あなたの道を(中)



「あの・・・・・・アヤメさん、なにも、こんなむさ苦しいところでなくても、くつろいでいただける場所は、他にも・・・・・・」

「どへんお気になさらへんでおくれやす、婿殿の仕事を拝見させていただくんも、楽しゅうおますさかいに」

「はあ・・・・・・・・・」

 なんて言うか、かなり妙なことになった。そして、こんな時に、俺はどうしていつもどおり仕事をしているのだろうかと自問する。

 スモークジャガーの残党にリオをさらわれ、同じくして重傷を負わされたハナヱさんは、どういうマジックを使ったのか、他ならぬ彼女自身の母親の手によって、強制的に回復させられた後、単身、リオの奪回に臨むことになった。

 そして、彼女は、一切の手出しは無用と言い切った。もし、ハナヱさんが、誰がしかの手を借りた場合、彼女の名誉は回復しないと言った。名誉が回復しない。それは、サムライにとってすなわち、死を意味すると言う。

 そうなった以上、うかつな動きはできない。リオを救出し、ハナヱさんが生還しても、誰かに手を借りてしまったとしたら、それは御破算になると言うのだ。

 その、ひたすらに厳格な鋼鉄の掟の前に、スターコーネル・イオは、彼女の言葉をのむしかなかった。そして、重苦しく微妙な雰囲気の中、俺達テックや、神判に臨む戦士達は、黙々とメックのチューニング作業を続けていた。

『・・・・・・班長』

『何だ?』

 広げた図面の上に、微調整数値を書き加えていた俺に、シゲがさりげない様子を装いながらささやきかけてくる。

『いいんですか、このままで』

『いいもなにも、下手な手出しをして見ろ、ハナヱさんやリオが無事に戻ってきても、結局は、ハナヱさんがハラキリをさせられるんだぞ』

『・・・・・・まさか、実の母親ですよ』

『実の母親だからまずいんだろうが、本人がはっきり言ったわけじゃないが、彼女は間違いなくDESTだ。奴らは、やると言ったことは必ずやる』

『・・・・・・じゃあ、どうするんですか』

 シゲは、なおも食い下がってくる。無理もない、あいつの妹は、生きていた時、リオと同じくらいだった。

『気持ちはわからんでもないけどな、俺達は、《ただのテック》だ。そんな俺達が、今、ここで、何が出来る?』

 俺の言葉に、シゲは表情を押し殺して黙り込む。

『今は待て、できるよな』

 俺の言葉に、シゲは、その裏側を読み取ってくれたのだろう。それきり、もう何も言わなかった。




「フォッグ、リオの様子は」

 リノの問いかけに、フォッグ、と呼ばれた戦士は黙って首を横に振った。

「そうか」

 リノは、特に何の感慨もなく顔を戻す。あれから1日たつが、リオは、自分達に対して一言も口を開かないどころか、水の一口すらも拒否し続けている。

「どうするのだ、リノ。このままでは、彼女の体調に触る。とてもではないが、アンタロスまで持たない」

 フォッグの言葉に、リノは微かに眉を動かす。そもそも、このイレースに、子供とは言え、スモークジャガーの落人が存在するという情報をもたらしたのは、他ならぬ彼自身だ。

「好きなようにさせておけばいい」

 フォッグは、一瞬何かを言いたげな表情を浮かべるが、すぐにそれをかき消した。

「裏切り者や人っ腹生まれ共と馴れ合うことが、いかに愚昧なことか、そのうち気付くはず。あれに戦士の血が流れているというのであれば、それがわからぬはずはない」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・わかった」

 冷厳なまでのリノの言葉。それは確かに、戦士として間違ったことを言っている訳ではない。だが、リオという名の少女。彼女が自分達に向ける目は、決して同胞に対するものなどではなかった。

 怒りと恐怖、憎悪と疑念。それら負の感情が全て入り混じった、全てを拒絶する意思で塗り固められた目。

 リノに敗れた中心領域の女戦士、今にして思えば、彼女はリオにとってかけがえのない存在だったのかもしれない。あの女戦士の生死は知る由もないが、それでも、目の前でその存在を破壊されたこと。その怒りは、自分のような者でも用意に察することが出来る。

 彼女は、すでに自分の居場所を見つけていたのかもしれない。

 フォッグは、浮かび上がった思いを静かに押しやる。今さら善人面を下げる気もなければ、それが出来る資格があるとも思ってはいない。けれども、どこか拭い切れない後味の悪さだけは、確かに感じていた。




 肺を圧迫するようなカビと埃の匂いが漂う、湿っぽい空気が充満する部屋の中で、リオは焼きつくような頬の痛みに耐えながら、砂埃の積もった床の上にうずくまっていた。

 いつも身に付けていた、猫耳の飾りがついたカチューシャと尻尾飾りは、リノによってもぎ取られ、二度と使い物にならないほどに踏み潰された。

 リオとて、それをただ黙ってなすがままにされていたわけではない。奪い取られまいと必死の抵抗を試みた代償は、左の奥歯一本だった。

 屈辱と憤怒の炎は、その小さな体を駆け巡り、全身を焼き尽くす炎は一両日たった今でも鎮まることはなかった。

 このままでは、絶対に済まさない

 焼きつくような痛みと、口の中に広がる血の味が、リオの中に眠れる闘志を否が応でも加熱させていく。

 そして、それが燃え上がれば燃え上がるほど、その思考は凍りつくほどに冷静になっていく。僅かに上体を持ち上げながら、自分が監禁された部屋を見渡す。窓ひとつない、雑多なガラクタが散乱し、無数のパイプが壁や天井を走る。出入り口は、目の前にある鉄の扉だけ。そして、その扉の前には、そまつなトレイの上に乗せた、レトルトのCレーションと水の入った水筒。

 リオは、それだけを確認すると、機会を待つかのように、再び床の上にうずくまり、その動きを止めた。

 そして、全身を忍耐の塊と化させ、身じろぎひとつせず待ち続け、やがて時間の感覚さえ停止した頃、待ち望んでいた瞬間がやってきた。

 錆のカスを削り落とす音ともに、扉がゆっくりと開き、食事を運んでくるいつもの若い戦士が入ってきた。

 まったく手を付けていないトレイの上に、眉をひそめる気配が粉っぽい空気を伝わってくる。しかし、リオは、ひたすらに沈黙を守り、全ての動きを止め続ける。

 その静かな執念が功を奏し、彼は、この小さな囚われ人の様子がおかしいことに気付く。そして、何度か呼びかけるが、小さな体からは、何の反応も返ってこない。それどころか、彼女の周囲の埃の様子から見ても、動き回るどころか、身動きをしたという形跡すら見ることは出来ない。

 ようやく、彼は、少女がこの部屋に放り込まれたままの状態であることに気付く。そして、彼女に近づくと、その小さな肩を揺すろうと手をかけた瞬間だった。

 突然、両目に激痛が走り、視界が奪い取られた。瞬間、間髪入れずこめかみに肘鉄砲が直撃し、凄まじい衝撃が走ると同時に大脳を激しく振動させる。そして、思わず転倒した所に、股間に無慈悲な一撃が炸裂した。

 声も出せずに崩れ落ちた戦士を省みることなく、リオは弾かれたように駆け出すと、扉の間をすり抜けて薄暗い廊下を走り出した。

 イレースでの生活において、ノヴァキャットのシブコ達との乱闘や、ディオーネから見よう見まねで吸収した格闘術。それらを容赦なく炸裂させ、脱出への道を切り開く。

 不意打ちの後ろめたさなど、この際隅に押しやる。向こうは、さらに卑劣な手段でハナヱを陥れ、そしてその命を奪ったのだ。何も気に病むことなどない。

 自分が閉じ込められていた部屋に至るまでの経路を、その間焼き付けておいた記憶を逆にたどり、リオは周囲の闇に紛れるようにひた走る。

 ごく限られた人数でイレースに潜伏したためか、途中の見張りや巡回に出くわすことはなかった。が、リオはその視界に移るドア、そして曲がり角を認識するたび、野生の山猫の如き警戒心を引き絞り、慎重にそれらをすり抜けていく。

 そして、周囲の空気から埃臭さが薄れ、新鮮な空気の匂いが微かに流れてくる。

 出口だ

 リオの意識がそう認識し、その気配に向かって進もうとしたリオの足が、凍りついたように止まった。

 灰色の髪と目を持った、痩せた男が廊下の真ん中をふさぐようにたたずんでいる。何の気配も感じさせない、さながら幽霊のような男の姿に、リオの警戒心は頂点に達した。

 どうする、引き返すか、それとも・・・・・・?

 リオの思考は、これ以上無い速度で回転する。確か、フォッグという名の戦士。リオは、フォッグを覚えていた。自分がクルツの元で生活するようになってから間もない頃、バザールで会った、スモークジャガーの生き残り。

 だが、今となっては、リオにとって、あのトライビットの向こう側で、戦うすべを持たない、無力な人間を無慈悲に虐殺した、忌むべき殺戮者のひとりでしかなかった。

 リオの中で、次にとるべき行動の意を決した瞬間、突然、足首に鋭い衝撃が走ると同時に何かが絡みつき、それは凄まじい力で足首を引き上げ、リオはもんどりうつように転倒した。あまりにも突然のことに、受身を取る暇もなく後頭部を床に激突させ、そのまま意識を失った。




 手には1枚の紙片、そこには、短い走り書きとアドレス。

 一時は瀕死の重傷を負ったものの、何の予告もなしにイレースを訪れた母の手によって、蘇生させられた。

 そして、不名誉をそそぐべく、リノと名乗ったダークの戦士の足取りを追っていた自分に、ひとりの市民階級の子供が、届け物と言って、この紙片を手渡した。

『信じるもよし、信じぬもよし』

 掴みようのないその真意、しかし、たとえ罠であろうと、それがダークに連なるものであるならば、それはリオへと続く道でもある。

 そして、ハナヱは紙片の導きにしたがって、今、その場所を眼下に望んでいる。ハナヱは、静かに巫王村雨を鞘走らせる。

 露なしつつも、曇りひとつなき清冽なるその秋水。わだかまる迷いの全てを切り裂き、かき消すかのような白銀の刃に、ハナヱの心は早朝の湖水の如く鎮み澄み渡っていく。

 いざや、征かん。

 刃を鞘に戻し、目深にかぶった制帽のゆがみを整え、顎紐をかけ直す。そして、自分の分身たる刀の柄を握りしめ、今一度その感触を確かめると、一片の迷いもなく、眼下に見える廃墟へと、たった独りの進軍を開始した。




「何故、我々を拒絶する。我々は、同胞の筈」

 再び目を覚ました時、リオは自分の姉とも言える存在、リノの前に引き出されていた。そして、リノは、何の感情も窺い知れない視線をリオに向け、静かに詰問する。

「・・・・・・何が同胞じゃい」

 リオは、静かに自分を見据えているリノに、吐き捨てるように言葉を叩きつけた。

「なんもしとらん人を、たくさん殺しといて、何が同胞じゃい」

 リオは、自分の肉体を爆砕しそうな怒りと恐怖を必死に押し殺しながら、冷厳な目でこちらを見下ろすリノを睨み返しながら唇を噛み締める。

「うちは、お前らなんて戦士と認めん。お前らなんか、ただの人殺しじゃ!」

「弱き者、敵に連なるもの、それらを排除して何の不都合があると?」

「じゃからって、何でもかんでもやりゃあげてええわけあるかい!戦えない人の代わりに戦うのが戦士じゃ!気に入らんからって、簡単に殺して!そんなの戦士とちゃうわい!ただの人殺しじゃ!貴智凱じゃ!!」

「それが、お前の言い分か」

 激しい感情をぶつけて叫ぶリオに、リノは静かに言葉を投げかけた。

「そうじゃい!!」

「そうか」

 リノは、そのアイスグリーンの瞳に、鋭い妖気を走らせると、ベルトに下げていたナイフを、静かに抜き放った。

「貴様はデズグラだ、死ね」




 見張りの戦士を峰で打ち倒し、施設に侵入したハナヱは、遭遇する戦士を、誰何の声を上げさせることなく、ひとりの例外もなく一撃の下に叩き伏せる。

 無益な殺生を気取るつもりはない。だが、神刀と謳われた巫王村雨。その刃を、無名の者の血肉で鈍らせることは、剣に対する不敬に他ならない。巫王村雨の刃を受ける資格がある者。それは、リノと名乗った、スモークジャガーの戦士。

 ハナヱは、手向かう戦士の骨を砕き、肉を潰して無尽の野を行くが如く突き進む。その時、キャットウォークにつながる階段から、人影が下りてくるのが見えた。

 天井の明り取りから漏れる光に浮かび上がる戦士は、青黒くくすんだ光沢を浮かべるレザースーツで全身を覆い、顔の右半分は火傷の跡で塗り潰され、その右目はアイパッチが覆っている。

 残った左目も、無事ではすまなかったのか。何らかの後遺症なのだろうか、白くあるはずの部分は、常に真っ赤に充血していた。

 野獣じみた凶暴さを感じさせる、凄惨な傷跡が刻まれつつも、武人としての威厳が宿る光を真紅の目にたたえている。そして、元の顔立ちが残る部分に、微かに漂う柔らかさと、レザースーツを押し上げる胸元の膨らみで、ハナヱはその戦士が自分と同じ女性であることに気付く。

「・・・・・・貴女は、戦士リノの仲間ですか?」

「そうだ」

「リオと言う子供がここにいるはずです、彼女の居場所を教えてください。でなければ、今すぐ、ここから立ち去りなさい」

 どちらにしろ、無用な戦いを避ける旨のハナヱの言葉に、女戦士は口元を三日月のように吊り上げる。そして、アイパッチに覆われていない左の目から、邪悪なまでに鋭い視線をハナヱに突き刺した。

「なら、戦うまで。アイソーラは、手錠の鍵」

 隻眼の女戦士は、真紅に染まった左目をハナヱに向けつつ、内懐から取り出した小さな鍵を、ハナヱに示すように見せた後、手近な鉄骨から飛び出したボルトの頭に引っ掛ける。

「私を殺すことが出来たら、この鍵を持って3番棟へ行くがいい」

「・・・・・・わかりました」

「・・・・・・中心領域人、私は、お前を殺したくて仕方がない」

 凍りついたカミソリのような言葉を吐き捨てると同時に、彼女の右手が一閃した瞬間、DCMSの白詰襟礼装の肩が、鋭利な刃物で切断されたかのように切り裂かれた。しかし、その下の肩には傷ひとつついてはいない。

 見かけではない、本物の戦士。ハナヱはそう判断すると、巫王村雨を正眼に構える。

「私は、ドラコ連合ゲンヨーシャ所属、ハナヱ・ボカチンスキー准尉と申します」

「ウーフーである、死んで後悔するといい」

 お互いの名乗りを終えた瞬間、2人の間に張り詰めた空気が充満する。そして、ウーフーが軽やかに右手を翻した瞬間、黒い蛇のような影が大気を疾走し、とっさにかわしたハナヱの背後の赤錆びた鉄骨を直撃し、銀色の傷跡を刻み付けた。

 破滅的な破壊力を示した鞭の威力に驚く暇もなく、眉間を焼くような殺気に、反射的に刀を一閃させると、ハナヱの鼻先で火花が散り、制帽がざっくりと切り裂かれた。あと少し刀を振り上げるのが遅ければ、自分の頭は帽子ごと真っ二つにされていたかもしれない。

 しかし、当然それで終わる道理はなく、目に見えない斬撃は、不気味な唸りと共に途切れることなく襲い掛かり、白詰襟が鎌イタチに巻かれたように切り裂かれ、帯革が切り飛ばされた。

「どうした?中心領域の戦士」

 見えない斬撃の前に、転がるようにその猛攻をかわしたハナヱは、起き上がるや否や、全速力でウーフーに向かって突貫した。その自暴自棄とも言えるハナヱの行動に、ウーフーは、その赤い目に蔑みの色を浮かべ、鞭を握った手を一閃させる。

 鋭い音と共に、ハナヱの首に鞭が絡みつき、その衝撃で詰襟のカラーが引き裂かれ、破れた皮膚から血が滲み出す。だが、間合いを詰めることで、もっとも威力のある箇所を外し、その威力を減衰させる。

「それで私の手を塞いだとでも?」

「ぐぅっっ!!」

 嘲笑とともに、ウーフーが軽く手首を返した途端、首に巻きついた鞭は、まるで生き物のようにハナヱの首を締め上げ始める。呼吸が急激に遮断されたことで、頭部の血圧が急上昇し、内部から湧き上がる熱気とともに、顔が破裂しそうな圧迫感が襲う。

 だが、ハナヱは左手で鞭を握り締めると、真っ赤に充血した目でウーフーを凝視しながら、目尻や鼻腔から血が流れ出し始めるにも構わず、その細腕からは想像もつかないほどの凄まじい怪力で鞭を押さえ付け、その動きを封じ込める。

 予想外の抵抗に、本能的に危険を感じたウーフーも、鞭に力を入れるが、僅かに気づくのが遅すぎた。眼前まで迫ったハナヱは、さながら羅刹の如き形相で、なおも渾身の力で鞭を手繰りウーフーを手繰り寄せた。

「なっ!?貴、貴様!!」

 先ほどまでとはまるで別人とも言える、凶暴な憤怒の形相を浮かべながら、じわじわと、しかし確実に鞭を手繰り寄せるハナヱに、ウーフーは本能的な恐怖が脊髄を貫くのを感じ、その手を振り払おうと鞭に攻撃意思を伝える。

 激しくのたうちながら、握り締める手の中で暴れる鞭は、白手袋を引きちぎり、その皮膚をも食い破る。だが、皮を破り肉を削られ鮮血が噴き出そうとも、ハナヱはの手は万力のようにがっしりと鞭を握り締め続ける。

 そして、お互いの息吹が感じ取れる距離まで縮まったその瞬間、ハナヱはおもむろに軍長靴を持ち上げるや否や、ウーフーの足の甲の骨を、ブーツに仕込まれた鋼板ごと粉々に踏み砕いた。

「ぎゃあああっっっ!?」

 想像を絶する激痛に、たまらず絶叫を上げたウーフーに、ハナヱは再び足を振り上げた。しかし、今度は、自分の頭の高さを軽々と越す、人間離れした柔軟性で高々と振りかざされた軍長靴は、迅雷の如く振り下ろされると、彼女の延髄にその踵を炸裂させ、意識を粉砕した。

「貴女ほどの戦士、ここで殺すにはあまりにも惜しい。聞こえているのなら、覚えておきなさい。貴女が今よりさらに強くなったとき、もう一度手合わせを願います。戦士ウーフー」

 床に横たわったまま、微動だにしないウーフーに、ハナヱは静かに言葉を向けると、首に絡み付いていた鞭を解くと、それを丁寧に丸め、彼女のそばに置く。

「・・・・・・これじゃ、まるでディオーネさんです」

 ハナヱは、滴り落ちた鼻血に気付き、それを懐紙で拭いながら苦笑を浮かべると、鉄骨にかけられていた鍵を摘み上げた。




「わあぁっっ!?」

 振り下ろされたナイフが視界のすぐ脇を走り、右のこめかみに焼ける痛みが走る。しかし、それくらいのことで驚いているわけにはいかない。リオは、後ろに転がるように回転しながら、後ろ手に拘束されていた腕を前に回し、起き上がりざまに身構えた。

「デズグラでも、命は惜しいか。・・・・・・いや、だからこそ惜しいのだろうな。どこまでも見苦しい」

「じゃかぁしいわい!」

 リオは、こめかみからおびただしい血を流しながらも、リノに対して獰猛な咆哮をあげながら突進していく。そして、再び振り下ろされたナイフを、手錠の鎖でがっちりと受け止めた瞬間、リオの体がバネのように跳ね上がり、リノの腕をひしぐように絡みつくと同時に、渾身の力を込めて彼女の顔面を蹴り飛ばした。

「貴・・・・・・貴様・・・・・・・・・!」

 予想外の反撃に体勢を崩したのもつかの間、リノは悪鬼のような形相でリオを睨み付けつつ、血の混じる唾と共に、蹴り折られた奥歯を吐き出した。

「さっきのお返しじゃい!!」

「貴様・・・・・・よくも!」

「何がよくもじゃい!人をやりゃあげんのは平気なくせに、自分がされたら怒るんか!?」

 両手を拘束されているにもかかわらず、リオは少しも臆することなく激しい言葉を叩きつける。この無慈悲な女にこうまでした以上、自分が助かるということは、もはやありえないだろう。しかし、おとなしく殺されてやるつもりなど無い。

 絶対に譲れない信念、忌むべき無法者に身を落として生きおおせるくらいなら、最後まで戦い、その中で死ぬ。

『クルツ、ごめん。うち、もう帰れん』

 リオは、心の中でクルツに別れを告げると、覚悟を決めた目でリノを睨み付ける。クルツに、ディオーネに、ローク、アストラ、イオ、ジーク、全てのノヴァキャットの戦士達に恥じないように。そしてもう一度、リオは、心の底から彼らに感謝と謝罪を送る。

『今まで、ほんまおおきに』

 ひとつ大きく息を吐き、リオは全てに決別する覚悟を決め、そして、戦うべき敵を真っ向から見据えると、再び咆哮した。

「どっからでもかかってこんかい!!」

「貴様・・・・・・!」

 この、闘志の塊のような少女を前に、リノは言いようのない戸惑いと驚きが伝わっていくのを感じていた。

 少し脅せば、すぐに泣き喚いて命乞いをするものとばかり思っていた。しかし、命乞いどころか、その目には、迷いひとつない強靭な意志の炎を燃え上がらせている。

 力の差は、歴然としている。しかも、両手を手錠で拘束されたままの状態で。これだけ不利な状況にあっても、なおも屈することを知らない強靭な魂。

 なにがこの少女をここまで強くするのか。この、得体の知れない戸惑いは、やがて凶暴な怒りへと変質するのに、そう時間はかからなかった。

「リノ、しばし待て」

「・・・・・・何を待てという」

「この者、まだ幼くとも、その魂は紛れもない戦士のもの。戦士と戦うにあたり、パウレスと言うのは如何に?」

 フォッグの言葉に、水を差されたように険しい表情を浮かべながらも、リノは、一歩下がると、構えていたナイフを下げた。

「いいだろう、その戒め、解いてやるがいい」

「感謝を、戦士リノ」

 フォッグは、静かに答えると、リオに向き直った。

「すまないが、鍵は仲間がもったままである。鎖を断つ、腕を前に」

 フォッグの言葉に、リオは一瞬疑念の色を浮かべる。そう言っておきながら、自分の腕を切り落とすつもりではなかろうか。

「信じるもよし、信じぬもよし。如何に?」

 リノとフォッグが見守る中、リオが意を決したように、手錠でつながれた両手を持ち上げたその時、凛とした声が場に響き渡る。

「その必要はありません」

 乾いた靴音を響かせながら、落ち着いた足取りで現れた女剣士。至る所に戦いの爪痕が刻まれた雪白の礼服に飛び散る血痕が、ひときわ鮮やかに胸元を飾る。

「鍵は、ウーフーさんから預かりました。これ以上、その子に危険な行為を為すことは許しません」

 澄んだ金属音を響かせながら、小さな鍵をかざしてみせるその姿に、リオの顔に驚愕と歓喜の表情が急浮上する。

「ハナヱ姉ちゃん!!」

 そんなことはない、と思いつつも、心のどこかで諦めていた彼女。しかし、今目の前に、悍威に満ちた姿で剣を掲げているその姿に、リオは、我を忘れて駆け出す。その様子に、反射的に足を踏み出そうとしたリノを、フォッグはそれを押しとどめるように制止する。

「フォッグ」

「・・・・・・これで、条件は貸し借り無し。振り出しに戻ったと言うことだ」

 フォッグの言葉が、あの時のバザールでの事を突いていると察し、リノは、憮然とした表情で押し黙る。

「ハナヱ姉ちゃん!大丈夫だったんか!?」

「うん、元気元気。それより、リオちゃん。遅くなって、ごめんね」

 ハナヱは、手錠の鍵を外しながら、満面に歓喜の表情を浮かべているリオに笑いかける。だが、リオの顔に刻まれた、赤紫に腫れ上がった殴打痕や、血糊の乾ききらない創傷を目にした時、再び渦巻き始めた獰猛な感情が、心を赤く塗り潰していくのを感じ取る。

 敵を憎むな、怒りに身を任せるな

 憎むべきは、怒りに濁る己の心

 憎しみと怒りにたぎる血は

 ただ己の立つ力に変えよ

 幼い頃から、母より幾度も説かれ、そして、血肉の一部となるほどの鍛錬とともに叩き込まれたその精神。

 ハナヱは、あるだけの懐紙を取り出すと、リオの傷口と顔にこびりついた生乾きの血を優しく拭い取る。そして、もう一度、穏やかな笑顔で少女に笑いかける。

「それじゃ、リオちゃん。もう少し、待っててね」

「うん!わかった!!」

 リオの言葉と笑顔を胸に、ハナヱは立ち上がり、そして、再びダークの戦士と相対する喜びに打ち震える自分を抑えこむように、満身創痍となった礼装の乱れを正し、リノを正面から見据える。

「・・・・・・まさか、生きていたとはな」

「随分御挨拶ですね、もっと喜んで下さるかと思っていたんですが」

「何を喜べと」

「誇り高き氏族人の戦士、策に頼らず、己の力のみで雌雄を決しようと言うのだ。これ以上に、なんの僥倖があろうや?」

 土を捲きて重ねて来る。かの言葉を具現するかのような悠然たる表情で、ハナヱは、一度は苦杯を舐めさせられた戦士に対し、宣戦布告を送りつけた。




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