時の向こうに(前)



「おぃ〜っす、帰ったぞ〜〜」

「あっ、お帰り、クルツ!」

「おう、いやはや、まったくテロ屋さん達にも困ったもんだ。よくもまあ、こうも飽きもしないでゲリラ活動ってか。うちのバイナリーは、本当にテック泣かせだやな。まあ、一番泣いたのは軍警か。まったく、あれじゃ連中も形無しだ、ハハハ」

「大変じゃったのぅ、お疲れ様じゃけん」

「おう、ありがとな・・・・・・ん?どうした、その本」

「うん、タマ姉ちゃんに借りたんじゃ」

「ああ、そうか。そういや、今日遊びに行ってきたんだっけな。って、こいつはジャパニーズで書かれてんじゃないか。お前、読めんのか?」

 リオが、タマヨから借りてきたと言う本は、装丁も中身も、ドラコの公用語のひとつになっているジャパニーズ、俗に言う『ニホンゴ』で書かれている。

「当ったり前じゃけん、ハナヱ姉ちゃんとこで勉強して、ちゃんと読めるようになっとるし、少しくらいなら話もできるけんね!」

 ほほ、こいつはまた、頼もしい限りですな。ハナヱさんに家庭教師をお願いしたこと、我ながら大正解!ってやつですか。

「ふ〜む・・・・・・旧SLDFの戦史か・・・・・・まあ、居室の中で読んでる分にはかまわんけど、絶対にクラスターの連中に見つかるなよ。さもないと、ちとばかしややこしいことになるからな」

「え・・・・・・なんで?」

 俺の言葉に、リオはきょとんとした表情を浮かべている。

「お前、ブライアンキャッシュ、って知ってるか?」

「う・・・うん、エクソダスの時に、禁じられた記録を封印したとこじゃろ?」

「そうだ。で、だ。その手の記録ってのは、だいたい、ブライアンキャッシュ行きになってる類のモンだ。お前にそのつもりがなくても、『汝、禁忌の社を開くなかれ』の掟を破ったと騒ぎ出す奴がいないとも限らん。

 コソコソすんのは性に合わんだろうが、氏族の世界においちゃ、そいつは信管剥き出しの不発弾みたいなもんだ。下手打ちゃ、最悪タマヨにも迷惑がかかるかもわからん。まあ、頭の隅っこでもいいから、一応覚えていてくれな」

「うん、わかったけん」

 素直にうなずくリオに、なんとなくすまない気持ちになりながら、最近、ようやく物置から本来の仕様用途へと昇格を果たした二段ベッドの下段に、綿のようになった体を寝っ転がせた。




 あれからしばらく、うちのクラスターから出動したゲリラ鎮圧部隊の、半ばやりすぎとも言える強攻策が効を奏したのか、あれほどしつこかったゲリラ達の活動が止んでいる。氏族社会からはみ出した無法階級連中なのか、それとも、政治思想を持ったドラコの過激派連中なのかは、まだ捜査段階だそうだが、何はともあれ、静かなのはいいことだ。

 だが、その一方で、なんとなく気に入らない苛立ちが消えないのも、また事実だ。連中、人がこうしている間にも、どんな報復手段を考えているかわかったものじゃない。

『ま、備えるに越したこたぁねぇだで』

「そうだな」

 この間、ドラコから供与のあった新品のバトルアーマーが、ジャックの声で話しかけてくる。いや、そもそも、中の人はジャックなんだから、あいつの声がするのは当然だ。

「ずいぶん板についてるじゃないか」

『おー、エレメンタルBAに比べりゃぁ、ちと物足りねぇけどもが、生身でうろつくよりゃあ心強ぇーだで』

「ハハハ、まったく、ハナヱさんのお母さん様々だな」

『だでよ』

 以前、ゴーストベアーのノーム・バトルアーマーが、クラスター駐屯地にカミカゼ・アタックを仕掛けてきた事例に鑑みて、基地警備隊の人員の中から、常時バトルアーマーを着装する要員を配置することになったわけだが、どうも、ジャックは、このドラコ製のバトルアーマーをいたく気に入ったようで、自ら進んで着装要員を買って出ている。

 まあ、実際ジャックのポジションは、ポイントコマンダーに相当するものらしいから、指揮官が前に立って手本を示す、といった思想が強い氏族においては、まあ、妥当な立ち位置なんだろう。

『とりあえず、今ン所、通行パスや貨物チェックに引っかかる奴ァいねぇけどもが・・・・・・そんにしても、まあ、あんな騒ぎがあった後だと、いつもの定期便も怪しく見えて仕方ねぇだでよ』

「ハハハ、確かにな」

『そんにしても、リオ坊の奴。さっきから、トレーラーの周りをうろちょろしてからに。そんな珍しいモンでもあるまいし、何かあるんか?』

「まあ、あいつは基本的に、デカい機械は間近で見ないと気が済まない性格だからな。ただ、あれじゃ作業の邪魔になるな。ちと行って、連れ戻してくるか」

 その時、ハンガーからシゲが俺を呼ぶ声が聞こえた。

『あぁ、俺が行ってくるだで。クルツ、おみゃーはハンガーの方を見てやるでよ』

「わかった、済まないな」

 ジャックの言葉に甘えて、この場を任せてハンガーに戻り、シゲから提案された、調整処理の見積もり図面を広げたその時だった。

 突然、空気の塊が背中を直撃するような衝撃が、俺の体を軽々と持ち上げた瞬間、向かいにいたシゲ諸共、突き飛ばされるように転倒した。それと同時に、鼓膜を微塵切りにするような轟音と共に、半端ではない熱気が俺の背中を駆け抜けて行く。

 それでも、咄嗟に振り向いた先にあったのは、爆発炎上したトレーラーが炎に包まれていると言う、かなり悪質な冗談じみた光景だった。




「・・・・・・おい、おい、しっかりしろ。生きてるか?」

 全身、煤塗れになってのびているリオを前にして、青年は何度か声をかけてみる。10トントラックの運転中、危うく轢き潰しそうになったその直前、ほとんど地面と同化している有様で倒れていた、泥まみれの子供に間一髪気付いた時には、神の導きか、それともいたずらかと思った。

 これは、もう駄目かもわからんね。

 言い方はかなり悪いが、最初は死体かと思った。だが、それならそれで、埋葬してやるなり、遺族に渡す遺品なりを引き取るなりしなければならないだろうと思い、トラックから降りて近づいたのだが、戦場暮らしの経験が、彼に微かな違和感を感じさせていた。

 まだ生きている?

 ピクリとも動かないその体を抱き起こすと、日に焼けていると言うには、少し黒過ぎるその小さな顔を軽くはたいてみたとき、微かではあるが反応が返り、青年の表情に安堵の色が浮かぶ。

「ん・・・・・・・・・」

「おい、大丈夫かい?どこか痛むかい?」

「う・・・・・・・・・・・・」

 呼びかける声に意識を揺り起こされ、うっすらと目を開け始めたリオは、しばらくの間、何があったのか自分自身でも理解できていない表情で、その視線を宙にさまよわせていた。そして、目覚め始めた意識と並ぶように、体中の痛みも声を上げ始めてきた。

「・・・・・・う・・・イタタ・・・・・・・・・」

 痛みを感じるということは、身体が正常に機能しているということである。頭部や重要箇所に外傷も無く、嘔吐した痕跡も無い。ひとまずは、命に別状は無さそうである。

「う・・・・・・ケホッ、ケホッ・・・・・・!」

 泥か埃を吸い込んだのか、咳き込み始める小さな背中をさすってやりながら、青年は、腰に下げてあった水筒の栓をひねり、その口元に持っていってやる。

「よかった、気が付いたかい・・・・・・水だよ、飲めるかい?」

「う・・・うん・・・・・・おおきに・・・・・・・・・」

 意識がはっきりしてくるにつれて、喉の渇きを思い出したリオは、促されるままに水筒に口を近づけると、喉を鳴らしながら水を飲み込んでいく。

「いったい、こんなところでどうしたんだい、親とはぐれたのかい?」

「え・・・・・・?」

 青年の言葉に、不思議そうな顔で彼を見上げるリオは、さらにまじまじと青年の顔を覗き込んだ。その表情は、明らかに事態が飲み込めていなかった。

「ど、どうした?」

 その時、突然、跳ね上がるように体を起こしたリオは、辺りを見回すその目に、じわじわと焦りと混乱の色を濃く浮かびあがらせ始めた。

「そ・・・そんな・・・・・・!こ、ここは・・・ここはいったいどこなんじゃ・・・・・・!?」

「ここって・・・・・・?ここは、ニューサマルカンドじゃないか。本当に大丈夫かい、まだどこか気分が悪いのかい?」

「え・・・え・・・・・・え・・・・・・・・・!?」

 目が覚めたら、そこはまったく見知らぬ場所。そこには、見慣れたハンガーも、しょっちゅう駆けずり回ったフェロクリートのエプロンも、何もかも存在しない、ただ見渡す限りの荒野が続いている。

「なんで・・・・・・なんで!?クルツは!?ジャック兄ちゃんは!?クラスターのみんなは!?」

「おい、しっかりしろ!とにかく落ち着くんだ!!」

「どうして!?なんでうち、ここにおるんじゃ!?なんで!?なんで!?」

 理解不可能な事態を前に、リオの中にある自制心の糸がぷっつり音を立てて切れた。そうなると、子供に出来ることと言えば、ただ無意味に動き回り、喚き散らすことだけだった。

 一方、青年の方といえば、ある意味予想通りの反応に、なだめに入るタイミングを見計らうかのように、その様子をうかがっていた。うかがいつつも、彼は、小さく、しかし深いため息をつく。

 見たところ、移民団の子供のようだが、多分、領主の追撃隊か野盗あたりにやられて、家族や仲間とはぐれたのかもしれない。使いの途中で、どうにも厄介なことになってしまったが、どう考えても、ここでこの子を放り出すわけにもいかない。

 となれば、考える必要もないわけだ。

 そう青年が考えをまとめ終わった時、まるで、背中を後押しするかのように、目の前で、呆然と立ち尽くしていたリオの若草色の目が見る見るふやけだし、滝のような涙がボロボロと零れ落ちてきた。

「う・・・うぅ・・・・・・うわああぁぁぁあああぁああぁあああぁんっっっ!!」

 ああ、やっぱりこうなるのか。

 ある意味、年相応の子供らしい反応とその結果に、青年は、帰ったら大隊長になんと言って説明しようか、そう、頭の中で文言を組み立て始めていた。

 それに、無理に泣きやましても、往々にして逆効果な場合が多い。であるからして、彼は、下手な慰めはしばらく控え、思い切り大声で泣かせてやることにした。そして、少しは気も晴れたのか、それとも疲れたのか、そのやせっぽちな体を、ますます小さくするように立ちすくみながら、その肩を震えさせている。

「ともかく、一緒に行こう。何か力になれるかもしれないし、ここに居ても危ないから」

 いささか手際はよくなかったが、青年は、まだしゃくりあげているリオをなだめながら、乗ってきたトラックのナビ席に乗せる。

 とりあえず、連れて帰る方向でトラックを発車したところで、青年は改めてナビ席を見ると、すっかり気落ちした様子で、シートにその小さな背中を埋めている。

「僕は、ハンス。ハンス・ブラウンだ。君の名前は?」

「う・・・・・・」

 そういえば、まだ名前を聞いていなかった。

 青年は、この奇妙な迷子の名前を、まだ聞いていないことに気がついた。なりゆきでここまで連れてきてしまったとは言え、名前くらい聞いても罰は当たるまい。

「まあいいや、食べなよ」

 ダッシュボードから、サービスサイズのチョコバーの袋を取り出すと、まるごとリオに手渡す。こういう時は、自分の物持ちのよさがありがたいとつくづく思う。

「お・・・おおきに・・・・・・」

 べそをかきながらも、半分以上中身の詰まった袋を手にした時、ほんの一瞬輝いた表情に安心しながら、青年は、故郷の弟妹を思い出し、無意識に口元が緩んだ。

「チョコバー、好きかい?」

「う・・・・・・うん」

「そりゃよかった、全部あげるよ」

「うん・・・・・・」

 だいぶ落ち着いたとは言え、どうにも元気がないのは相変わらずだった。まあ、わからなくもない。さっきまでの、あの取り乱しようをみたら、わけありなのは誰でもわかるというものだ。と言うわけで、あまり無理はしないでおこう。と、そんなことを考えながら、青年はハンドルを握る。

「あ・・・あのっ・・・・・・」

「ん?」

「う・・・うち、リオって言うけん。よ・・・よろしゅう」

「リオ・・・か、それじゃ改めて、僕はハンス・ブラウン。ハンスでいいよ」

「ハンス・・・・・・?」

「ああ、ありたきりな名前だけどね。それと、疲れてるみたいだから、ゆっくり休むといいよ」

「う、うん・・・・・・おおきに・・・・・・」

 ハンスの言葉に、リオは力なく応える。実際、身も心も疲れきっていた。そして、認識と理解の範疇を超えた事態を突きつけられ、ハンスの気遣いには感謝しているけれども、今は、何をしようにも気力がわいてこない。

 しかし、ほのかに香ってくる、チョコレートの芳ばしい香料の誘いに抗いきれず、リオは、袋から一本を取り出し、もたもたと包装紙をはがすと、本能的にぼそぼそとかじりだす。

 これは、だいぶ重症だな。

 チョコバーの袋を抱えたまま、げっそりとした表情でシートにもたれているリオを、時折横目で見ながら、ハンスは、これからどうするか、考えを組み立て続ける。

 まあ、あの人のことだ。子供ひとり連れて帰ってきたところで、細かいことを言うはずはないだろう。どちらにしても、見捨てておくわけにはいかない。それにしても、変わった話し方をする子だ。いったいどこの訛りなんだろうか。

「どうだい?」

「うん・・・・・・おいしいけん」

「そうか、そりゃなによりだ。それより、リオ。君の方だよ、どこか具合悪くはないかい?」

「う・・・うん、だいじょうぶじゃけん」

「そう、それじゃ、とりあえず一緒に野戦本部まで行こう。悪いようにはしないから、安心していいよ」

「うん・・・・・・わかった」

 チョコバーをかじりながら、やや落ち着きを取り戻したリオは、ハンスの言葉に素直にうなずき、彼を安心させる。ただびぃびぃ泣くだけの子供じゃなく、ある程度肝も据わっているようだ。ともあれ、そうと決まれば、早いとこ帰るに限る。ここだって、絶対に安全というわけではない。

 ハンスは、これ以上考えていても埒が明かないと結論付けると、とにかく部隊に戻ってから、その先のことは考えることにした。

「それじゃ、行くか。着くまで寝ててもいいよ、リオ」

「だいじょうぶじゃけん」

「そうかい?それじゃ、楽にしていていいからね」

 まあ、なるようになるだろう。幾分軽くなった気分と共に、帰路の途中、思わぬ拾い物をしてしまったトラックを走らせた。




「よう、ハンス、ずいぶん遅かったじゃないか」

 野戦本部に戻ると、歩哨に立っていたリビー二等兵が、いつものからかうような笑顔を向けて、ハンスを出迎えた。

「ああ、ちとばかし拾い物があってね。それと、バイオリンの弦だったよな、これでいいかい?」

「お、これこれ、サンキューな」

「そういやエース、ジョニーは一緒じゃないのか?」

「ジョニーはトイレ、で?拾いモンって・・・・・・その、小僧のことか?」

「ああ、野盗か何かにやられて仲間とはぐれたらしい。あのままほっとくわけにもいかないからな、連れてきたんだよ」

「ハハ、まったくお前らしいよ。ま、大隊長のことだし、駄目とは言わねぇだろうけどな」

「だといいけどな」

「それと、お前の帰りがあんまり遅ぇから、みんな気を揉んでたでぞ。特に、大隊長が」

「そうか、なら、早いとこ首実検をしてもらうか」

「まったく、お前にかかると、どっちがついで仕事かわからなくなるな」

「そうでもないさ、結構、一杯一杯だよ」

 リビー二等兵と別れ、野戦本部に向かう途中、リオの様子を見てみると、思ったとおり、窓から身を乗り出しながら、後ろを振り向いている。

「どうしたんだい、危ないよ」

「う・・・うん・・・・・・」

「まあ、気持ちはわかるけどね。アイツ、サメみたいな顔してるだろ?ハハハ」

「ち、違うけん、そんなんじゃないけん!」

「わかってる、冗談だよ」

 ハンスの声に、リオはごそごそと体を引っ込めると、再び行儀よくシートに座り直した。その様子に、ハンスは思わず苦笑を浮かべる。

 まあ、落ち着かないってのもわかる。大隊長を見て、驚かなけりゃいいんだけどな。

 ハンスは、軍人としては、ある意味、これ以上なく凄みのあるその姿を思い出し、少し不安になるものの、当の本人は、無意味に子供を怖がらせるような人物ではないので、おそらく大丈夫だろう、と楽観的に考えることにした。

「な、なあ、ハンス。これから、どこ行くんじゃ・・・?」

「ん?ああ、まずは、大隊長に報告をしに行かないとね。予定の時間より、少し遅れたし、急がないとね」

「も・・・もしかして、うちのせい・・・かのぅ・・・・・・?」

「リオが気にすることじゃないよ、それに、こうしてしっかり首級もあげてきたからね。大丈夫だよ、なにも問題ないから」

「みしるし・・・?ハンス、もしかして、誰かやっつけてきたんか?」

「そうじゃないよ、補給物資の臨時支給を掛け合ってきただけさ」

「そ・・・そっか」

 方向性が間違っている気もするが、随分物知りな子だ。と、ハンスは内心苦笑する。それに、よく見れば賢そうな顔をしているし、なにより、しつけもしっかりしている。親の育て方が良く、そして愛されていたのだろう。ハンスは、今はもう亡い両親を思い出して、少し胸が痛くなった。




「ハンス、それ、なんじゃ?」

「これかい?痛み止めとコーヒー豆。大隊長の必需品だよ」

「痛み止め・・・・・・怪我しとるんか?」

「怪我ね・・・まあ、そんなとこかな。なにせ、入院を半分で切り上げてきた人だからね」

「ふぅん・・・・・・」

 報告のため大隊長室へと向かうハンスは、リオのことも併せて説明するため、本人を連れていくことにした。説明を重ねるより、当人を見てもらった方が話が通りやすいと考えたのだが、煤だらけのリオを見て、せめて顔ぐらい洗ってからにした方がよかったかとも思った。しかし、今の姿のままが説得力があるだろうと考えて、このままにしてきてしまった。

「ハンス・ブラウン伍長です、大隊長、よろしいでしょうか」

『おお、戻ったか。うむ、入るといい』

 ドアの向こうから聞こえてきた、穏やかだが凛とした声に、リオの目に一瞬緊張が走る。

「ほう、珍しい客人だな」

 大隊長室に入ってきた二人を見た部屋の主は、デスク越しにリオの姿を見ると、物珍しそうな笑顔を浮かべながら立ち上がった。だが、その穏やかな表情の上で、右目を黒革の眼帯が覆い、その白く端正な顔をくまどるように、引き攣れた火傷の痕が刻まれている。そして、右足は膝から下が消えうせ、アスリートタイプの義足が支えていた。

「あ・・・・・・」

 一方、リオの方はといえば、大隊長を見て、ハンスが予想したとおりの反応を表している。しかし、どうもその驚き方は、別のベクトルのようだった。恐れと言うよりも、尊敬に近い表情を浮かべているリオに、ハンスは微かな驚きを感じる。

 一方、子供ながらにして、氏族的な強靭な思考を身につけつつあるリオにしてみれば、その姿は、歴戦の戦士そのものに他ならなかった。そして、この部屋の主も、この小さな訪問者に興味を持ったらしく、その端正な目を細めている。

「ところで、その子はいったい誰かね。まあ、君に連れ子が居ても、私は一向に構わんよ?」

「こんな大きな子がいる年にみえますか・・・・・・?」

「冗談だ、だが、その様子だと、ただ事ではなかったようだな」

「はい、大隊本部に帰る途中、迷子になっていたところを保護しました」

「そうか、あの周辺区域は、まだ危険であることに違いはない。確かに適切な判断だ、よかろう、この子は部隊で保護しよう」

「ありがとうございます、大隊長」

 大丈夫だとは踏んでいたが、すんなり事が運んだことに、ハンスは肩の荷が軽くなるのを感じる。その一方で、リオはまだ、緊張した表情を浮かべていた。

「さて、自己紹介がまだだったな、私はゲルダ・フォン・ローゼンブルグだ。さっそくだが、君の名前を教えてくれるかね」

「は、はい!うち・・・いえ、わたしは、リオといいます!」

「リオか、いい名だ。そうだな、セカンドネームも聞かせてくれると、身元確認がし易いのだが、よろしいかな」

 ゲルダのある意味もっともな問いに、リオは言葉を詰まらせてしまう。氏族人である自分に、中心領域人のようなセカンドネームはない。一応、シャワー系列のシブコではあるが、神判を通過してもいない以前に、それを名乗るのはあまりにも不遜に過ぎる。

 とは言うものの、この状況において、彼女の問いに答えなくてはならないような気がしたので、リオは、その時自然に頭に浮かんだその名を答えていた。

「く・・・クルツです、リオ・クルツ」

「そうか、では、すぐに捜索の手配をしよう。後のことは、全て我々に任せておきたまえ、何も心配は要らない」

「おおき・・・・・・いえ、ありがとうございます、フォン・ローゼンブルグ様」

「ゲルダでいいよ、没落貴族にフォンもなかろう。気にせず、そう呼んでくれたまえよ」

「わ・・・わかりました」

 どうにも緊張の色が抜けないリオに、ゲルダはふと微笑を漏らすと、その前に膝を着き、ひとつだけ残った目を慈しむように緩める。

「そう硬くならなくてもいい、リオ君。なりは醜いかもしれんが、私ほど優しい女はそうそうおらんぞ?」

 ゲルダは、冗談めかした口調を交えながら、眼帯に覆われた右目を指差す。

「戦闘で下手を打ってしまってな、御覧のとおり、目玉と片足を落っことしてきてしまった。だが、このとおり、まだまだ五体満足な者には負けてはおらん。驚かせてしまったかもしれんが、まあ、大目にみてくれるとありがたいな」

「は、はい!」

「うむ、それでは、よろしく頼むぞ、リオ」

 ようやく表情が和らぎ始めたリオに、ゲルダは安心するように立ち上がると、義足につないだ膝の調子を気にするように席に戻る。

「ハンス、さっそくですまないが、痛み止めをもらえるかね。今日は、どうにも縫い目がうずいて仕方ない」

「了解です、こちらになります」

「首尾よくいったようだな、助かるよ。まったく、私もいっそ機械の身なら、君に完璧な修理をしてもらえたのにな。ハハハ」

「軍医の言う事を無視して、予定の半分もしないうちに、入院を切り上げてしまったからじゃないですか」

「冗談ではない、年寄りでもあるまいし、あんなところでいつまでも寝ていられるか。そもそも、私がこうなったのは、あの臆病者のおかげなのだからな。礼はきっちり返さねばならん」

 痛烈なゲルダの言葉に、ハンスは苦笑を浮かべ、リオは、緊張の色を広げて姿勢を正す。そんなふたりをよそに、ゲルダは鎮痛剤を口に含むと、水もなしにそれを飲み下す。

「それに、考えても見たまえ。あれ以上、奴にこの部隊を任せていたら、間違いなく移民団は大虐殺の憂き目に遭ってしまう。そうなれば、我々の名誉はどん底だ」

 言いたいことを吐き出し、気も晴れたように、ゲルダは、卓上に置いたもうひとつの袋を手に取ると、丁寧にその封を切る。

「・・・・・・うむ、キリマンジャロの香りはいいものだ」

 粒ぞろいの豆から漂う香りに、満足そうに目を細めているゲルダを前に、ハンスは苦笑交じりのため息をつく。

「はい、補給本部と掛け合いまして、注文どおりの物資を調達できました」

「いつもながら苦労をかけるな、本当に、君がいてくれるから助かっている」

「いえ、大隊長のお役に立てれば幸いです」

「うむ、すまんな・・・・・・それと、ハンス、この子は、君が面倒をみてやるといい。どうやら、君になついているようだからな」

「了解しました、大隊長」

「うむ、任せたぞ、ハンス。それと、リオ君。迷子だということだが、あてが見つかるまでここに居てよろしい。とは言え、ここも絶対に弾が飛んでこないとは言えんが、安全については十分配慮するので、安心してよろしい」

「はい!おおき・・・・・・ありがとうございます!」

「うむ、良い返事だ。それと、訛りは気にしなくてよろしい。子供は子供らしく、元気であるのが一番だ」

 大丈夫だとは思っていたけど、これは予想以上だ。

 ハンスは、ようやく肩の荷が下りたように、その表情を和らげた。だが、どちらにせよ、大隊長がリオを気に入ってくれたようでなによりだった。

「ああ、それと」

 思い出したように、ゲルダはハンスに向き合うと、若干、諌めるような表情を作る。

「私に、この子の状況をこと細かく伝えようとした努力は買うが、曲がりなりにも女の子だ。いくらなんでも、こんな汚れた姿ではあんまりというものだろう。違うかね?」

「え・・・・・・・・・!?」

「なんだ、気づいていなかったのか。やれやれ、君もまだ修行が足りぬと見える」

 狼狽するハンスの様子に微笑を浮かべながら、ゲルダは、リオの肩に静かに手を置く。

「リオに、入浴と着替え、そして食事の手配を。それが、最初の仕事だ」

「は、はい、了解しました!」

「うむ、兵は神速を尊しとす。それは、何事においても言える言葉だ。では、頼んだぞ」

 そう、ハンスに伝えながら、ゲルダは再び執務卓につくと、ふたりに穏やかな瞳を向けていた。




 あれから数日、そろそろ新しい環境にも慣れてきたのか、精神的に落ち着いてきた様子のリオに、ハンスは作業の合間を見て、野戦大隊本部設営地を案内ついでに、散歩に誘ってみることにした。

 折を見ては話し相手になりながら、いろいろ可能な範囲でリオの話を聞く限りでは、どうやら軍人か軍属の家庭で育ったようであり、メックや大型重機に対して並々ならぬ興味があることがわかった。

 幸い、ここには、大型戦闘車両やバトルメックには事欠かない。少しでも気晴らしになってくれればと考えたハンスだったが、思っていた以上の食いつきに、ハンスは安堵の表情を浮かべながら、駐機してあるメックや戦車の間をちょこまかと走り回る小さな背中を見守る。

「うわっ、ライフルマンの3N型じゃ!それにカメレオンもおる!こんなぶち古いメック、よう動いとるのぅ・・・・・・」

「そうかい、普通だと思うけどね・・・・・・?」

 対空警戒に睨みを利かせるかのように配置されている、ライフルマンの隊列を見て驚きの声を上げるリオに、ハンスは怪訝な表情を浮かべつつ、対空戦闘の雄であるその機体を見上げた。

「まあ、どっちも原型機は200年くらい前のロールアウトだからね、古いといえば古いかもしれないけど、今でも十分一線級の戦力さ。それに、3N型はライフルマンシリーズの最新型だよ」

「え・・・・・・そ、そうなんか?」

「そうだよ?」

 なんだか、会話が微妙にずれているような気がするな。

 ハンスは、リオの言葉に微妙な違和感を覚えるが、確かに、子供の感覚では、2世紀も前と言えば十分昔なのだろうし、原型機もそのバリアントも同じようなものなのかもしれない。と、とりあえず納得することにした。

 一方、リオにしても、資料でしかその名前と姿を知らない、イレースではまずお目にかかったこともないメックが、当然のように存在している光景に驚くと共に、やはり、ここが、自分のいた世界とは違うものである認識が、一時なりを潜めていた不安を蘇らせ、じわじわと体の中を侵食していく。

「リオ、まだ顔色が良くないようだけど、まだどこか具合が悪いなら、宿舎で休んでおくかい?」

「う・・・ううん、だいじょうぶじゃけん。こんなにいっぱいメックがおるから、びっくりしただけじゃけん」

 身心を押し潰しそうな不安は、まだ確かに存在していた。けれども、目の前に居並ぶ鋼鉄の巨人や巨獣達を前に、持ち前の好奇心が、この部隊のメック達を間近で見たいという気持ちを強め、不安を紛らわせるに足る魅力として勝っていた。そして、常に親身になってくれるハンスの存在が、無意識にリオの支えとなり、その不安を十分に和らげていた。

「そうかい・・・・・・?でも、何かあったら、すぐ言うんだよ?」

「おおきに、ハンス。それにしても、ホンマにこの基地、メックがぶちたくさんおるんじゃのぅ・・・・・・」

「そうだね、ライフルマンとかは、元から大隊にいたメックだけど、あのカメレオン達は、大隊長が、教導隊から強引に引っ張ってきたものさ。

 アマリス戦役中、各地のメック教導隊は、あちこちで後方支援部隊として実戦部隊に臨時編入されていたんだ。大隊長はそこに目をつけてね、書類上は、まだ部隊に編成されていたままになっていた教導隊のカメレオンを、そのまま徴用したんだよ」

「へえ・・・・・・」

「それに、戦車と比べれば、十分戦力の底上げになるしね。これで、部隊の負担もかなり減ったんだよ」

「そうなんか・・・・・・」

 ハンスの言葉に、リオはもう一度、カメレオン達の姿を見上げる。

「それに、うちはここから5キロ先にある宇宙港の最終防衛ラインでね、前衛部隊も頑張ってくれてるけど、ここを突破されたら、もうおしまいだからね」

「ふぅん・・・・・・」

「でも、ここまで完璧な布陣になったのは、今の大隊長が後方から帰ってきてからさ。その前なんか、本当に酷かったよ。せっかくのアトラスも分散配置、補給も適当で、メック戦士はいるのにメックが足りない。今まで持ち堪えられたのが奇跡、というか、大隊長・・・あの頃はまだ中隊長だったんだけど、彼女の采配で、なんとか凌いでいたようなもんさ」

「ふぅん・・・・・・それじゃ、前の大隊長さんは、どうなったんじゃ?」

「え?」

 素朴な疑問に、ハンスはどう答えたものか言葉に詰まる。まさか、任務放棄と敵前逃亡の容疑による軍法会議をブチ上げられた挙句、銃殺されてしまいました。などと、子供相手に正直に言えるわけがない。

「うん・・・まあ、なんと言うか、よそに行ったというか・・・・・・」

「ふぅん・・・・・・あ、そうじゃ、そう言えば、アトラス言ぅたら、中心領域で一番強いメックなんじゃろ?うち、見てみたいけん」

「そうだね、それじゃ、ハンガーにいってみようか」

 うまく話題が変わったことに安堵しつつ、ハンスは、リオを連れてハンガーへと向かう。そこで、リオは、名前はよく知っているものの、顔合わせは始めてである強襲級メック、アトラスと御対面することになった。

 その全身に、もはや装甲と言うよりも、アラインドクリスタル鋼の塊を積み上げたかのような、野戦ハンガーの天井をも突き破らんばかりの巨大な体躯。そして、その狂気じみた闘争心を微塵も隠そうとしない、極めて凶暴な容貌を意匠した頭部ユニット。

 全身に刻まれた傷跡すら、屠った敵の数を証明する印にしか見えない。その武装と装甲の塊のような強大な姿は、まさしく、自らに銃口を向ける敵に、等しく死を与えんとする破壊神そのものだった。

「うわ・・・・・・このメック、ぶちおっかない顔しとるけん」

「ハハハ、まあ、それがアトラスの売りだからね」

 アトラスの放つ闘気に圧倒されたかのような表情で、やっとのことで言葉を漏らすリオに、ハンスは、大人気ないと自覚しつつも、なぜか誇らしい気分になる。

「ハ、ハンス、アトラス、触ってもええ?」

「ああ、いいよ」

「お、おおきに・・・・・・」

 リオは、恐る恐るアトラスに近づくと、その爪先を、小さな手で感慨深そうに撫でながら、山のようにそびえ立つ巨体を、まぶしそうな表情で見上げた。

「あんなきれいな人が、こんな、ぶちごっついメックに乗っとるなんて、ホンマに不思議じゃのう・・・・・・」

「そうか、いや、ありがとう」

「わっ!?」

「フフフ、驚かせてすまなかった。だが、綺麗と言われることは、幾つになっても嬉しいものだよ」

 いつの間にか現れたゲルダは、その顔に惜しみない笑顔を浮かべつつ、自分の愛機を見上げていたリオの肩に手を置く。

「だが、リオ君。君も大人になれば、ひとかどの美人になる。その肌、その瞳、さぞかしエキゾチックであろうな、私が請合うよ」

「は、はい、おおきに、ゲルダ様!」

「うむ、だが、素質に甘んじることなく、精進したまえよ。人間、なにごともそれが肝要なのだからな」

「はい!」

「うむ、いつもながら良い返事だ」

「ところで、大隊長。どうかなされたのですか?」

「どうかなされたとも、今晩の食事の準備が整っている。ここの所、リオの面倒をまかせっきりだったからな、たまには、三人で食事を囲むのも悪くはあるまい?」

「了解しました、しかし、よろしいのですか・・・・・・?」

「よろしいのかとはどういうことかね?私とて、この子の面倒を見たいのは同じだよ、ハンス。言っておくが、君だけに独り占めはさせんよ?ハハハ」

「了解しました、ありがとうございます、大隊長」

「フフフ、まあ、そういうことだ。リオ、ハンスとだけではなく、たまには私とも話し相手になってくれたまえ。先に給養テントで待っている、楽しみにしているからな」

「はい!おおきに!ゲルダ様!!」

「うむ、では、待っているからな、リオ」




 部隊の食事時、夕暮れに包まれ始めた野戦本部設営地に、穏やかなバイオリンの調べが流れていく。戦場には不釣合いなその音色は、茜色に染まった空気に漂い、聞く者の心を癒さんとするかのような旋律を奏で続ける。

「バイオリン、上手じゃのう。誰が弾いとるんかのう・・・・・・」

「ああ、リビー二等兵だな。彼ほどの技量なら、然るべきフィルハーモニーで活躍もできただろうに、何の因果で軍人稼業を選んだのやら」

「リビー二等兵って、もしかして、エース兄ちゃんのことかのぅ?」

「ほう、彼を知っているのかね?」

「はい、ハンスが友達じゃ言ぅてました。あ、じゃから、バイオリンの弦を買うて来てあげとったんじゃ」

「うむ、リオは本当に賢いな。どれ、飲み物のお代わりはどうかね」

「おおきに、ゲルダ様」

 食後のワインとジュースで喉を潤しながら、ゲルダとリオは、テーブルを挟んで談笑しつつ、流れてくる穏やかな音色に耳を傾ける。そして、その横で、ハンスが真っ赤な顔でテーブルに伏せている。

「それはそうと、ハンスは大丈夫かね、リオ」

「ハンス、なんか、疲れて寝てしもうたけん」

「やれやれ・・・・・・今度こそ最後まで付き合ってもらおうと思ったのに・・・・・・酒に弱いのは相変わらずか。まあ、しかたあるまい」

「ハンス、お酒駄目なんか?」

「ああ、弱い。とにかく弱い、ワインのボトル一本すら持ちこたえられん。まあ、今日は特別疲れていたのかも知れんな。それに、リビー二等兵のバイオリンが、丁度良い子守唄になってしまったのかもしれん」

 苦笑しつつ、寝息を立てるハンスの傍らに腰を下ろしたゲルダは、ハンスを気遣うように付き添うリオを、穏やかな笑みとともに見守る。

「後はデザートだけだし、外でお茶会としゃれ込んでみるかね?バイオリンも、その方が良く聞こえるだろう」

「はい、ゲルダ様。・・・・・・でも、ハンスはどうしたらええんかのぅ?」

「たった数10メートルくらい移動する体力は残っているだろう・・・・・・ほら、ハンス、起きたまえ。二次会の場所へ移動するぞ、ほら!」

「ゲ・・・ゲルダ様・・・・・・!」

 遠慮会釈無くハンスの肩を揺り動かすゲルダに、思わずリオが冷汗を浮かべかけた時、寝ていたハンスがむっくり起き上がった。

「・・・・・・了解です、大隊長」

 すると、ハンスは、焦点の定まらないぼやけた表情ながらも、どこからか持ち出してきたクーラーボックスに、ワインボトルや缶ジュースを詰め込み、それを肩に担ぐ。

「ほら、大丈夫だろう?ハンスは、このくらいでへたばったりはせんよ」

「は、はい、ゲルダ様。ハンス、うちも手伝うけん!」

「・・・・・・そう?ありがとうね。じゃあ、食器を返してきてくれる?」

「うん!」

 得意気、というより、嬉しそうな表情を浮かべ、まるで少女のように微笑むゲルダにうなずき、リオは食器を片付け始める。そして、クーラーボックスと、デザートを詰めたタッパーを抱え、酔いが回りながらも、既に心得ているかのような足取りで歩き出したハンスの後について、ゲルダとリオは給養テントを後にする。

「・・・・・・私は、何もかもハンスに頼りきりだ。大隊長などとおだて上げられてはいるが、戦闘以外は、彼がいなければ何一つ満足に出来ん女だ」

 ゲルダは、淡い笑みを浮かべながら、この、どこまでも忠実で、そして献身的な、大隊長機付テックの背中に視線を向けながら、淡い笑みをにじませる。

「だが、そう言うのも悪くはない。この歳になると、余計そう思うよ」

 リオは、ゲルダの言葉に黙ってうなずきながら、義足を鳴らしつつ歩く彼女の支えになろうとするかのように、その右手を小さな手で握り締めた。




 荷物を目的の場所に運び終えると同時に、再び横になって寝入ってしまったハンスの横に腰を下ろしたゲルダとリオの前に、すでに夕闇に包まれた平原が広がる。

「やはりこの場所は落ち着くよ、それにリオ、君に話したかったこともあるのでね」

「え・・・・・・?」

「ハハハ、まあ、そう硬くならなくてもいい」

 クーラーボックスの中から、冷えた缶ジュースとワッフルをリオに手渡し、自分も、ボトルを開栓する。そして、グラスに注いだワインを、夜空に向けて乾杯するように掲げる。

「あの宇宙港を見たまえ、リオ」

 ゲルダの指し示す先には、闇夜の海に浮かぶ光の島のように、煌々と光溢れる宇宙港の広大なエプロンで、照り返しを受けて浮かび上がるドロップシップの群れが、整然と居並ぶ光景が広がっていた。

「わあ・・・・・・船がぶちたくさんおるけん、まるで街みたいじゃけん」

「そうだな、あれだけの船団、後にも先にも、これが最後かも知れんな」

 闇の中に浮かぶ、光の島のようなその光景を前に、素直に驚きの表情を浮かべるリオに、ゲルダは複雑な表情を浮かべながら、その小さな横顔を見守る

「彼らは、これから宇宙の最果てへと旅立とうとしている。故郷を捨てるのではない。見果てぬ夢を追い求めるのではない。この、乱れきった世界をいつか正すため、救うため、その方法を探しにいくのだという」

 ゲルダは、ほろ苦い笑みを浮かべながら、ワイングラスの中に揺れる、深紅の水面に視線を落とす。

「正直、愚かしいとは思う。しかし、その夢はいかなる手段を持ってしても守られなければならぬ。明日へつなぐ夢、そして、その実現を約束する確かな明日。それらを守るため、我々戦士が存在する。

 彼らがこの先どうなるか、そんなことは私にはわからん、関わりも無い。宇宙の彼方で朽ち果てるか、それとも、再びこの世界に戻ってくるのか。

 だが、そんなことは瑣末事だ。彼らにとって重要なのは、いま旅立つこと。そして、私にとって重要なのは、彼らの旅立つ明日を、確実なものにすることだ」

「明日・・・・・・」

 ゲルダの語った、明日という、あまりにも聞き慣れた言葉。その意味を確かめるように、無意識のままに、リオはそれを呟いていた。

「そう、明日だ。身近過ぎて誰も気にも留めない時間の流れだ。だが、身近であるゆえに、その有り難さと恩恵に誰も気がつかない、知ろうともしない。だが、考えてみるといい。家族と憩う明日、友達と語らう明日、明日は何をしよう、明日は何を食べよう、そんなたわいもない予定を、不都合なく叶えてくれるのが、明日という時間だ」

 ゲルダは、彼方に煌く光を見つめながら、傍らで眠る、酔い潰れたハンスを見やり、微笑を浮かべる。

「ハンスはな、以前、私にこう言ったよ。『戦いたくても力が無い、そんな人間のために、戦ってほしい』とな。なるほど、甘ちゃんもいいところな台詞だ。だが、それは真実の一面でもあると思っている。

 力ある者が、その欲望のままに振舞った結果が今の世界だ。リオ、君にもわかるだろう?この世界は、悪意と欲望が渦巻いている。彼らのように、ケレンスキー将軍のように、いつかこの世界を正すため、その方法を見つけるため、という意思の元旅立つのもよかろう。

 だが、私はあいにく彼らのように夢には浸れん。この一個しかない目は、昔も今も、相変わらず目の前の現実しか映してはくれん。だから私はこの世界に残る、そして命尽きる瞬間まで、持てる力を持たざる者のために使う。私は、決してその選択を後悔などしたりはしない」

「ゲルダ様・・・・・・」

「ハハハ、少し難しかったかな?だが、全ては明日で終わる。明日になれば、あのドロップシップ達は、衛星軌道上で待機するジャンプシップ達に積み込まれ、この世界を離れていく。そうなれば、我々はお役御免。もう、この地にかじりついていることもない。

 ・・・・・・それから、すまなかった、リオ。結局、君の縁者は見つけることが出来なかった。だが、もしも、移民団に加わりたいのなら手配をしよう」

「え・・・・・・・・・?」

 意外な言葉、しかし、ゲルダの瞳は真摯な光を宿し、まっすぐに自分を映している。

「う・・・うちは・・・・・・」

 もともと、誰一人知る者のいないこの世界。なぜ自分がここにいるのか、それすらもわからない。そんな自分が、もし移民団の船に乗ったからといって、それでどうなるというのだろう。

 リオの中で再び、迷いと不安、そして、イレースでの日々がめまぐるしく浮かび上がっては消える。この見知らぬ世界で、自分のいるべき場所、いていい場所は、いったいどこなのか。

 得体の知れない不安、理解すらできない状況。その全てが、何から何までもが、ぐるぐるとリオの脳裏で渦を巻き、押し潰すような重さとなってのしかかってくる。だが、その時、ゲルダの肩が、寄り添うようにリオに触れる。

「だが、君さえ良ければ、私とハンスが責任を持って世話をしよう。償いには程遠いかもしれんが、考えてみてはくれまいか?」

 夕凪のように穏やかな声に、思わず、リオは打たれるように顔を上げた。そして、そこには、今までに知る誰とも違う、深く慈しむ微笑みを向けるゲルダがあった。

「リオ、私はな、叶うのなら、君にいて欲しいと思っているよ」

 その、慈愛に満ちた彼女を前に、今まで、懸命にこらえていたものが溢れてくるのを感じる。

「お・・・おおきに・・・・・・ゲルダ様・・・・・・」

 やはり、自分は、この世界から戻れないのだろう。リオの中で、その事が確かな現実を伴った諦めとなって、じわじわと染み渡っていく。そして、宇宙港の光が、少しずつぼやけ、そして今のリオの心のように揺れ動き始めた。

「大丈夫、君は、独りなんかじゃない 」

 その時、穏やかな声と共に、リオは、ゲルダに抱きしめられていた。そして、柔らかく、暖かい鼓動の中、微かに漂う薔薇の香りが、リオの波打つ心を緩やかに静めていった。




時の向こうに(前) 終

戻る