要なものは持ち込みました。実家の小型トラックをお父さんが運転し、お母さんにも来てもらって、途中で低い机を買ってもらったり、寮に着いたら掃除やらこまごました手続きなども一緒にしてもらったりしました。
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十五枚目
 帰るとき、あたしの手を握り、照枝、がんばんのよ、何かあったときはすぐ連絡してね、って言う白髪交じりのお母さんの顔を思い出すとあたし……。 もう引き返せないって、この時思ったの。それからお母さん、薫さんのことも話していたわ。田舎にいるときは、よく手紙のやり取りをしていたけど、このところあまりお手紙もこなかったみたいだね、薫さんとのお付き合いはどうなっているの、って聞かれたの。あたしなんて答えていいか分からなかったけど、今も友だちよ、って言ったの。すると、そう、それならいいんだけど、って目を伏せていました。
 こうして何やかやあわただしく過ごしてしまい、お手紙を書く余裕がなかったのです。やっとひと段落ついて落ちつきましたので、お休みの今日、こうして書いているところなんです。
 あの晩の後ずっと薫さんからお手紙もいただけないし、どうしてしまったのかしらってずっと考えていました。もしかして東京に引っ越ししたため、 実家に戻らず、あたしの手紙を見ていないのではと思うこともありました。 でもそんなことはないと思います。それで結局、あたしが何かのことで薫さんを怒らせてしまったに違いないと思うようになったのです。
 でもあたし、昔いろいろあったけど、どうしても薫さんのこと忘れられないのです。寝る前に薫さんのこと思い出さない日は一日もないのです。あたしが、今日は川の土手まで行ってみる、って言うと、薫さんはたいてい、うん、とぶっきらぼうにしか答えてくれませんでしたね。
 あたしだめですね、こんなことばっかり書いてしまって。いけない照枝を許してください。何か気に障ることを言ってしまったりやってしまったりしたのでしたら、そのことを教えてください。どんなことでも謝ります。そして一度 でいいですからお会いしてくれませんか。じゃ、今日はこれでさよなら。
 追伸 あたしの職場での写真、薫さんに一度見ていただきたくて先日同僚に撮ってもらいました。同封しておきます」
 封筒には文面にあるとおり、制服を着ている写真が一葉同封してあった。髪も少し長めになったせいか、写真の照枝は去年最後に会った時より大人びて見えた。だが、えくぼの浮かんでいる笑顔は、中学三年生のとき、それまで全く見知らぬ少女であった照枝からはじめてもらったお下げ髪の写真のときと少しも変わらず可愛いい。眼が離せずじっとしばらく見つめている。裏側を見ると、 寮の住所と電話番号が記されている。
 薫は二階の部屋からガラス戸を通してふたたび眼を外にやった。紅葉したケヤ キの葉が一枚一枚、いぜんとして空中を舞い降りている。暖かな陽射しが、引き 締まった冷気のなかに降り注いで、色づいた枯れ葉を照らしだしている。薫は涙ぐんだ。
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十六枚目
     七

 その後、谷中のアパートに戻り、この手紙のことと自分の対応を思い返して いた。というよりも、思いださずにはいられない、いや何かにつけてこの腕からなのか、足からなのか、指からなのか、身体の到るところに照枝の存在を感じてしまい、自ずと思い浮かんでしまうのだった。同時に、あの月夜の晩のことを厳しく言われてしまった手紙の言葉も思い浮かんできてしかたがない。照 枝の言葉は、たとえ結果だけからにせよ、自分がどのように見られているか、 彼女にとっての真実の薫自身の姿というものに気づかせてくれた。だが、それだけにもう二度と彼女に顔向けのできない自分が思いやられ、胸の奥を針で突き刺されるような痛みとして深まっている。その一方で、実家から離れ、一人 住まいのアパート暮らしをしていると、誰にも会えない寂しさが時間とともに 強まっていき、やるせない照枝への思いが身をもてあましていった。だけど、 薫は、これでいいんだ、こうなったほうがお互いのためなんだ、と自分に強いて言い聞かせ、照枝への返事は書かうともせず、そのまま顧みることもしないように努めていた。
 それから三ヶ月ほど経った。大学の講義が終わり、地下鉄を乗り継ぎ千駄木駅を下車したあと、谷中墓地を横切り、近道してアパートに戻った。玄関脇に拵えた一坪ほどの植え込みに、活けてある幾株かの水仙とその隣の置き石の陰 にクロッカスの花がこぢんまりと佇み、それぞれ黄色い色合いの花がいっそう寂しさを誘っている。玄関戸を引くと、大家のおばあさんから声をかけられた。
「永塚さん、お手紙が届いていますよ」
「はい、すみません」
 雑誌ほどもある大きさの茶封筒の裏には、筆書きの母の名前がある。
 階段を上がり、自室に入る。封を切る。封筒の中にもう一通、別の封筒が入っている。万年筆で書いたいつものダークブルーの文字から、照枝の寄越した白い封筒だと分かる。前回実家で受け取った手紙のあとに届き、そのとき以来帰っていなかったため、母が回送してくれたのだ。
「薫さん、お元気にしていますか。
 去年の晩秋のころ、お手紙を差し上げましたが、お返事はいただけませんでしたね。あたし今、寮で部屋の机に向かってお手紙を書いています。
 窓の外には、霧雨が冷たく降り続いています。ねずみ色の空のもと、紅梅、白梅が咲き始めています。今日はお勤めが休みの日でこんなお天気だから、 あたし一日中、寮にいました。
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十七枚目
 こうしていますと、日も暮れ、あたりも薄暗くなってきます。こんな景色を一人で見ているのが好きです。木々の陰には、福寿草が雨に濡れて黄色い花を膨らませているのが見えます。自然って、どうしてこんなにもきれいなのでしょう、あたし今、こみ上げてくる涙を懸命にこらえています……。
 あの後も毎日、薫さんからのお手紙のことだけを思いながらお勤めなどしてきました。でも今日も着いてないって思う毎日が辛いのです。寮に帰るのが恐いのです。そこで今日は思いきってあたしの気持ちを書いてみたいと思います。
 なぜ薫さんは突然連絡をくれなくなったのですか。それまで中学生のときから仲良くお付き合いさせていただいていたのに、あたしには薫さんという人が分からなくなってしまいました。前のお手紙でも書きましたように、あたしに悪いところがあるのであればどんなことでも謝ります。改めます。そう言ってみても、薫さんは何も言ってはくれないのです。
 照枝、どうしたらよいのでしょう。あたしに出来ることって何があるのでしょう。あたしよくよく考えました。でも何も分からないのです。薫さんがそこにいないと何か考えようとしても、何を考えたらよいのか分からないのです。
 照枝、このお手紙がもしかすると最後になるのかもしれないと思うと、とてもやりきれません。恐いです。これまで良いお付き合いをしていただいて、あたしとても幸せでした。これからの長い人生において、あたしにとって薫さんと過ごした仕合せな日々は二度と訪れないと思います。あたしには分かるのです。
 でもこれだけは覚えておいて欲しいのです。照枝、ずっと本気だったのです。いい加減に見えたり、冷たく感じたりするときもあったかもしれません。でも胸のうちではすべて真剣だったのです。
 薫さんはほかの男の人とは違っています。薫さんの目はきれいです。薫さんの前に出ると、ほかの男の人に言えることも、言えなくなっちゃうのです。 あたし、ただいつもいっしょに居られれば、それでよかったのです。もう二度とお会いすることができなくなったとしても、薫さんのことは一生忘れません。いええ、忘れるなんてできないと思います。
 どうぞ、お身体を大切にお過ごしください。もっと明るく挨拶したかったのに、こんなことあたしの口から言うなんて、とても耐えられません……。 さよなら。照枝」
 薫は、あぐらをかいて読んでいた座布団の端から、便せんが畳の上に滑り落ちるのも気に留めず、目を閉じ、右の手のひらを思いきり握りしめ、身体を震わせていた。(了)