第六章

染まる色




「で、診療所の方はどないするん?」

 ここ数日で、もはや当然の流れのようになってしまった、神尾家での朝食。そして、今日の予定や、最近の話題を交えながらの食事の途中、不意に神尾が切り出してきた問いに、箸を動かす手が止まる。

 そして、ついこの間、不審者と思われて診療所を追い出され、結局、写真を渡しそびれた不愉快な記憶が蘇った。

「顔を出さないわけにはいかないだろうな、何しろ、写真のこともある」

 しばし言葉を選びつつ、答えを神尾に返す。しかし、俺の都合はどうあれ、霧島佳乃と言う少女には、なんら関わりのない話だ。写真は、必ず渡さなければならないわけだが・・・・・・。

「なあ、その写真、うちにも見せてくれへんか?」

「それはかまわないが、汚したりしないように気をつけてくれ」

「子供じゃあるまいし、そないなことわかっとるわ」

 相変わらず、打ち返してくるような返事に苦笑しつつ、俺は、カメラバッグの中にしまってあった、写真の入った書類封筒を取り出し、それを神尾に渡した。

「なんや、普通の写真やないの」

「そうか」

 キャビネサイズの写真を眺めながら、神尾はありたきりな感想を口にする。

「ああ、写真はきれいやで。なんや、垢抜けとる感じや」

「そうか」

「せや、ほんまええ感じやで。夏少女、ってところやね」

 神尾は、感心したように、数枚の写真を、かわるがわる見比べている。

「いや、気ィ悪くしたら謝るけどな。霧島のセンセ、アンタのこと、いかがわしい商売の人間と勘違いしとったらしくてな。いったい、どない写真撮りよったんや思うたんや」

「そうらしいな、おかげで散々な目にあった。釈明ぐらい、させてくれてもよさそうなものだがな」

「ま、センセも、ご両親が亡くなった後、今までずっと、ひとりで妹さんの面倒を見てきとったようやしね。見ず知らずの人間が尋ねてきて、心配するんも、まあ、ありなんちゃうか?」

「そうだな、それは、俺も反省はしている。せめて、連絡をしてから渡しにいく算段くらいは、しておくべきだったとは思っている」

「ま、そこまでするかどうかはともかく、とりあえず、センセの方も、そのことについては謝りたい言ぅてはったし、今度は、訪ねていっても大丈夫なんちゃうか」

「そうだな、とにかく、佳乃君に写真を渡さないことには。約束した以上は、な」

「せやね、こんなによく撮れとんのに、もったいない話やもんな」

 そう答えながら、神尾は、俺が撮った写真を眺めている。

「けど・・・女の子の方はええとして、この、一緒に写っとる、白い毛玉。なんやの、これ?」

「知らん、俺の方が知りたいくらいだ」

「さよか、にしてもまあ・・・・・・けったいな生きモンやね」

「あまり、滅多なことは言わないほうがいい。それでも、彼女の大事な相方らしいからな」

「そうなん?ま、人それぞれやしね」

「ああ」

 朝食をすませ、神尾の激励らしきものを受けた後、俺は、再び霧島診療所を尋ねてみることにした。自分でもいい加減しつこいとは思うが、先日の騒動がどうしても頭から離れない。だが、過ぎた事をいつまでも引きずり続けるのも、それこそ詮無い事だ。




『往診中』

 診療所の扉にさげられた札を見て、俺は、話が再び振り出しに戻ったことに、落胆とも安堵とも付かない、奇妙な感覚を味わうことになった。

 大人気ない感情ということは、重々承知はしている。だが、さすがに、医者に刃物を向けられると言う、あの鮮烈な体験は、拭い去るには容易ではない、

 仕方ない、ここは、いったん出直すとしよう。往診と言うからには、帰ってくるのがどのくらいになるか、まず見当がつかない。それに、時間と共に、日差しも強さを増してくる。そんな中で、漫然と待ち続けるほど、時間を持て余しているわけでもない。

 別に、すっぽかすわけではない。時間を改めて出直すだけだ。幾分詭弁じみてはいるが、そう自分を納得させて、霧島診療所を後にした。

 事前に連絡を入れて、都合をつけておけばよかったのだろうが、今さら言ってもどうしようもない。そして、予想通り、分刻みで強さを増していく、突き刺すような日差しの下を歩きながら、町外れにさしかかった時、小さな小川が目に入ってきた。

 無意識に涼を求めようとしたのか、小川にかかるコンクリートの小さな橋の上で、しばらくの間、透明なせせらぎに目を落とす。こうしていると、気分的に涼しくなる気がするから不思議だ。

 そして、ふと足元に気配を感じると、果たして、そこに真っ白な物体が、こちらを見上げていた。

「ぴこっ」

「ふむ・・・・・・・・・」

 さすがに、二度目と言うことも有って、今度は、初見の時のような衝撃は無い。そして、あることに気付き、周囲を見渡す。

 この白い毛玉・・・・・・もとい、犬が居るということは、その相棒も、きっとこの付近に居るに違いない。

「あ、写真屋さんだ」

 予想に違わず、屈託の無い声と共に現れた少女が、俺の姿を見て手を振っている。

「霧島君か、いい所で会えた」

 彼女の姿に、俺は、無意識に肩の荷が下りるのを感じた。なにはともあれ、これで彼女に写真を渡せる。それにしても、これだけの用事で、随分遠回りをしてしまったものだ。

「宗玄さん、おひさし!」

「ああ、元気そうで何よりだ」

「ぴこぴこっ!」

「お前も元気そうで何よりだ、ポテト・・・だったな?」

「ぴこっ!」

 このふたりが現れただけで、雰囲気だけでなく、風景まで明るさを増したように感じる。最初にあった時は、年齢に不相応な無邪気さに戸惑いもしたものだが、これだけ人を和ませられるのは、得がたい才能なのかもしれない。

「お姉ちゃんから聞いたよぉ、なんか、大変だったみたいだねえ」

「そんな大したことじゃない」

 大変にしたのは、姉上の方なのだがな。そんな言葉を飲み下してから、肩に下げたカメラバッグから、写真を詰めた封筒を取り出す。

「霧島君、待たせてすまなかったが、これが、この間撮らせてもらった写真だ」

「ぴこぴこっ!」

「心配するな、お前もちゃんと写っている。後で、霧島君に見せてもらうといい」

「ぴこっ!」

 いつから、自分はこの白毛玉と、なんの抵抗もなく接するようになれたのかは、この際さておくとしても、このポテトとやら、なんとなく、人語を解しているようで、その反応はなかなかに趣き深い。

「それじゃ、宗玄さん。さっそく見てみても、いいかなぁ?」

「ああ、そうしてくれ」

 封筒を手に、期待に目を輝かせている霧島に、橋の欄干に腰を下ろしながらうなずく。

「えへへ、じゃあ、さっそくはいけーん」

 同じように、俺の隣に腰掛けた霧島は、写真の束を手に、その一枚一枚を、実に丁寧に見続けている。

「同じ写真なのに、全然別人にみえるね」

 川べりに座り、持ってきた写真を見る霧島は、率直な感想を口にする。

「うんうん、さすが、プロは違うね」

「そうか」

「うん、というわけで、宗玄さんを、プロカメラマン1号に任命する!」

「ハハハ、そうか」

 なんとも、『プロカメラマン1号』とは。最初に会った時も、年齢の割には、随分幼い言い様をすると思ったものだが、これも、霧島の個性。と、言うものだろうか。

 まあ、なんにせよ、物怖じしない、と言うより、屈託の無い霧島の性格は、彼女の美点なのであろう。だが、確かに、この良くも悪くも素直な性格は、保護者にしてみれば、一抹の不安材料となりうることも事実なのかもしれない。

「でも、同じ写真を写すのに、お姉ちゃんと南風原さんとでは、本当に、全然違うものになるんだね」

「まあ、その辺りは、色々有るからな」

「むむむ・・・・・・・・・」

 考え込むほどのものでもない気もするが、俺の言い方が、抽象的過ぎたのかもしれない。

「まるで、魔法だね」

「魔法・・・・・・・・・?」

「うん」

 これは恐れ入った、よもや、魔法とは。だが、他ならどうかは知らないが、霧島の言葉は、それこそ率直な印象。と、言ったものなのかもしれない。

「魔法が使えたらな、とか、思ったこと無いかな」

「魔法・・・・・・か」

 霧島の言葉に、それをどう答えたものかと思考する。正直な所、そう思った事は一度も無い。俺自身に限って言えば、使う使える以前に、そのような能力も、ましてや媒介すらも、もとより存在しなければ。と思ったことなら何度もある。

 この、銀色の目を介して表れる力。それこそ遠い昔。この、異能じみた目にまつろう事の是非を語るとすれば、まだ、幼かった頃の自分にまで、時間を巻き戻す必要があった。

 俺には、霧島の問いに即答をすることは難しい。だからと言って、霧島の中にある、その概念を否定する気は毛頭ない。良くも悪くも、純粋なのかもしれない。それが、今の俺の、率直な感想。と、言う奴だ。

「そう・・・だな、まあ、俺みたいに、無駄に年を重ねていると、感じなくなるものもあるかもしれないがな」

「そっか」

 俺の答えに、特に失望するでもなく、かと言って、肯定するでもなく、霧島は、変わらぬ表情でうなずいている。そして、その傍らには、白毛玉が静かにうずくまっている。

「人の理解を超えた技術は魔法と同じ、そう言う言葉もある。だから、俺は『魔法』という言葉を否定はしない、がな」

「むむぅ・・・・・・なんだか、難しいよぉ」

「そうか」

 やはり、少し回りくどすぎたか。俺の言葉に、霧島はなにやら考え込むような表情になってしまっていた。

「でも、佳乃も、魔法を使えるよ。っていうか、使えるようになるよ」

「ふむ?」

「これって、魔法のバンダナだから」

 そう言って、霧島がかざして見せた、黄色いバンダナ。その手首に巻かれた、何の変哲も無い布。

 だが、なぜか、ひどい『違和感』を感じた。針の先で微かに突いたような、極めて微細に過ぎないものだったのだが。

「そうだ、宗玄さん、これから時間あるかなぁ?」

「今からか?まあ、都合はつけられるが」

「それならさ、これからうちに来てみない?」

「うちというのは・・・・・・霧島診療所か?」

「そうだよぉ」

「だが、往診中で留守のようだったが?」

「大丈夫だよ、かのりん、鍵もってるから。それに、お姉ちゃん、もう帰ってるかもだし」

「そうか・・・・・・」

 やはり、もう一度あの女医殿と、顔合わせをしなければならないということか。だが、これはこれで、いいきっかけかもしれない。いつまでも先送りにしても、却って先方に対して失礼と言うものだろう。

「わかった、では、お邪魔になろう」

「お邪魔じゃないけどまあいいや、それでは、でっぱーつ!」

 意気揚々と歩き出した霧島の後を従うように歩き出したポテトが、その足を止めて振り返ると、その碁石のような目で見上げるように、俺に視線を向けていた。

「わかっている、今行く」

 なんとも、ここまでくると、随分人間くさい奴ではないか。




「で?今日もボウズだったんかいな」

「ああ、そう言うことになる」

 あの後、佳乃君と診療所に同道したわけだが、結局、往診が長引いたのか、主はなかなか戻ってこなかった。

 さすがに、どこの馬の骨とも知れない男が、年頃の少女と、病院の待合室で席を共にしているというのは、いささか体裁の良くない絵面である。

 それゆえ、頃合を見計らい、診療所を引き上げた俺は、神尾の苦笑交じりの言葉に付き合いながら、気休め程度の足しにもならないとは知りつつ、自分のバイクの点検の手を動かし続ける。

「でも、うまいこと写真を渡せたんやから、ま、それはそれで、って奴かいな」

「まあ、そうとも言えるな」

 神尾の言葉が全て、と言う訳でもないが、この状況では、多くを望むまい。と言うのが、今の正直な気分だった。

「駄目だ、まったくわからん」

 頑なに沈黙を守り続けるバイクに対し、俺はこれ以上の働きかけは無駄と考え、工具を持つ手を止めた。

「ほな、とうとうスクラップかいな」

「そうは言わないが、考えのひとつかも知れんな。正直、お前のドゥカティがうらやましい」

「やらへんで」

「そういう意味じゃない、きちんと動いてくれることが、だ」

「わかっとるがな、ほれ、これでも飲んで、一服し」

 神尾が差し出した、グラスの中の麦茶をあおり、薄暗くなりつつある裏庭を見渡した。

「で?結局、診療所には行かんかったんか」

「いや・・・行くには行ったが、往診で留守だった。あまり長居をするのも気がひけたからな、佳乃君には、改めて挨拶に伺うと詫びて、お暇させてもらった」

「そか・・・・・・でもな、いっぺんは顔合わせした方がええかもしれへんよ。いちおう、センセも気にはしとったみたいやからね」

「そうか・・・・・・」

「ま、アンタの気持ちも、わからんこともあらへんけど、このままにしとくのも、お互い後味悪いと思うで?

 あのセンセも、妹さんのこととなったら、ごっつ見境なくす人やけど、それ以外は、きちんとした人やさかい。なんや、ガラにもなく説教臭いこと言ぅてしもぅたけど、ま、そこいらへんは堪忍な」

「・・・・・・いや、わかっている。ありがとう」

「ま、それはそれとして。そろそろ晩飯の支度でもするわ。宗玄も、ええ加減腹すいとるやろ?」

「ああ、よろしく頼む」

 長い髪を束ねながら、台所の方へ入っていく神尾に返事を返しつつ、俺は、縁側に腰掛けたまま、もう一度、庭の景色を眺める。

 全てが、茜色に染まる世界。なんの変哲もない、どこにでもあるような、田舎の庭。しかし、全てを包み、そして、全てを呑み込むような、そんな、迷宮じみた匂いを漂わせる、妖しくも美しい色。

 もしかしたら、俺も、既にこの色に取り込まれてしまっているのだろうか。つい、そんな益体もない事を夢想する自分に、こみ上げてきた苦笑いをかみ締めながら、グラスの底に残った麦茶を飲み干した。

 俺も、この空気の色に、浸されつつあるのか。そう、思いながら。