第五章

休む場所





 点火プラグを締め終え、プラグキャップをはめ直す。もう、今までに何度同じ事を繰り返しただろうか。おかげで、走ることを拒否したかのようにさえ見えるこのバイクも、全ての消耗品は、ほとんど新品に入れ替わっている。

 キックペダルを起こすと、当たりを確認して、それを踏みおろす。しかし、何度同じ事を繰り返しても、聞こえてくるのは、エンジンの中で虚しく部品が空回りする、気の抜けた音だけだった。

「おはようさん、毎朝々々、ホンマ飽きないこっちゃな」

 縁側から聞こえてきた、苦笑交じりの神尾の声に、俺は、額に浮かんだ汗をぬぐいながら、大きく息を吐いた。

「朝の運動代わりと思えば、大したことじゃない」

「そらまた結構なこっちゃな、ま、負け惜しみはその辺にして、そろそろ朝飯食いや」

「・・・・・・わかった」

 相も変わらず、遠慮の無い物言いだが、そんなのは、とうの昔に慣れてしまった。言葉ほど、悪気はないせいもあるのだろうが。

「・・・・・・で?南風原先生、今日はどないすんねんな」

 例の卓袱台に向かい合って、朝飯をつついていた神尾が、俺の顔を覗き込みながら話しかけてくる。

「昨日と同じだ、取材ついでに霧島君や遠野君を探してみる」

「そらまた、欲張っとんねんな。ま、頑張りや」

「ああ」

 欲張っているかどうかはさて置くとしても、必ず渡すと約束した以上、それは守らなければならない。それから、遠野のこともそうだ。だが、昨日の一件を思い出すにつれ、話がそう上手く運ぶかどうか、いささか不安になる。

「アンタは、正しいと思ぅとったから、チビちゃんにそう言ぅたんやろ。なら、そないシケた面下げる必要あらへん。アンタはまだ優しいほうや、うちなら一発シバき倒しとるで」

「そうか」

 無意識に、顔に出てしまっていたのだろうか。苦笑するしかない彼女の言葉に相槌を打ちながら、俺は、椀の底に残った味噌汁を飲み干した。

「ご馳走になった、いつもすまない」

「アンタな、その他人行儀もたいがいにしときや。そのうち、シバくで?」

「それは勘弁して欲しいな」

 最初の頃は、辟易するだけだった口調も、今では、随分慣れた。




「小さい町とは言うが、探すとなると、なかなか会えないものだ」

 結局、午前中は、霧島に会うことはなかった。心当たり、と言うか、会った時本人の野印象で、おそらくここだ、と思った場所を歩いてみたのだが、霧島本人はもとより、あの、奇妙な小動物にさえ行き会うことはなかった。

「となると、次はまた、あそこか・・・・・・」

 当然行き着く結論に、俺は、考えても詮無い事と、また、あの廃駅を訪ねることにした。昨日の今日と言うこともあったが、そんなことをいちいち気にして、大人などやっていられない。

 もはや通り慣れた感のする、駅へ続く道に差し掛かった時だった。俺は、そこに見覚えのある人影を見つけ、立ち止まった。

「こんにちは、宗玄さん」

「遠野か、よかった、探していたんだ」

「私を・・・・・・ですか?」

「ああ、この間の写真だが、出来上がったら、分けると約束しただろう」

「ああ・・・・・・そういえば、そうでしたね」

 合点がいったように、目を閉じて小さくうなずいている遠野に、俺は、カメラバッグの中から、写真入の封筒を取り出し、それを彼女に差し出した。

「その前に、宗玄さんにお詫びしたいことがあります」

 遠野は、一歩引くと、元々物静かな表情を、さらに正しながら俺を見上げた。

「昨日は、みちるが御迷惑をおかけしたそうで、本当に申し訳ありませんでした」

 神妙な表情で、深々と頭を下げる遠野を前に、俺は、正直戸惑うしかなかった。

「過ぎたことはいい、それに、俺も、きつく言い過ぎたかと気にしていたんだ」

「いえ、必要な時に、必要な事を言ってもらうことは、当然のことです。私も、みちるから話を聞いた時は、本当に驚きました」

「そうか・・・・・・」

「あの子は、人から叱られることに慣れていないので、昨日は、宗玄さんに不愉快な思いをさせてしまったかもしれません。ですが、私からもよく言い聞かせましたので、あの子のことを、悪く思わないでもらえませんか・・・・・・?」

 真剣な表情で、謝罪と、みちるを気遣う言葉を向ける遠野に、あの後の、みちるの驚きが手に取るように見えてきた。しかし、過ぎたことだ。俺は、伝えるべきことは、あの子供に伝えた。それ以上の追求も、そして、相手からの謝罪も、もう必要ない。

「遠野、重ねて言うが、過ぎたことは気にしないでくれ。ふたりとも、驚かせてしまったようだが、悪く思わないでくれ」

「ありがとうございます、宗玄さん」

「ああ、・・・・・・で、写真の方なんだが」

「そうですね、でも、立ち話もなんですから、駅の方に行ってみませんか?」

「そうだな、それでいいなら、そうしよう」

「はい」

 話がまとまった、と理解し、俺は、遠野の勧めに応じて、駅へと続く道を、再び歩き出した。

「それと、もうひとつ、お礼を言わないといけないことが」

「もうひとつ?なんのだ」

 遠野の言葉に、俺は心当たりを探してみるが、とりたてて思い当たることはなかった。

「昨日は、母がお世話になりました。重ねて、お礼を申し上げます」

「母・・・・・・?もしかして、あの、荷物を運びかねていた人がそうなのか?」

「はい」

「そうか・・・・・・」

 ふと遠野の横顔を振り向いた時、彼女の手がポケットに伸びるのに気付き、俺は、すまないとは思ったが、機先を制するように声をかけた。

「すまないが、お米券は受け取れない。それをされたら、こっちの立場が無い」

「・・・・・・がっかり」

「そう言わないでくれ、最初にもらった分だけで、十分に価値がある。その気持ちだけで、本当に感謝しているんだ」

「・・・・・・了解」

 どうにか、お米券の授受を回避したはいいが、微かに肩を落とした遠野に、他意はないことを伝える。何故、それだけの券を持ってきているかは知らないが、人の厚意を物で受け取るのは一度だけでいい。それで、十分気持ちは伝わると、俺は思っている。

 そんなやり取りをしながらも、俺達ふたりは、あの駅が見える広場を歩いていた。しかし、いると思っていたみちるの姿は、どこにも見えなかった。

「・・・・・・やはり、昨日の事を気にしているようだな」

 解りきっていたこととはいえ、なんともいえない気持ちになりながら、俺は駅舎の前のベンチに腰を下ろした。

「その話は無し、と言ったのは、宗玄さんですよ」

 そう言いながら、遠野も、俺の隣に座る。

「そうだな、すまない」

 しかし、さすがにここまでくると、お灸が効きすぎたか、とも思ってしまう。それこそ、言っても詮無いことだが。

「遠野、これが、この間約束していた写真だが、受け取ってもらえるか?」

「はい、喜んで」

 ようやく渡すことができた、なんとなく肩の荷が軽くなったような気がしつつも、最後に残ったもうひとりのことを考えると、さてどうしたものか。と考えてしまう。見た所、遠野と霧島は、歳も近そうだし、同じ学校であるかもしれない。

 それなら、彼女に相談して、待ち合わせの機会を作ってもらおうかとも考えたが、さすがに、そこまでの頼み事は、少し図々し過ぎる。

「・・・・・・遠野?」

 考え事をしていたせいで気付くのが遅れたが、遠野の気配に異変を感じた俺は、彼女の横顔を見る。そして、思いもかけなかった事態に、俺は心底戸惑うしかなかった。

 夕暮れに浮かぶ駅舎を写した写真を前にして、遠野はその目にうっすらと光るものを浮かべていた。どういう事情があるかはわからないが、これは正直、予想外の反応としか言いようがなかった。

「・・・・・・あ」

 俺の視線に気付いた遠野は、軽く目元をぬぐうと、小さく微笑を浮かべた。

「感動したで賞・・・・・・お米券は、宗玄さんが困るから、拍手・・・・・・ぱちぱち」

「そうか・・・そう言ってくれるなら、ありがたい」

「はい、まるで、生きているみたいでした」

「生きている・・・・・・・・・?」

 建物と言う無機物を、『生きている』と評した遠野の言葉に、俺は一瞬不意を突かれたような気分になる。が、おそらく、遠野は昔、まだこの駅が多くの人々を送り、そして迎えていた時の事を言っているのだろう。

「そうか、生きている、か・・・・・・・・・」

 遠野の言葉を胸の中で繰り返しながら、最初、ここで不用意に垣間見てしまった、この駅の記憶を思い出していた。

「・・・・・・宗玄さん」

「ん、どうした」

「ひとつ、教えていただきたいことがあるのですが・・・・・・」

「俺に・・・・・・?わかった、俺でわかることなら、相談に乗ろう」

 思いがけない申し出だったが、他ならぬ遠野の頼み、と言うことで、俺は彼女の質問とやらを聞いてみることにした。

「ありがとうございます、・・・・・・その、宗玄さんは、星の写真を撮ったことはありますか・・・・・・?」

「星・・・・・・天体写真か何かのことか?」

「はい」

「駆け出しの頃は、カメラに映るものなら何でもとったからな。星空を被写体にしたことも、何度かあった。遠野、星の写真に興味があるのか?」

「はい、こう見えても、私、天文学部の部長ですから・・・・・・」

「ほう、それはたいしたものだ」

 遠野のその言葉で、質問の理由に合点がいった。なるほど、天文学部と言うことならば、星空の写真も撮りたいではあるだろう。

「あの、もしよろしければ、星空の写真の撮り方を、教えていただけませんか」

「そうか・・・・・・だが、夜空と言うのは、普通のカメラやフィルムでは、まともに写すことも難しい。露出光の調節ができるカメラと、高感度のフィルムがいる。少なくとも、400番以上のフィルムと一眼レフカメラは必要だ。コンパクトカメラでは、どうしても露光が足りなくなるから、映るとしたら、よほど明るい星だけだ

あとは、三脚とレリーズもあったほうがいい。手で押さえるにしても、弱い光を映すわけだ。手ぶれを抑えるにも限度がある。確実に固定し、シャッターを切る際の振動も、最大限なくす必要があるからな」

「そう・・・なんですか・・・・・・、結構、難しいんですね」

「難しいと言うより、少し金がかかるといったところだな。部費でそろえるとしても、いきなり全部は、まず厳しいかもしれないな」

「そう・・・ですね」

本当のことだから仕方ないとは言え、やや敷居の高い答えになってしまった。だが、適当なことを言うわけには、それこそ行かないだろう。

「遠野さえよければ、実演させてもらえないか。雰囲気を掴むだけでも、今後の参考になると思うんだが」

「そうおっしゃって頂けると嬉しいのですが・・・・・・ひとつ、問題が」

「問題?」

「実は、まだ部員がひとりしかいないんです。う〜ん、困った」

「そ・・・・・・そうか」

 こいつはしてやられた、部員がひとりしかいないと言うことは、要するに、遠野が唯一の部員。と、と言うことなのだろう。立ち上げたばかりなのか、それとも単に人気がないだけなのか。この答えは、正直予想外だった。

「いや・・・・・・しかし、無駄と言うことにはならないだろう。今は遠野ひとりとしても、部長として、これから部を引っ張っていく時に、部活動に関する知識と経験は、ひとつでも大いに越したことは無い。

 人数のことは気にする必要は無い、遠野さえその気なら、俺はいつでも手伝う用意をしよう。・・・・・・どうだ?」

「はい、そう言ってもらえると、嬉しいです」

「そうか、それなら今度、都合のいい日を教えてくれ」

「はい・・・・・・それと、その時は、みちるも一緒に来ていいですか?」

「もちろんだ、それに、あのまま顔を合わせないというのもよくない。和解のきっかけになるなら、彼女も来てくれるとありがたい」

「わかりました・・・・・・宗玄さん、今日は、本当にありがとうございます」

 深々と頭を下げる遠野に、俺は手を振る。別に、感謝されたくて、しているわけじゃない。俺にできることなら、力を貸してやりたい。それが、先達の役目と言うものだ。




 遠野と別れたあと、俺は、再び本来の仕事の続きをするため、手がかりになりそうなものや、場所を求めて歩き回っては見たものの、やはり、結果は芳しいものではなかった。まだ、たかだか数週間程度の空振りだが、こんな小さな町で、それこそ誰も知らないほどの話。と言うのなら、あの老僧の話は、本当にただの御伽噺の類ではないか、と言う思いも頭をよぎっていく。

 そもそも、どうしてあの話に動かされたのか、自分でも良くわからない。ただ、

『行かなければならない』

とにかく、あの時はそれしか考えていなかった。神尾のように、ただ笑い飛ばして終わり。それが、普通の反応というものだったのだろう。

 さて、どうしたものだろうか。ともあれ、この町に滞在するようになってから、それなりの日数が過ぎてくると、ここの住民達にも、

『なにやら、この町に伝わる御伽噺の、ゆかりの地を探しに来た写真屋』

 と言う肩書きが、ぼちぼち定着し始めてきたようだった。確かに、ただ漫然と歩き回るだけでは駄目だろう。と、町役場や教育事務所を訪ねてみたり、老人会の集まりに顔を出してみたりもした。

 それでも、得られた情報は皆無に等しく、困惑したり、苦笑されたりと、様々な表情を向けられるのも、もう慣れっこになってきた。そしてまた、手ぶらで逗留先に帰り、神尾から、遠慮のない言葉を頂戴する流れが出来上がってしまっている。

 ともあれ、『町にやってきた、変わり者』と言う評判だけは、少しずつ浸透しているようだ。小さい町ゆえ、それも当然の流れと言うものなのだろうが、それで、変に誤解され、先日のあの診療所のように、攻撃的な拒絶を受ける可能性も、無きにしも非ず。ということは、是が非でも避けたいところではある。もっとも、それは、これからの、俺の行動次第。と、言ったところなのだろうが。

「・・・・・・さて、とは言うもの・・・な」

 神尾の言うとおり、今日は欲張りすぎただろうか。気が付くと、日はすっかり沈み、辺りは群青色の闇に沈みきっていた。

「まずいな、連絡を入れておくべきだった」

 今頃になって気付いても手遅れだが、腕時計を翻してみると、いつもの夕食の時間は、とうの昔に過ぎてしまっている。しかし、だからといって、知らぬ顔を決め込んで戻ったら、それこそ何を言われるかわからないし、何より、厚意で世話を見てくれているものに対して、失礼極まりない話だ。

「さて・・・頼むぞ・・・・・・」

 何を頼むのか、自分でもわからない。が、ともかく、願をかけるような気持ちで、送信状態の携帯電話を耳に当てた。

『はい、神尾ですけど』

「すまない、宗玄だが・・・・・・」

『はあ?宗玄かいな!アンタ、こんな時間まで仕事しとったんかいな』

「ああ、すまない、連絡が遅くなった」

『ま、それはええねんけどな。アンタにも、色々あるんやろから』

「本当にすまない」

『それはええっちゅうとるやろ、・・・・・・で?メシはどうするんや』

「すまん、まだ・・・・・・」

『なら、今から暖め直しとくわ。あ、それとな、今さっきまで、アンタに客が来てたで』

「客?俺に?」

『せや、霧島診療所んとこの先生と、妹さんやねん。なんでも、昨日エラい騒ぎになってしもうたから、お詫びに来たとか言うてはったで』

「詫びに・・・・・・?」

 意外な話を神尾から聞かされ、一瞬ではあるが、思考が停滞した。

『せや、アンタ、霧島さんとこの妹さんの写真を撮ったやろ?写真ができたら、それを届ける約束をしたのは確かで、変なことはなにもしてへん、て、妹さんに言われたらしいで。

 ま、うちも、アンタから大体の話は聞いとったから、ちっとはピンときたけどな。それで、今さっきまで待ってもろうとったけど、これ以上遅くなると、却って迷惑になるから、言ぅて帰ってもうたわ。

 どないすんねん?今からなら、診療所に行けば、ふたりとも帰っとるかもしれへんよ。診療所が霧島さん家にもなっとるさかい、寄ってみたらええんちゃうか?』

 なるほど、神尾の話を聞く限り、昨日の騒動について、あの女医の誤解を解いてくれたのは、霧島だったらしい。しかし、だからと言って、こんな時間から人の家を訪ねるというのも、少々違う話だ。

「・・・・・・いや、今日はもう遅い。明日にでも、こちらの方から出直してみる」

『そうなん、ま、アンタのわかるようにしたらええわ。ほな、うちは、これからメシの支度でもしとくさかい、早よ帰って来ぃや』

「わかった、今から戻る」

『ほなな』

 通話の切れた携帯電話をしまいながら、入れ替わりに聞こえてきた波の音に顔を向ける。防波堤から見えるはずの海は、もう夕日の残滓すら消えうせ、星明りに微かに浮かび上がる砂浜だけが見えるだけだった。

 濃紺の闇の中、ある一線を境にして、ガラスの粉を振りまいたように群星が瞬いている。昼間、遠野との話題がふと蘇り、無意識のうちに、両手指で四角を作り、星空の一片を、その中に収めてみる。

「・・・・・・いい空、だな」

 言葉に出して説明するのは難しい。遠野と約束した、天体写真の話を引いているわけではないが、この星空を、形あるものに残してみたい。とにかく、そう思わずにはいられなかった。

「・・・・・・さて、そろそろ、帰るとするか」

 何気なく、自分自身がつぶやいた言葉。砂浜に打ち寄せる波の音にかき消され、拡散していったそれに、奇妙な感慨が、苦笑となって浮かんで消える。

 拒絶というものを知らず、穏やかな空気と共に包み、ひとりの余所者を迎え入れた町。それが、いつのまにか、『帰る場所』とは。

 引き寄せたのか、引き寄せられたのか。それはまだ良くわからない、ことさら分かろうとする必要もないのかもしれない。そう思いながら、夜の空気の中へ、緩やかに溶け合う潮騒と海風に背中を包まれながら、防波堤を後にした。