第四章

「言葉と心」




 俺は、自分に向けられた、数本の医療用メスの切っ先を見て、心底言葉を失った。いったい、どこの世界に、客に向かって刃物をちらつかせて恫喝する医者がいるだろうか。いや、それ以前に、人として、それはどうなのかと問い詰めたくなる。

 確かに、俺の言葉が足りなかったのかもしれない。しかし、だからと言って、路地裏のチンピラでもあるまいに、冗談どころの騒ぎではすまなくなるような危険なものを、見ず知らずの人間に見せ付ける道理があるだろうか。

 理不尽なものに対する驚きは、次第に、ふつふつと湧き上がる怒りに変わって行くのに、そう時間はかからなかった。

 時間は、多少さかのぼる。

 町の写真屋から、現像の済んだ写真を受け取った後、それらを携えて、写真の主達に、それらを届ける準備ができた。

 特に時間的な約束はしていなかったから、待ち合わせの場所に、適当な時間を見計らって持っていくしかないのだが、こんな小さな町だ、とりたてて心配することもあるまい。と、その時は軽く考えていた。

 そして、まずは手近な町内から当たってみようと思い、道を尋ねながら歩いていた俺は、首尾よく霧島診療所に辿り着く事ができた。だが、あの時はまさか、あんな騒ぎになるとは、まさか夢にも思わなかった。




「御免ください」

 診療所の中に入りながら、俺は中の人間に聞こえるように声をかける。小さいながらも、こざっぱりとしているのは、まあ、医療機関なら当たり前のこととしても、ここの主の性格を現しているとも感じた。

「どうかしたのかね」

 聞こえてきた声のほうに顔を向けると、ひとりの女医が、奥から出てくるところだった。が、その姿を見て、これが本当に医者なのか?と思ったことも確かだった。

 すらりとした長身に、鋭さをにじませる目元。そして、腰まであるような長い髪は、藍で染めたばかりの絹糸のような光沢を放っている。しかし、『通天閣』と達者な筆字体で書かれたロゴ入りのTシャツと、タイトなミニスカートの上に白衣を羽織ったと言う身なりは、医者と言うより、まるで、医者の仮装のようにも見える。

 なるほど、これが、神尾の言っていた、『美人姉妹』の片割れなのだろう。だが、霧島佳乃と彼女に、姉妹としての共通点を見つけようとしても、髪質以外に、それと言った類似点が無い。ともかく、そんな益体も無い思考を隅に押しやると、俺は、彼女に要件を告げることにした。

「お忙しいところ失礼します、私はフリーランスのカメラマンをしている者で、南風原宗玄と言う者です」

 なにぶん、約束もなしに訪ねた以上、失礼のないよう言葉を選びながら名刺を差し出す。彼女は、受け取った名刺を胡散臭そうに眺めた後、愛想のかけらも無い口調で切り返してきた。

「・・・・・・カメラマンと言うことだが、うちに何の用だね?ここは、取材を受けるほどのものは無いのだが?すまないが、急に訪ねられても困る」

「はい、連絡もなしにお訪ねしたことについてはお詫びします。実は、先日、こちらの霧島佳乃さんに、写真をお渡しする約束をしていたので、こうしてお伺いさせていただいたわけです」

「・・・・・・佳乃に?」

「はい、お住まいは、こちらだとお伺いしたものですから・・・・・・」

 ・・・・・・どうも、俺はここの主に歓迎されていないようだ。予想していなかったわけではないが、これは少々面倒なことになりそうな気配が漂い始めてくる。

「なるほど、しかし、私はそんな話、誰からも聞いてはいないが」

「ですが・・・・・・」

 しまった、これは決定的だろう。俺は、疑われている。いや、そもそも、見ず知らずの男が訪ねてきて、疑われない方がおかしい。これは、日を改めるか、あるいは、物だけを置いて、引渡しを依頼するか。この状況においては、後者しかないだろう。これ以上取り繕っても、この女医の疑念を晴らすことは、容易ならざる空気が立ち込めている。

「いえ、わかりました。では、お手数をかけて申し訳ありませんが、佳乃さんに、こちらをお渡し願えませんでしょうか」

「断る、それは持って帰ってくれ」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 まさしく、取り付く島も無い彼女の言葉に、俺は絶句するしかなかった。初対面で、よくもこうまで嫌われたものだ。

「まっとうな用事があるのなら、それなりの対応をしてもらおう。いきなり訪ねてきた挙句に、妹に会わせろと言われて、はいそうですか、と言えるわけがあるまい」

「そのことについてはお詫びします、ですが、私も、この写真を差し上げると約束したんです。せめて、写真だけでも、佳乃さんにお渡ししていただけませんか」

「・・・・・・何度も言わせないで欲しいな、しつこいにも程がある」

 次の瞬間、俺は、自分の目を疑った。彼女が白衣の中に手を入れたと思った瞬間、彼女の手には、数本のメスが、忍者の用いる苦無よろしく、危険な光を放っていた。しかも、これ以上ないほどに目が据わり、冗談でしているとは到底思えない剣幕だった。

 ・・・・・・・・・この女、狂人か!?

 どこの世界に、初対面の人間に向かって、刃物をちらつかせる奴がいる。いや、初対面などにかかわらず、一歩間違えれば、警察沙汰になってもおかしくないような行為を、臆面も無くしてのける奴があるものか。

「人の妹の名を、何度も馴れ馴れしく口にしないでもらいたいものだな。カメラマンとは言うが、保護者になんの断りもなく話を進めるなどと、なんでも自分の思う通りに事が運べるとは、思ってもらいたくはないな」

 なるほど、俺が完全に疑われているのはわかった。おおかた、小娘を食い物にする、いかがわしい出版社か、その類のものの人間と思われたのだろう。

 ここで引き下がるのは、彼女の誤解を認めてしまう形になる。そうなる以上、いささか業腹ではあるが、向こうがこちらを、不審者と頭から決めかかっている以上、説得や交渉を続けるのは、時間の無駄に思えてきた。そもそも、医者ともあろう者が、人に刃物を突きつける時点で、既に普通ではない。正直な話、もはや係わり合いになりたく無くなった。

「・・・・・・わかりました、お騒がせして、大変申し訳ありませんでした」

 それだけ言い残すと、俺は、もう後も振り返らず、この診療所を立ち去った。




 今まで、何事も無かったことに慣れきってしまったせいか、さっきの騒ぎは、腹が立つというより、やっと目が覚めたような気がする。これまでにも、取材中のトラブルなどいくつもあった。今までが、スムーズに行き過ぎただけだ。今のことにしても、途方にくれるほどのものではない。

 ただ、困ったのは、あの霧島佳乃という少女に、写真を渡す手立てのひとつが消え、最終的に、本人に直接会って手渡すしかない。と言う状況になってしまったことだ。

 幾ら小さい町とはいえ、表に出れば、すぐに目当ての人間に出会えるほど小さいと言うわけでもない。学校の制服らしきものを着ていたから、それを手がかりとして学校を見つけ、その近くで待っていれば、それも不可能ではないだろう。

 しかし、それをすれば、ただでさえ見かけぬ顔の男が、ずっと学校の前に張り付いていると言う、いささか好ましくない絵面が出来上がる。そうなれば、あの診療所の女医ならずとも、この町に人間が、俺に対してどのような感情を持つかわからないほど、世間に疎いつもりも無ければ、必要以上に好意的な解釈もしていない。

見かけはどうあれ、頭の中身は子供かそれ以下でしかない少女達が、自分の財布を泡銭で膨らますために、自ら進んで大人の欲望の捌口になろうとすると言う、そんな狂った常識が、さも当然のようになりつつある昨今だ。

 カメラマンと言う職業が、それらの接点を否が応にも近づけてしまう。だから、あの女医の懸念もわからぬではない。そもそも、他ならぬ霧島佳乃自身が、俺がヌードモデルを探しているものと勘違いしたではないか。

 結局、俺達カメラマンと言うのは、世間様から、どこかそう言った誤解を持ち続けられているのだろうか。まあ、言っても詮無いこととはいえ、それは、少し寂しい。

 ともあれ、彼女には悪いが、人を癒し救うのが務めたる聖職にありながら、誤解と肉親に対する思いが為した業とはいえ、人に向かって本気で刃物を向けるような狂人のいる場所になど、二度と近寄るつもりは無い。

 まあ、これも経験のひとつとして、いい加減腹の底に収めておくことにする。こんなもの、何度思い返した所で、不愉快なだけだ。

 とりあえず、気持ちを切り替えて、もうひとり、写真を渡さなければならない人間がいることを思い返す。遠野とかいったが、彼女とは、あの廃駅に行けば会うことはできるだろう。

 そうと決まれば、いつまでも子供のように拗ねていることもない。俺は、記憶をたどりながら、駅への道を歩き出した時だった。

 この町の商店街らしき通りで、一軒のスーパーマーケットの前を通りがかった時だった。ひとりの中年の女性が、なかなかに半端ではない大荷物を運ぼうとしているのが見えた。みたところ、それらは米袋のようだが、あれでは、女性の力では分が悪すぎる量だろう。

「よろしければ、荷物を運ぶのを手伝いましょうか?」

 俺の申し立てに、彼女は一瞬驚いたような表情を見せた。まあ、当然と言えば当然か。

「余計なお世話かもしれませんが、大変そうに見えたものですから、つい」

「そ、そうですか・・・?では、お願いしていいでしょうか・・・・・・」

「ええ、任せてください」

 さすがに、女性の力では、これだけの大荷物は、それこそ文字通り、荷が勝ち過ぎていたのだろう。彼女は、汗の浮かんだ顔に、微かな安堵の表情を浮かべながら、俺に向かって深々と頭を下げていた。

 そう、大げさに感謝されるようなことではないのだが。少し、照れくさい。




 あの女性と別れた後、俺は、再びあの廃駅へと足を向けた。連絡のとりようが無かったので、行っても遠野が居るかどうかはわからない。だが、しばらくあそこで待っていれば、まあ、会えないことも無いだろう。と、幾分楽観的に考えることにした。

 そして、やがてすると、見覚えのある建物が見えてきた。あの神社でもそうだったが、ここも、周囲を林に囲まれているだけあって、蝉の声が凄い。だが、うるさいとか耳障りという気はまったく起こらない。

 すぐ目の前に山々が控え、抜けるような青空と、雄大な入道雲。まさに、夏と言う季節にとって、無くてはならない要素が、全て揃っていると言ってもいいその風景は、自分の中の何かが、肉体と言う枷を振りほどいて、大きく広がっていくような心地良ささえ感じさせる。

 かつては、ここを訪れ、あるいはよその町へ出かける人々で賑わったであろう、駅前の広場を歩いてみる。が、当たり前と言えば当たり前だが、人の気配がまったく無い。どうやら、遠野はここにはいないようだ。

 まあ、遠野とて、四六時中ここに入り浸っているわけでもなかろうから、俺は、駅前のベンチに腰を下ろすと、ここで少し休ませてもらうことにした。なにしろ、今までずっと歩き通しだったと言うこともあるが、あの診療所での騒動では、正直、精神的な疲労を被ったと言うのもある。

「さて・・・・・・、今日は遠野、来るかな・・・・・・」

 視界一杯に広がる山々を眺めながら、誰に言うでもなしに呟いた瞬間、俺は、首筋にチリチリとした何かを感じたと同時に、腕を振り上げた。

「にょわっっ!?」

 聞き覚えのある奇声が聞こえると同時に、ちょうど、俺の後頭部をガードする形になった右腕に、決して軽くない衝撃が走る。

 またか。俺は、心底うんざりした気分を抱えながら、ベンチから立ち上がり、声の主の方を振り向いた。

 すると、思ったとおり、そこには、みちる、と言う名の少女が、驚きと悔しさの混じった表情で、俺を見上げている。

性懲りも無く、人に奇襲を仕掛けたこともさることながら、自分の行動に対して、まったく悪びれず、それどころか、攻撃的にこちらを見上げている姿に、俺は、柄ではないと百も承知ながら、いわゆる『大人の義務』を果たすことに決めた。

「また、お前か」

 俺の問いかけに、当然、みちるは何も答えない。

「俺が、何をしたと言うから、こんな真似をする?」

 やはり、何も答えない。ただ、俺を睨みつけるだけだ。

「自分は子供だから、何をしても笑って許してもらえると思っているのか?」

 あまりにも意固地なその表情に、俺もいい加減うんざりしつつも、言葉をつなげる。

「今までは、それで通って来たかもしれんな。だが、世の中、そんな優しい人間ばかりじゃない。もし、俺がものの加減のわからない、凶暴な人間だったら、お前は、自分のしたことについて、どう後始末をつけるつもりだったんだ?」

「う・・・・・・・・・」

 敢えて、極端過ぎるたとえを引き合いに出してみたが、微かに動揺の色が揺れた、その大きな瞳の様子から、幾分、俺の言わんとすることの意味が浸透したらしかった。

「まあいい、恐らく、お前は今までそうでない人間と言うのを見分けて、そういった悪ふざけをしてきたんだろう。だがな、お前のそう言った行動が、お前だけでなくて、お前の周りの人間の印象まで落としているとしたら、どうする?」

子供相手に大人気ない、と言う向きもあるのは承知だ。しかし、やっていい事と悪い事の区別すら教えようともせず、『子供は自由奔放に』と言う理屈は、申し訳ないが、俺は賛同しかねる。

人として必要な道理も説かず、ただ野放図なままにしておくなら、それは、存在を尊重しているのではない、存在を無視しているのと同じだ。

別に、正義の味方を気取るわけではないが、生理的に受け付けないものは受け付けないのだから、こればかりはどうしようもない。

それに、正直言えば、あの診療所での一件が、まだ幾分尾を引いていたと言うことも、否定しようの無い事実だ。あんな大人を、これ以上世に出さないように、俺達大人が、無駄であろうと徒労であろうと、先人から語り継がれてきた、人の道理を説かねばならない。

「うみゅぅぅ・・・・・・・・・・・・」

 見ると、みちるの表情に、わずかな怯えが浮かんでいる。少し言い過ぎたか、と言うよりも、俺も、知らず知らずのうちに、険しい表情を張り付かせてしまっていたらしい。

「まあ、いい。ここに座れ」

 俺は、ベンチに腰を下ろすと、みちるにも腰掛けるように伝える。そんな俺の言葉に、みちるは、幾分緊張した面持ちで、俺を警戒するように、微妙な距離を置いてベンチに座った。

「とりあえず、話しておきたいことがある。こいつを食いながらでいい、聞け」

 俺は、バッグの中から、武田商店から買い置いてあった菓子パンをひとつ、みちるに差し出した。

「遠慮はいらん、取っておけ」

 とりあえず、根気強く手を伸ばしたままにして置く。そして、それからもう少し時間をおいた後、みちるは、ようやく俺の手から菓子パンの袋を受け取った。どちらかと言うと、根負けした、と言うか観念した。といった感じではあったが。

「た、食べるぞー!?」

「ああ、食え」

「ほ、ホントに食べるからなー!?」

「だから、そう言ってるだろう」

「うみゅう・・・・・・」

 妙な声を漏らしつつも、菓子パンの袋を開ける音が聞こえてくる。そして、もそもそ食べ始めた気配を確認すると、俺は、益体もないこと、とは知りつつも、話の続きを始める。

「お前がしていることは、自分にとって、大切なものを守ろうとしているんだと、俺は思っている。違うか?」

 当然答えは無い、だが、初めから返事など期待していなかったので、そのまま続ける。

「自分にとって大切な物、場所、人。お前にとっては、ここや、遠野がそうなんだろう。そして、俺は、その大切なものに、土足で踏み込む悪人。と言うことになるんだろうな」

 みちるは、俺の話など関係ない、といった素振りでパンを口に運んでいる。

「まあ、それならそれでいいだろう。誰しも、自分の大事なものは、何としてでも守りたいと思うものだし、人間なら、それは当然あってしかるべきものだ」

 隣から伝わってくる気配は、やはり、相変わらずだ。

「だがな、お前はそれでいいだろう。だが、お前の側にいる人間は、お前が無分別な力を奮うことをどう思うかな。そして、お前の勇気の標的にされた人間は、お前が守ろうとした大切なものに、どんな感情を持つかな」

 俺が言葉を途切った拍子に、思い出したような蝉時雨がなだれ込んでくる。

「誰もがお前を理解できるわけじゃない、現に、俺もそうできるかどうかはわからん。大人は、見かけほど賢くは無い。だが、まるっきり馬鹿というわけでもない、がな」

 蝉の声と夏の青い空気、これ以上ないくらいに満ち溢れながらも、決して、俺と、みちるの存在をかき消してしまうことは無い。

「知らずにお前の聖域に踏み込んでしまった、そして、その結果、お前の攻撃を受けることになった。だが、それが誰であれ、暴力を加えられて喜ぶ者などいない。お前に不快感を抱いた人間は、同様に、お前の大切なものをも不快に思うかも知れん。口にも態度にも、それは出さんだろうが、な」

 ほんの一瞬だが、みちるの気配が止まった。

「俺は、たまたま遠野と接点があった。昨日今日会ったばかりの遠野を、俺がどうこう言う筋合いじゃないが、それでも、遠野が、今時珍しいくらい、折り目の正しい人間だということはわかる。だから、お前に対しても、遠野のつながりということで、腹を収めることはできる」

「・・・・・・南風原宗玄の話、難しい、全然わからない」

「そうか」

 みちるの、もっともと言えばもっともな反応に、俺はつい苦笑を漏らす。確かに、子供には難しかっただろう。

「なら、解りやすく言おう。お前は、遠野やこの場所を守っているつもりだったろう。だが、お前は守られているんだ。遠野や、この場所に。

 人はなぜ言葉を持っていると思う?人は、まず言葉ありき、だ。力を振るう前に、言葉があっても、俺はいいんじゃないかと思っている」

「みちるが・・・・・・悪いって言うの」

「言い方が悪かったかも知れん。だが、俺はな、お前が、力の使い所を間違える人間になって欲しくないだけだ」

 子供相手に、かなり容赦の無い物言いをしたということはわかっている。だが、いつかは、誰かが言わなければならないことだ。無言のまま、弾かれたように駆け去っていく、悔しさの滲む背中を見送りながら、俺は、心の中で、一言、みちるに詫びた。




「・・・・・・で、写真のほうは、渡せたんかいな?」

 正直、ものを言うのも億劫だが、家主がそう聞いてくる以上、無視を決め込むわけにもいかない。

「いや・・・・・・駄目だった」

「ま、そんなとこやろな。大方、メスでも投げつけられて、泡食ってトンズラしたんとちゃうか?」

 かなり遠慮の無いものの言い方だが、事実だけに始末が悪い。

「で、飯ものど通らへんほど、今日はヘコんでる。と、そんなとこかいな」

「そうだ」

 もうなんとでも言えばいい、今日は、正直疲れた。一方で女衒紛いのカメラマンにされ、一方で、他人の子供相手に、柄にも無い説教を垂れて。もう、いい加減うんざりだ。

「そんな時ゃ、これに限るで」

「また酒か」

「せや、なんかこう最近、宗玄がいてるようになってから、こいつがめっちゃ美味くてなぁ。ここんとこ全然やったのに、また晩酌癖がつきそうやねん」

「俺のせいか」

「せや、アンタのせいや」

 口では、到底神尾に敵わない。とっくにわかりきったことではあるが。

「ほい、ぐいっといきや。やなことみんな忘れて、明日また頑張ったらええねん」

 俺は、神尾が差し出したグラスを一気にあおった。昼間のもやついた何かを消し去れるなら、この際酒でもなんでもいい。

「そうそう、アンタが撮ってくれた写真な。うちの子供達、ごっつ喜んでたで」

「・・・・・・・・・写真?」

「せや、園長に頼み込んで、額縁まで用意しとった甲斐があったってもんやで。他のちんまいのは、アルバムに入れて、みんなで見たんやけどな。みんな、ワイワイキャアキャア、ホンマ賑やかやったで」

「そう・・・・・・か」

「せやで、今日はえらい目にあってヘコんだかもしれへんけど、アンタが撮ってくれた写真で、子供ら大勢、喜んでくれたんや。もっと自信持って、胸張りや」

 あの神尾が、これだけ言ってくれるということは、帰ってきてからの俺は、相当情けない顔をしていたのだろうか。

「宗玄、なんやったら、霧島さんとこの写真、うちが話しつけたってもええんやで。少しは知った仲やさかい、今度は、悪いようにはせんはずやで」

「そうか」

 神尾が気を使ってくれたことは、正直に有難かった。しかし、このまま素直に引き下がる気になれないのも、また確かだった。

「気持ちは有難い、だが、俺がしないといけないことだ」

「そうかいな、ま、いつでも言ってきぃや。でも、意地見せるんもええけど、アンタの仕事に障らん程度に頑張るんやで」

「ああ、そうしよう」

「・・・・・・まったく、悟ったような顔しとるクセに、変に頑固なとこもあんねんな。ま、そんくらいのほうが、ウチは好きやねんけどな」

「そうか」

「ま、ひとつ頑張ってみぃや。ウチは応援したるさかいな」

 神尾は、そう言いながら笑うと、空になった俺のグラスに酒を注ぎ、そして、今日のところは持ち帰ってきたというアルバムを、卓袱台の上に広げ始めた。

「ホンマ、よう撮れとるで。園長先生が、卒園アルバムに使いたい言ぅとったもんな」

「なら、ネガも渡そう。それで、作ってくれたらいい」

「なにシケたこと言ぅてるんや。アンタ、プロカメラマンやろ?アルバム編集なんか、写真集より簡単やろ、そんくらいしたってもええやん」

「そうだな」

 どこまでも、神尾は神尾である言葉。そして、その夜は、卓袱台の上に広げたアルバム写真を前に、そこに写る子供達の話を、ささやかな宴の供にして、俺は少しずつ軽くなっていく胸を感じながら、グラスを傾けていた。